中性の心
アルカリ性の液体が流れた。
水酸化物イオンが少しだけ多いため、弱アルカリ性。
しかし、心は酸性だった。
少女は負けた。実力は互角のはず。
剣道とは、剣の理法の修錬による、人間形成の道である。
何がいけないのか、分かっていた。認めたくなかった。
相手に感謝し、相手を敬うこと。自分の技を磨けるのは、相手があるからこそ可能。
礼節の大切さをさんざん教えられてきた。
頭の防具を外し、巻いていた手拭いを取る。揺れる長い髪。
つり目ぎみの少女は、じっと相手を見ている。口にも力が入っていた。
困り顔の相手。
「試合は男女別だから、当然だよ」
柔らかな物腰の少年が言った。体育館にいるのは二人だけ。
本来、男女別に実施される、剣道の試合。男女は体力差があるため。
「何? 私が弱いってこと?」
感情的になっている少女。
相手に頼んで模擬戦をしてもらったのに、忘れてしまったようだ。
「ルールの話だよ。アイは強い」
「その余裕、腹立つ!」
防具を外して、剣道着に袴姿の二人。ケンカはしなかった。それぞれの更衣室へ行き、制服に着替える。
夕日に照らされながら、同じ方向へ帰っていった。
「今に見てろよ。ユウのやつ」
少女は、ぶつぶつと呟きながら机に向かっていた。普段着で学校の宿題をしている。
夕食の時間になる前に、勉強は終わった。身体を動かす。
「面! 胴! 小手!」
一本を取るには、充実した気勢が必要になる。気合いのこもった発声が、有効打突には必須なのだ。適正な姿勢も必要。
ちなみに、突きは高校生以上でないと認められていない。
部屋のドアが叩かれた。
返事の後で、開けられる。
「恋の悩みなら、いつでも相談してね」
「違うよ。ご飯でしょ? お腹空いた」
母親の言葉に即答したアイ。ドアを開け放したまま、髪をなびかせて出ていった。
階段を下りて、台所に向かう。
「叫ばないでほしいな。防音じゃないからな」
「はーい」
父親の言葉に、不満そうに答えた。
三人が席に着く。いただきますと合唱が起こる。
もぐもぐ。よく噛んで食べている。
頭の中は、剣道のことでいっぱいだった。
サツマイモご飯、キノコのホイル焼き、サンマの塩焼きを平らげる。
「ごちそうさまでした」
手を合わせた少女は、食器を流し台に運ぶ。
階段を上がり、自分の部屋に入った。
隣の家を見る。すでに辺りは暗い。部屋に灯りがついている。
「宿題、苦戦してるでしょ? 教えて欲しい?」
情報端末を使って通話していた。
いたずらっ子のような笑みを浮かべた後で、あどけない表情になる。
チャイムが鳴った。
母親が対応する。ゆっくりと部屋を出た少女。
階段の上から見下ろしている。
「よろしくお願いします」
少年は、足を止めてお辞儀した。手には鞄が握られている。
「私に負けてもいいかなーって、思った?」
「関係ないよね、それ」
少女の精神攻撃は、少年には効果がないようだ。
アイは、ユウを部屋に入れた。
純粋な水は、pHが7。
水には、水素イオンと水酸化物イオンが含まれる。
水素イオン指数を、ピーエイチという。
酸性を示す水素イオン。濃度が高いとピーエイチの値は小さくなり、強い酸性になる。
「どうだ。参ったか」
「参りました」
少年は素直だった。勉強が終わり、伸びをした。
少女は満足そうな顔をしている。
「歯、磨くぞ」
「うん」
二人は二階の洗面所で、並んで歯磨きを始める。
ユウは鞄の中に歯磨き道具を入れていた。アイの指示だ。
階段から現れる人影。アイの母親が微笑んでいた。
「さっきご飯食べたばかりだから、お茶いらないよ」
「宿題は終わったので、お構いなく」
歯磨きの終わった二人に見つかり、別々の言葉を受けた。すこし考えるような表情で、まだ微笑んでいる。
「ケンカじゃなくてよかったわ。ゆっくりしていってね」
部屋にお茶を置いて、去っていった。
少女は口を尖らせている。洗面所を後にした。
少年は口元を緩めた。
「今日の勝負、どう思う?」
「どうって、学校で言ったでしょ」
「内容を言ってよね」
少女には色気がなかった。部屋にも、可愛らしい物がない。
かといって、人類の平和繁栄を考え続けているわけでもない。何かが足りなかった。
「こだわりすぎじゃないかな? 勝ちに」
「昔は泣き虫だったくせに、いつのまに、こんな偉そうに」
「昔? アイだって――」
「やっぱりなし。言わないで」
ユウの言葉を遮った少女。困ったような顔をしていた。
