第5話 相棒をポケットに
夢の終わりは、きっと何度でもやって来る。ならばまた、何度でも夢を見れば良い。大人になった今ならそう言い切れるが、幼いうちは、そんな余裕が無い時もある。
中学生の俺が現実に引き戻されたのは、自分も含めて、誰のせいでも無かった。俺はあくまでも現実を生きている。
「お前は、何がしたいんだ?」この世界で生きていくためには、この質問からは決して逃れられない。死んでから考えようなんていう甘いスタンスでは、中学の進路指導室の中でさえもやっていけなかった。
俺はその冬、透明な自分のドッペルゲンガーと日々鼻づらを突き合わせて、メビウスの輪じみた迷路に陥っていた。「お前は、何がしたいんだ?」ええと、勉強? 「お前は、何がしたいんだ?」だから、進学? 「お前は、何がしたいんだ?」わかっている。馬鹿だし、あまり良い高校は向いてないよな? 「お前は、何がしたいんだ?」ええと、それは…………。
間の悪いことに、そんな折に父さんが家に帰って来た。父さんはうだうだと足踏みする俺を見るなり、当たり前のように俺の進路面談へ乗り込んでくると、あたかも商談でも進めるかのような調子でザクザクと俺の志望校を進学校に決めてしまった。
反抗期? なにそれ、美味しいの? 覚えたての馬鹿げたネットスラングが右から左へ頭をよぎる中、俺は諾々と父さんに従った。従うしかなかった。父さんの語り口が巧妙だったせいで、表面的には俺が自発的に、地域一の進学校を望んだような形になった。
不満は無かった。確かに、自分には荷が勝ち過ぎる難度の学校に願書を出すのは気が引けた。だが、だからと言って反対する理由も見つからなかった。そもそも、どこへ行きたいだなんて希望はこれっぽっちも無かったわけで…………それでいいのかなと、悩んではいたけれど…………願書の宛先が変わったぐらい、なんのことは無かった。
「お前なら大丈夫だ。努力しなさい」
父さんが面談の最後に俺の肩を叩いた。つられて、担任の先生が追い打ちをかけた。
「ミナセ君の遅刻は、家が遠いせいもあるでしょう。これさえ気をつければ、ミナセ君の普段の態度ならば、全然狙える範囲ですよ。…………こと勉強に関しては、ヤガミ君に劣らない、努力家ですからね」
誰も彼も、一体俺の何を見ていたんだろう。俺が努力家? ただ「嫌だ」と言えないだけで、目的も無く学校と塾に通っているだけなのに。…………成果なんて、微塵も出てないのに、どうして嘘を塗るんだ? 「家が遠いから遅刻した」? どうしてそんな、聞こえが良い風に訳せる?
俺は。
「…………はい、よろしくお願いします」
俺は、全てを飲み込んで、静かに頭を下げた。善意だと知っていたから、他にしようがなかった。
自分はダメなヤツなんだなという諦観が、いよいよ強まってきていた。ヤガミと比べてだけでなく、他の誰と比べても、俺には何かが欠乏している。自分の内の空白が徐々に拡がってきているのが、ひしひしと感じられた。そしてそれが最早、「詩」では…………いや、他の何によっても、埋められないということも。
俺は自分がイモリなんだか、トカゲなんだか、さっぱりわからなくなった。馬鹿言ってんじゃねぇ、お前は人間だと、何度も自分に言い聞かせようとしてみたけれど、自分の愚かさが身に染みるばかりだった。
そうして俺は、だらだらと学校に通い、塾へ行き、図書館には足を運ばなくなった。代わりに何をしていたのかと言えば、ロクでもないことに、酒を飲んでいた。
俺は父さんの書斎からウィスキーを、グラスにほんのちょっとばかり頂戴してきて、舐めた。最初は喉が焼けるような感じがして、すごく不味かったが(今から思えば、何て罰当たりな)、そのうちにあの何とも言えない、甘いような、爽やかな香りが癖になって、美味く感じられるようになった。
父さんも、アルコールの酩酊も、まだ少し恐かったから、あまり量は増やさなかったものの、手当たり次第に色んな種類を試していった。父さんが好きだったので、封の空いているものをかなり贅沢に選べたのだ。
今から思えば、ちっぽけな反抗心に他ならない。いっそ溺れるまで飲んでやろうかとも考えた。酒がもったいなくて、できなかったけど。
パソコンを開いても、もう何も面白くなかった。自分からページをめくっていくことが億劫だったし、苦痛ですらあった。どうしても知りたいことなんか、何一つ無かった。
呆れて電源を落とすと、俺は小学生の頃からずっと使っている相棒のカッターを手に取った。カチカチと適度に刃を伸ばしたら、その辺にある紙へ添わせる。後はもう何も考えず、全部、黙々と正方形に整える。メモ帳も、裏紙も、進路希望調査のプリントも。何もかも、折り紙に変えてしまおう。
紙を切り裂く爽快な音と、灰色の刃の鈍いきらめきが気分を落ち着かせる。延々と続けていると、催眠術みたいだった。心が宙に浮いて、チカチカしたモニターの残光がゆっくりと遠ざかっていく。
折り紙は鶴にしたり、風船にしたり、小舟にしたり。レパートリーは少なくとも、どれか一つ作れれば満ち足りた。
気が済んだら、適当なカバンの中か、でなければ上着のポケットの中へカッターを放り込む。学校でも塾でも、便利で頼りになる相棒とは常に一緒だ。折り上がった鶴だの玩具だのは、妹にあげるか、即ゴミ箱へ。誰も傷付けない、ごく平和的なストレス解消方法。可哀想なのは、ゴミ箱の中でなおも健気に羽を広げる鶴だけ。
綺麗だったはずのものが、どんどん灰色になっていく。その止め方はネットのどこを探しても見つからない。むしろ、ものは漁れば漁るだけ色味を失っていく。日に日に増えていく広告も、致命的にウザかった。
とある真夜中、革命的でセンチメンタルな、息が詰まるぐらいに繊細なピアノの音色を聞きながら(タイトルは忘れてしまったけれど、今でも時々聞きたくなるような曲だ)、ロシア語のラベルが巻かれた酒を飲んでいたら、携帯が鳴った。
ヤガミだった。
「…………寝てた?」
「寝てた」
「嘘吐け。そんな声じゃない」
「寝ようと思ってたんだよ。何の用?」
「別に。暇そうなヤツにかけた」
「…………切っていい?」
「あのさ」
「何?」
「死にたくなったことって、あるか?」
不意を突かれて、俺は口を噤んだ。
透明な、水みたいに澄んだ濃い酒を一口飲んで、それから答えた。
「…………無いけど」
「死んだら、どうなるんだろうな?」
「何だ、酔ってるのか?」
「俺は
「知らない。…………何も無いんじゃないか」
「何も無い」
「ああ、全部終わり。ただの無」
「天国とか、生まれ変わったりとかは?」
「子供みたいなこと聞くなぁ。…………あってもいいだろうけどさ」
俺はもう一口分、グラスを傾けた。
「無い、って思ってた方が、気が楽じゃん? 裏切られる心配が無くて。後腐れなくてさ」
言うとヤガミは少し間を置いてから、
「…………そう、かもな」
とだけ、呟いた。
ヤガミが、そして俺自身が、あの時どれだけ本気だったのか。それは永久にわからない。俺の景色に残るのは、くすんだ丸いおぼろ月と、子供には少々強過ぎた、悲しいぐらいに透き通った酒の揺らめきだけだ。
働きづめのヤガミのおばさんが職場で倒れて、ヤガミが学校を早退したのは、次の日だった。
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