第6話 カーテンの奥

 天気が変わるように、人生の色合いもくるくると変わっていく。俺も中学生だった頃から、今に至るまで、地味ながら変わってきたと思う。自分の酒は堂々と自分で買いに行けるようになったし、二日酔いにならない飲み方も覚えた。家族との距離の取り方も上手くなったし(妹のお弁当を作ったりね…………)、自分の空っぽとの付き合い方は、未だによくわからないが、まずまずのところで落ち着いている。


 生きていると、本当に色んなことが起こる。俺のバイト仲間にも、結婚したり、子供が生まれたりするヤツらがチラホラ出てきた。おめでとうと言ってお祝儀を包む度に、財布の風通しが良くなるのにも、もう慣れてきた。


 だが当然ながら、人生は良いことばかりとは限らない。中には、どうしてそんなに…………ってぐらい、不幸な目にばかり遭う人もいる。

 俺の知る限りでは、あの優しい、ヤガミのおばさんこそが、まさにそんな人だった。


 ある時期から、おばさんを見かけなくなった。それまでは近くのスーパーや図書館(あのおばさんはよく、夜遅くまで図書館で資格の勉強をしていた)で度々顔を合わせていたのに、いつの頃からか、パタリと姿を消してしまった。俺は母さんに言われて、初めて「そう言えば」と気付いた。当時は俺も塾に入り浸りだったのだ。


 それから俺は駅からの帰路、それとなくヤガミのアパートの様子を窺うようになった。確かにいつ見ても、家のカーテンは隙間無く閉じられていた。忙しいという印象はあったが、あんなにも連日、家に人気が無いのは妙だった。


 ヤガミや、弟のソラ君はどうしているんだろうと、さすがの俺も心配した。ヤガミはおばさんが倒れて以来、グレて(あるいは、年を誤魔化してアルバイトでもしていたのかもしれない)すっかり学校に来なくなっていたので、聞き出す機会も無かった。ヤガミはともかく、あの小さなソラ君がぽつねんと暗い部屋の中に置き去りにされているのだと思うと、胸が痛んだ。


 母さんが持病の心配性を大いに発揮して、何とかヤガミと連絡を取るようせがんだ。近所では自殺だなんて噂も囁かれているらしく、尋常でない様子だった。俺は大袈裟な、と思いつつも、仕方なく電話をかけた。

 8回かけて、ようやく繋がった。


「…………コウか?」


 電話に出たアイツの、ぞっとするほど大人びた声は、強く印象に残っている。俺はヤバイかなと思いつつも、単刀直入に尋ねた。


「ああ、俺。おばさんって今、どうしてる? ウチの母さんが、気にしてる」


 ヤガミは「ああ」と、えらく気の無い返事をすると、拍子抜けするほど淡泊な調子で短く答えた。


「かえったよ」

「帰った? 帰ったって、海外の実家に?」

「…………もう戻って来ない」

「えっ、マジ? じゃあお前は今、どこにいるんだよ? あっちの家? ソラ君は?」

「…………知らねぇよ。こっちが聞きてぇぐらいだ」

「オイ、どうしたんだよ? お前は、どこにいるんだ?」

「暗いところ」

「どこだって?」

「…………。あの人さぁ、ずっと隠してたんだ。元の旦那から逃げてんの。死んだって、ずっと聞かされてたんだけど」


 ふいに始まった語りに、俺は言葉を返しそびれた。ヤガミは構わず話し続けた。独り言か、あるいは呪詛のように。


「…………あの人さぁ、いつも何も言わねぇんだよ。いっつも、独りで抱え込んでさ。大丈夫だから、っつって、何も大丈夫じゃねぇし。しょっちょう病気して倒れて、たまに死にかけて、マジで迷惑だった。

 それでも…………這って、出てって。…………必死になって、働いて。馬鹿みたいに外国の言葉覚えてさ、ロクに懐きもしねぇ知恵遅れのガキと、クソ生意気な人間のまがいもの養ってさ、挙句の果てに、何もかも奪われて、惨めに捨てられちまった。

 …………あの人さ、一体何の為に生まれてきたんだ? 何が楽しくて、生きてたんだ? 何も報われなかったじゃねぇか…………」


 怒りなのか。哀しみなのか。俺は震える声に、恐々と言葉を挟んだ。


「ヤガミ。大変なのは、わかった。でももう少し、わかるように話してくれないか? もしかしたら、助けになれるかもしれない」

「わかるように? 馬鹿言うなよ。お前、頭良いんだから、もうわかってんだろう。いつだって全部、見透かしてる。俺もお前みたいだったら…………もっとちゃんとした人間だったら、もっと早く気付けたんだ。こんなことにならなかった」

「…………どうしようもないこともある。いいから、どこにいるのか教えてくれよ」

「…………言えるわけ、ない」


 電話は途中で切られた。その後は、何度かけても通じなかった。


 俺は膨大に膨れ上がった不安を抱えたまま、出来るだけマイルドな表現を選んで、母さんに聞いたことを伝えた。母さんは卒倒しかねないぐらいに蒼褪めていたが、しばらくして落ち着きを取り戻すと、静かに、俺にヤガミ家の隠れた事情を話してくれた。ごくかいつまんだ話ではあったものの、ようやく俺にも、彼の言っていたことが理解できた。


 ヤガミのおばさんは、ひどいDVから無一文で逃げてきたらしい。途方に暮れていた彼女に、最初に声をかけたのが母さんだった。元々おばさんは心臓の病気を患っていて、その上DVが原因で、足がうまく動かなかったので、働き口を見つけるのにすごく苦労していたという。

 母さんは仕事を見つけるのを手伝い、家も探してあげた。


「セイ君のこともね…………大変では、あったの」


 母さんは躊躇いがちに話を続けていった。

 ヤガミは、おばさんの本当の子供では無かったそうだ。元夫の、前の奥さんとの間にできた子供で、虐待されていたのを見兼ねて、一緒に連れて逃げてきたのだとか。


「セイ君ね、「誘拐」されたことになっちゃってたの。だから、お母さんたちと一緒に普通に暮らせるようになるには、かなり揉めちゃって。お父さんのお友達の弁護士の方に協力してもらって、ようやく何とか今の状況を作った、っていう感じだったのよ…………」


 おばさんの苦労は、まだ続く。

 彼女の実子であるソラ君は発達障害で(これは俺も、薄々気付いていた)、しかも、おばさんと同じように、心臓に重い病気を抱えていた。その治療費がうまく工面できずにいたのを、父さんと母さんが相談して、お金を貸していたそうだ。


「ウチにいらっしゃい、って何度も言ったんだけど、ちょっと押しつけがましかったかしらね…………」


 母さんがしょんぼりと肩を落とす。俺は何も言えなかった。「見透かしてる」なんて、とんでもないことだと思った。俺が酒を盗んでフラフラしている間に、あの薄いカーテンの奥で、何が繰り広げられていたかなんて、思いも寄らなかった。知ろうともしなかった。俺はヤガミの背中しか見ていなかったと、今更になって気付いた。

 俺はリビングの明るい灯の下で、涙ぐむ母さんを見ないように、じっと俯いていた。

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