少年が帰る。
少女は身体を動かした。声は出さない。
お風呂に入り、出て、長い髪を乾かした。自分の部屋に戻る。
隣の家を眺めた、パジャマ姿のアイ。
窓から見える景色は、昔よりも遠くに見えた。つり目ぎみの目がすこし細まる。
「正々堂々と勝負して、勝つ」
イメージトレーニングを始めた。
しばらくして、ベッドで横になる。眠りについた。
隣の家の灯りは、いつの間にか消えていた。
「いってきます」
「いってきます」
「いってらっしゃい」
朝食を終えた三人。二人が家を出た。父親は、すぐに別方向へ向かう。
「おはよう」
「おはよう」
少年に声を掛けられ、少女が返した。
いつもの朝の光景。
制服姿で鞄を持っている。学校まで歩きながら、雑談する二人。
上履きに履き替え、同じ教室へと向かっていく。並んで進む。
教室には誰もいない。
二人が入ってきた。授業開始までには時間がある。
荷物を置いたアイは、席を立つ。剣道の構えをとった。
ユウは席に座り、予習を始めた。
別々の動きをしていた二人が、同時に教室を出ていく。洗面所に並ぶ。歯を磨き始めた。食後30分が経過している。
二人の日課だった。
教室の席が人で埋まる。
授業が始まり、終わる。休み時間はあっという間に過ぎた。
授業が終わり、お昼になる。
別々に分かれてお弁当を食べる、二人。女友達のグループと、男友達のグループ。
お互いに会話はない。
昼休みが終わる前、洗面所に向かうのは同時だった。
いつもどおり。
今日は剣道の練習がない。
放課後、女子生徒たちはおしゃべりしていた。三人いる。
「ユウくんと、進展あったの?」
「何回戦っても、勝てないんだよね」
悲しそうな顔のアイ。頭の中で戦っている。勝ち筋が見いだせなかった。
友人たちは、残念そうな表情を見せる。
「積極的にいけば、魅力に気付いてくれるって」
「攻めるのはいいけど、魅力ってなに?」
少女は分かっていなかった。
自宅で勉強をする。
気付くと、見ていたのは隣の家。剣道のことが頭から離れない。
もやもやとした気持ちを抱えていた。
数日後。
少女と少年は体育館にいた。傾いた日が差し込む。
申し込んだ勝負は、すぐに受けられた。即答だった。
剣道着と袴の上に防具を付けた二人。向かい合っている。
二歩進んでお互いに礼をし、三歩進む。片膝を床に着けて、立ち膝で上体を起こして、姿勢を正す。
『始め』
本来は審判員の言葉を、二人同時に言った。
立ち上がって構える。ここには二人しかいない。
男女は体力差があり危険なため、試合は認められていない。よい子の皆さんは真似しないでください。
竹刀が振り下ろされる。
「面!」
気勢も十分。しかし、相手の竹刀に防がれた。
攻めるアイ。防具の決められた部分を的確に狙う。
ただ狙うだけではない。竹刀の先端を当てる必要がある。長さは、つばから剣先までの、約3分の1。
打突を続けた。
ユウは、あまり攻めてこない。
少女の感情が爆発した。乱れる構え。
「うるさいのがいなくなる、って思ってるんでしょ!」
「急に、どうしたんだよ」
アイは、叫んですぐ攻撃を当てた。
礼節を大切にする剣道で、やってはいけないことをしていた。試合なら、ポイント取り消しは確実。
「どこの学校にいくのか、教えてくれないし」
「もっと勉強しないと、一緒の所にいけないんだよ」
言った後で、ユウは左に人影を見た。アイも気付いて、右を見る。同い年くらいの少女がいた。制服ではない。
顔を見合わせる、つばぜり合い中の二人。
「嫌いなら、はっきり言ってよ」
少女は攻撃を続けた。心が乱れている。
「嫌いなら、勝負に付き合わないだろ」
少年は叫んで、すぐ攻撃を当てた。
「彼女を連れてきて、そんなこと」
「知らない人だよ」
すぐに黙る二人。いつのまにか、三人目の姿がない。
誰もいない、体育館の端。
二人は言い争うのをやめた。真面目な勝負が繰り広げられる。
有効打突を当てたのは、少年。
模擬戦は終わった。
防具を外した二人が、あちこち探しまわる。しかし、ほかに誰もいなかった。
「だから、彼女なんかいないって」
「二人一緒に、夢でも見たのかな」
「剣道以外でも色々話そう。昔みたいに」
「もうっ。昔の話はいいでしょ」
長い髪の少女は、勝てなかった。
だが、不純物はない。心は澄んでいる。少年に感謝を伝えた。
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