第7話 右目の秘密
店舗と繋がる扉を入ってすぐの部屋は子供部屋のようで、棚や箱のなかには絵本やおもちゃ、大きな犬のぬいぐるみなどがたくさんあった。
部屋の中央、丸いラグの上に蹲り顔を覆っている女性が、ロレンスの母親なのだろう。痛切な声で嘆く彼女の背中を、マーガレットが優しく擦っている。
二人の傍らではピンク色のフリルがついたゆりかごが微かに揺れており、その前でロレンスが呆然と立ち尽くしていた。
話しかけ辛い空気に戸惑うノアを余所に、レイフはずかずかと三人のもとへ歩み出る。
「チェンジリングか」
「チェンジリング?」
おずおずとレイフの隣へ移動したノアは、揺りかごの中を覗いて驚いた。
「なっ、え、と……これは、妖精?」
そこには人間の赤ん坊ではなく、丸太が横たわっていた。
しかし良く見れば、木の幹のようにごつごつした茶色い肌をした生き物だとわかる。丸太の中央辺りには節と見紛う目と鼻があり、手足と思われる短い枝が四箇所から生えている。
「樹木の
ゴブリンは土色がかった緑の肌をした、体長六十センチほどの頭でっかちな妖精だ。ピクシー同様いたずらを好むが性質が悪く、大きな怪我や家屋の破壊などを引き起こすことがある。
(今回のチェンジリングは普通と違って、ゴブリンが自分の子供の代わりに樹木の妖精を連れて来て、人間の子供を連れて行った、ってことね)
レイフの言葉から察しをつけたノアは、言葉もなくショックを受けているロレンスを伺う。義理の母親を宥めているマーガレットにも、動揺が色濃く現れていた。
「どうして家ばかり妖精に苦しめられなくてはならないの!」
それまで顔を覆って泣いていたロレンスの母親が、憤りを露に声をあげる。彼女は皺のある目尻から涙を流したまま、レイフに食って掛かった。
「妖精のせいで息子たちは夢を奪われ、それだけじゃ飽き足らず今度は孫まで! 一体、私たちが何をしたと言うの!?」
錯乱状態にある女性は、傍にあった花柄のガラガラをレイフに投げつける。
レイフは避けることも手を出すこともせず、額の右端にガラガラの直撃を受けた。
「レイフ! ……大丈夫?」
ノアは怪我を心配し、レイフの前髪を避けようと手をのばす。レイフはそれを拒むように手を払い、床に落ちたガラガラを拾い上げ、ゆりかごの隅に置いた。
「まず、状況を説明していただけますか。俺たちがこの店に来ている間に、妖精が侵入した気配はなかった。チェンジリングが行われたとしたら、それ以前と言うことになる」
淡々と説明を求めるレイフは、いっそ冷徹ともとれる。
だがノアは、レイフの様子に違和を感じていた。どこが違う、と上手く説明できないが、いつもはただ薄いだけの感情を、今は殺しているような気がする。
「母が言うには、急な眠気に抗えず眠ってしまい、目が覚めたら……こうなっていた、と」
答えたロレンスは途中、声を詰まらせた。母親と妻の手前冷静さを保とうとしているのだろうが、自分の子供が浚われて平気なわけがない。義理の母についているマーガレットも、顔を背けて口元を押さえていた。
(どうにかしてあげたい。赤ちゃんを助けることは出来ないの?)
今すぐにでもレイフに訴えたいが、助手になりたてのノアよりもレイフの方が経験も知識も豊富だ。状況を把握しようとしている彼の邪魔をしてはいけない。
「その眠気も妖精の仕業だろう。この部屋に残る気配からして、浚われたのは三十分前といったところか」
懐から取り出した懐中時計を見たレイフは、子供部屋に目を走らせる。
「以前お渡しした“目隠し”がないようですが?」
「あんなもの捨てたわ! 妖精に関わるものなんかこの家に置いておきたくもない!」
きっ、とレイフを睨んだ義理の母の傍で、マーガレットが複雑そうな顔をしていた。
パン屋の店内を見るに、マーガレットは妖精が嫌いではないのだろう。しかしこの一件でその認識は変わりかねない。いや、もうすでに、彼女も妖精を憎み始めている可能性は高い。
(やっぱり、赤ちゃんを取り戻さなきゃ!)
