デオキシリボ核酸
DNAと呼ばれるもの。
二重らせん構造。一本ずつが鎖状の分子構造をしている。片方の鎖が保存用で、もう片方が転写用。
ほとんどの生物が細胞内に持つ。遺伝情報を伝えるために。
設計図のようなものだ。
アデニン(A)とグアニン(G)。プリン塩基。
シトシン(C)とチミン(T)。ピリミジン塩基。
4種類。
片方の鎖から伸びたAがTと繋がり、その上ではGとCが繋がる。
そんなシンプルな方法で、多様な生物が形作られている。
人間の遺伝情報は、すでに解読されている。
しかし、どんな情報が入っていて、どう働いているのか。全てが明らかになっているわけではない。
染色体と呼ばれる、情報のかたまり。
細胞核内で24種のDNAに分かれている。それらは、遺伝情報の一セット。
ヒトゲノムである。
男がDNAを見ていた。
走査プローブ顕微鏡という、特殊な顕微鏡を使っている。
ぼんやりとしか見えない。なぜなら、二重らせんの幅は2ミリメートルの100万分の1しかない。
見ることに意味はなかった。ヒントを求めていた。
研究者には、やるべきことがある。
子どもが生まれてから調べて、試して、たどり着けない。
焦りの色が見えた。それは周りにも滲む。
「休憩したほうが、いいですよ」
「うむ」
「身体を壊すと、娘さん悲しみますよ」
「だよなあ」
中年男性が表情を緩めた。
同僚も優しい顔をして、研究に戻る。
白い部屋から出た白い服の男は、大きく伸びをした。身体を動かす。
何やら、ぶつぶつと呟いている。
休憩中も考え続ける、研究者の男。
DNAが同じでも、全く同じにはならない。
たとえば、一卵性双生児。
考え方は違う。見た目も、全く同じというわけではない。
生物の情報全てが刻まれているわけではないのだ。
謎は多い。
むしろ、ほとんど解っていないと言ってもいい。不完全なデータ。
解っていることもある。
DNAには、進化の歴史が刻まれている。
母体の中で成長する胎児が、その証拠。指が形作られる際に、水かきができて、なくなる。姿が、進化の歴史そのままに変わっていく。
生まれたあとで進化の情報は使われない。
だが、隔世遺伝というものがある。昔の情報の発現だ。
調べる必要がある。この世界に、異変が起きていた。
原因不明の先祖がえり。
報告例は少ない。
二世代前なら優勢・劣勢遺伝子で説明できる。それより前になると、よく分かっていない。
最近、生命が脅かされるような変化が起きていた。
先祖の情報が発現し、環境に適応できなくなってしまう、というものだ。陸上生物が海に放り込まれるようなもの。命はない。
なんとしても原因を突き止めなければならない。
ヒトも例外ではないからだ。
男は研究していた。
娘を助ける。その一心で、ひたすら没頭する。
ミトコンドリアについても研究した。
細胞内にエネルギーを供給する、独自のDNAを持つ存在。遥か昔に共生し始めた、光合成を行う生物が元、だと言われている。
新しい情報は得られなかった。さらに研究を続ける。
季節が一巡した。
「休憩しましょう」
「ああ」
「身体を大事にしないと」
「娘が悲しむからな」
男は、言うとすぐに部屋を出た。
同僚が心配そうな顔で見つめて、研究に戻る。
部屋の外。
暗い表情で天を仰ぐ、白い服の男。
窓の外は、赤く染まっている。うっすらと赤みがかった廊下で、研究者は人影を見た。
十代半ばの少女が、男を見ていた。
夢ではない。研究者の男は、固まっている。疲れを忘れたようだった。
何かを言おうとして、何も言わず、見つめ続ける。
少女も、何も言わない。
「悪魔の使いか?」
男が呟いた。
何も言わず、表情も変えない少女。
「それとも、悪魔、そのものなのか?」
怯えたような表情の男。ゆっくりと、少女に近付いていく。
口角がすこし上がった。
「娘を助けてくれ!」
男は言った。決意に満ちた眼差し。
「この命が欲しいなら、持っていけ」
少女は、何も言わなかった。表情も変えない。
じっと見つめられている男。興奮気味で、少女の肩に手を伸ばす。
「……」
言葉にならない声を上げて、男が手を離す。
少女は、何も言わず微笑んでいた。
男の命は、まだある。
願いは叶わなかった。
中年男性は、娘の場所へと向かう。
空を見上げていた。
DNAを操作することは難しい。
第一に、小さすぎる。
物理的に操作するには、ナノマシンが必要になる。
第二に、解っている部分が少ない。
ウイルスを使って書き換えることはできる。だが、原因と結果が解っていない部分には使えない。出来ることは限られる。
ヒトで試すには危険が大きすぎた。
遺伝病との闘いは、長く険しい。
男は病院に入った。
最初の洗浄を行う。
2番目、3番目の部屋を過ぎ、4番目の部屋を抜ける。
出てきたときには、酸素マスク姿。
中は、外とは違う。人間が呼吸をすることはできない。一つのフロア内の環境が、全て外とは違う。
すこし悲しい顔をしていた父親は、表情を緩めた。
個室に娘の姿が見える。
ヒトの定義からは、まだ外れていない。
「ごめんな。力になれなくて」
「謝らなくていいよ」
十歳くらいの少女は微笑んだ。
元気そうに見える。流れるようなロングヘアに、長いまつげ。
可愛らしい服を着ている。
「今日ね、新しい子が来たの」
「聞かせてくれるか?」
「うん!」
楽しそうに話す娘。父親も笑顔を返す。
遺伝病患者は、徐々に数を増やしていた。
娘は普通の人間のように見える。
ほかの部屋にいる患者も、変わったところは見られない。
普通の人が、普通に過ごしている。当たり前の光景だった。
赤く染まる部屋の外。
夕方ではない。
朝でもない。
この世界では、赤いのが普通だった。皆、ほかの姿を知らない。
外の動物たちも、植物も、普通に生きている。
患者たちは、外に出られない。
外では、生きることができない。
汚染されているからだ。
外の人間たちは、進化している。汚染に適応している。
父親が娘を抱き締めた。
娘も、無邪気な笑顔で応じる。
脳波コントロールを使う父親。3本目の腕を動かし、娘の頭を撫でた。
自分の手で触ることに慣れていない。
外の人間たちには、毛がなかった。
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