今回のゴブリンに関しては、いたずらではすまない。自分の子供ではなく他妖精を身代わりに使うことからして、強い悪意すら感じる。
「レイフ」
ノアはレイフに進言しようとしたが、それより先にレイフが口を開いた。
「あれは妖精から存在を隠せるものだとご説明したはずです。一度妖精と縁が出来た人間は、再度妖精に接触される恐れがある、とも」
孫を奪われた女性を見下ろすレイフの目は、責めているふうではない。ただ温もりの欠片もなく、影がかかっているようだ。
「っ、過ぎたことを言ったってしょうがないじゃない! それより今は、赤ちゃんを取り戻さないと!」
何故だかこのままレイフから感情が消えてしまう気がして、ノアは声をあげた。
正体不明の危機感を抱くノアをじっと見下ろしたレイフは、ややあって、小さくはない溜息を吐いた。
「私たちからもお願いします! どうか、子供を取り戻してもらえませんか!」
「お願いします!!」
ロレンスとマーガレットが揃ってレイフに頭を下げる。ロレンスの母は渋々と言った様子だったが、孫を取り戻したい気持ちに嘘はないのだろう。
レイフへ「頼むわ」と告げた震える声には、切実さが滲み出ていた。
「わたしに出来ることがあればなんでもする。だから、お願い!」
ノアも一緒になって、懸命にレイフに訴えた。
「………………」
四人分の切望を前に、レイフの顔が歪む。それは嫌気などではなく、微かな痛みを覚えているかのようだった。
皆が口を噤むなか、前髪で隠した右目に触れたレイフは、左目にしばしノアの姿を映すと、ロレンスとマーガレット、そしてロレンスの母親に向き合う。
「子供を取り戻すことは、出来なくはない」
「それじゃあ!」
安堵と期待を顔中に浮かべるロレンス夫妻を「しかし」と強めに制し、レイフは続ける。
「戻ってきた子供が異形の存在になっていても、愛せるか」
「え……」
レイフに言われた意味を考えるように、ロレンスは「異形」と小さく呟く。
「妖精界と人間界とでは時間の流れが違う。戻ってきた子供が実年齢より歳を取ってしまっている可能性は高い。さらに色濃く妖精たちの影響を受ければ、角や羽根が生えるなど、姿が変わってしまうこともある」
「そんな……」
思わず零れたノアの言葉に、レイフがふっと短く笑う。誰もが浚われた子供のことを考えていたため、自嘲めいたそれは誰の目にも留まらなかった。
「――たとえどんな姿だろうと、愛します」
確かな意思を宿した目で、マーガレットが答える。ロレンスも同意し、再度レイフに子供の救出を請うた。
レイフは逡巡するふうな間を置いたのち、長く伸ばした前髪を持ち上げる。
「これでもか?」
露になったレイフの右目は、黄金色をしていた。
それは本物の金のような輝きを持ち、レイフが瞬きをするたびにきらきらと光を返す。暗い紺色をした左の目とは、太陽と夜空ほどに色味が違う。
「ひっ!」
レイフの異様な目を見て、ロレンスの母が短く悲鳴をあげる。ロレンスもまた口元に手をあて、声を漏らすまいとしていた。
(……金色の、目)
驚きで声も出ないノアは、同じ目の色をした妖精王の息子、ラウェリンを思い出していた。
「この目は昔、チェンジリングで妖精界へ連れて行かれた際に“妖精の祝福”を受けてこうなった。……やつらにとっては祝福でも、俺にとっては呪いのようなものだが」
吐き捨てるように付け足されたレイフの独白に、ノアは胸を締め付けられた。
(ボスが言っていた、レイフが色々苦労しているっていうのは、このことだったんだ)
ロレンスたちに対して覚悟を問うような言動をとったとき、レイフはどういう心持ちだったのだろう。赤子の時分にチェンジリングで妖精界へ連れて行かれた後、どういう人生を歩んできたのか――
考えれば考えるほど、ノアはレイフを抱きしめたい衝動にかられた。ノアにはとても、レイフが幸せな子供時代を送ったとは思えなかった。
皆が黙り込み、静寂が部屋を満たすなか。レイフが静かに語りだす。
「取り返した子供は本人が望む望まざるに関わらず、妖精と深く関わることになる。異形の子供が気味悪く、たびたび起こる妖精のいたずらに辟易して後々捨てるくらいなら、今すっぱり諦めてしまった方がいい。子供のためにもな」
冷たい物言いも、自身が経験者だからこそ言えることだ。
ノアにはもう、子供を取り返してあげたい、とは言えなかった。それはロレンス夫婦にとっても、浚われた子供にとっても無責任だ。
「――それでも、私は子供を取り戻したい」
そう言って立ち上がったマーガレットは、正面からレイフに対峙する。
「どんな姿になっていようと、我が子であることに変わりはないわ。たとえ私一人でも、上の子同様、大切に育てていく」
彼女の強い双眸からは、レイフが黄金色の目を晒す前と変わらない決意が見て取れた。
「一人で、なんて言わないでくれ。僕も同じ気持ちだ」
動揺したことを恥じるように苦笑したロレンスはマーガレットの肩を抱き、二人で頷きあう。
夫婦の決意を聞いたレイフは逡巡の末、赤子の救出を承諾した。
「待ってレイフ! 本当に一人で行くの!?」
パン屋を出たレイフは早足で通りを歩く。追いかけるノアは自然と駆け足になる。
「心配しなくても俺には祝福がある。帰れなくなることもなければ、妖精界の時間の影響で余計に歳を食うこともない」
早口で答えたレイフは黒いコートを脱ぎ捨て、ノアに投げた。
「わ!?」
「さっき言った通り、お前は妖精館へ戻ってボスに報告しろ。そうすればボスが妖精館にいる木霊妖精に頼んで、ラウェリンに話を通してくれる」
「でもっ!」
受け取ったコートを抱きしめつつ、ノアは声をあげる。
レイフに着いて行ったところで足手まといになるのは明白だ。ノアには妖精の祝福はない。それでも、レイフが心配なのだ。
「…………」
ノアの足音が止んだことに気づいたのだろうレイフは、ノアを振り返り、溜息混じりに踵を返す。
「お前の仕事は他にも山ほどある。妖精館へ行ってラウェリンに連絡した後は、パン屋へ戻って夫婦についていてやれ。ついでにあの妖精嫌いのばあさんを説き伏せて“目隠し”を設置して来い。目隠しは鉄釘で染めた天井飾りだ、場所はアランに聞け」
矢継ぎ早に指示を出し、最後にノアが抱いているコートの袖を持ち上げる。
「俺が帰ったら返せ。汚すなよ」
レイフの言葉で、ノアの胸を占めていた不安がいくらか薄らいでいく。
(ちゃんと、帰ってきてくれるんだ)
約束の証のような黒いコートに視線を落としたノアは、レイフを見上げ力強く答える。
「汚さないよ。任された仕事をきちんとこなして、レイフが帰ってくるのを待っている」
「期待はしないでおく」
「ひどい!」
抗議するノアを笑ったレイフは「行ってくる」と告げて、妖精界への入り口があるという丘へ走っていく。紺色の髪をなびかせるレイフの足は、意外と速かった。
「わたしも行かなきゃ!」
不安はまだ燻っているが、レイフが帰ってきた時に失望させたくない。
レイフから預かった黒いダブルボタンのコートを抱いたノアは、大急ぎで妖精館を目指した。
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晩ご飯の匂いがすっかり消え、共用風呂の湯も冷めた頃。
妖精館三階の窓から差し込む月明かりのなかで、預かりもののコートを抱いたノアはうろうろと廊下を行き来していた。
(どうしよう。今レイフを訪ねても行ってもいいかな? それとも明日にした方が良いかしら)
単身妖精界へ向かったレイフは三時間ほどして、ロレンス夫婦の子供と共に無事帰ってきた。
比較的早い段階で取り戻せたため、多少大きくなっている以外赤子に目立った異変はないが、今後どういった影響が出るかはレイフにもわからないらしい。
子供の帰りを夫婦は泣いて喜び、レイフにとても感謝していた。しかしレイフはノアに後を託し、言葉少なにパン屋を後にしてしまった。
妖精界と人間界を行き来して疲れていたのだろう。そう考えたノアはレイフに代わり簡単な事後処理をし、何かあれば妖精館に相談に来てくれるよう夫婦と、それからロレンスの母にも伝えた。
(……やっぱり、目の事を気にしているのかな)
レイフの部屋の前で足を止めたノアは、黒いコートを抱く手に力をこめる。
ノアより先に妖精館に帰ったレイフはボスに休みをもらい、宿舎の自分の部屋にこもったきり。夕飯の時にも姿を見せなかった。
『レイフはなぁ、チェンジリングに遭ってしばらく経ってから、妖精界から連れ戻されたんだ』
レイフの心配をするノアを見かねたのか、今しがた部屋を訪ねてきてくれたドミニクはぽつぽつと昔話をしてくれた。
当時は今ほど妖精界と連携が取れていなかったこと、レイフと取り替えられた妖精が特別な存在だったため、交渉が難航したこと。
それから、レイフの両親のことも聞いた。
『どうにかこうにかしてようやく赤子だったレイフを取り戻せたんだが、目がな……妖精の祝福の影響で、片方だけ黄金色になってたんだ。レイフの親はそれを気味悪がった。
それに、たびたび妖精にちょっかいを出されるレイフのことが煩わしくなったんだろう。ついにレイフを捨てて、どっかにいっちまった』
その後レイフは妖精館で捜査員をしていた男性とその妻に養子として引き取られ、就職を期に家を出たらしい。
『レイフが妖精の存在やら痕跡を感じられるのは、あの目の影響らしい。他にも特殊な力があるらしいが、詳しくはわからん。あいつも目のことは言いたがらないからな。
オレたちはレイフがいてくれるおかげで助かっているし、あいつがどんな姿をしていようと仲間であることに変わりはない。だが、もしノアが……あいつの右目を気持ち悪いと思うなら』
そこまで思い出して、ノアは首を左右に振った。
(わたしだって、レイフがどんな姿をしていても気にならない。レイフはレイフだもの)
やはり自分の気持ちをレイフにも伝えなくては。そう決心したノアは、レイフの部屋の扉を叩くべく、片手を持ち上げる。
が、ノアの目の前で内側から扉が開かれ、エドガーが姿を現す。
「じゃあなレイフ。本当に感謝してる!」
「わっ」
慌てて後退るノアに気付いたエドガーは小さく目を見開き、苦々しく笑った。
「レイフのやつ、今あんまり機嫌良くないぞ」
「う……でも、伝えたいことがあるから!」
怖気づきそうになったノアは気を強く持ち、ぐっと拳を握る。「そうか」と目を細めたエドガーは室内を振り返り、ベッドに腰掛けているレイフに声をかけた。
「レイフ! かわいい嫁が来てるぞ」
「嫁!?」
ノアはまだ離婚届にサインをしていないため、戸籍上ノアとレイフは夫婦で間違いないのだが……ノアは無性に照れを覚えた。
「じゃあな。ごゆっくり」
頬を赤くするノアの背を押したエドガーはにやにやしながら部屋を出て扉を閉め、後にはノアとレイフの二人きりになる。
どきどきと鼓動を早める胸を持て余したノアは、部屋のあちこちに視線を飛ばす。
レイフの部屋の間取りは、ノアの部屋と同じだった。
窓際のベッドの横には、物書き机と収納が一体化したライティングビューロー。扉の横にはクローゼット。そのどれも製作されてから長い年月を経ている事が感じられる。
「あのっ……」
ようやく最初の一言を発したものの、開いた足に腕を乗せたレイフが床ばかりを見つめているのに気付き、ノアは開きかけた口を閉ざした。
さりとて、黙っていては始まらない。
「おじゃましてます!」
遅れて入室を告げたノアは備え付けの家具以外物がない殺風景な部屋を横切り、レイフのもとへ近付く。
「これ、預かっていたコート」
きちんと畳まれた黒いコートを差し出したノアに、レイフは「ああ」と答えただけで手をのばさない。顔すら上げなかった。
困ったノアは「クローゼット開けるよ」と断ってから、コートをしまった。
(……どうしよう。思った以上にレイフが静かだ)
音をたてないようそっとクローゼットの扉を閉めたノアは、肩越しにそろそろとレイフを伺う。
妖精界へ向かうレイフと別れる前――コートを預けてくれた時は、普段とそう変わらない様子だった。
妖精界で何かあったのだろうか。妖精の祝福があるとはいえ、全く影響がないわけではないのではないか……。
様々な憶測が頭のなかを飛び交うが、いくら考えたところでノアに正解がわかるわけもない。
小さく息を吐いたノアは再びレイフの傍へ行き、足元にしゃがみ込んだ。
「レイフ」
「用が済んだら帰れ」
視界に侵入したノアを――俯き露になっている黄金色の目を見られることを厭うように、レイフは横を向く。素っ気無い態度は相変わらずだが、どこか精彩を欠く。棘はあるもののその先端は尖ってはいない。
「……強がり?」
思ったままを口にしたノアを、ようやくレイフが見てくれた。
夜空に輝く月よりもなお強い黄金色の瞳と、闇より深い紺の瞳が並ぶ様は、やはり違和を抱かせる。
それでも、それがレイフなのだ。目の色がどうあれ、どんな力を持っていようとも、一緒に過ごした時間や築いた関係を脅かすほどの事ではない。
「あ、だめ!」
ようやく合った目を反らされそうになり、ノアはレイフの頬を両手で抑えた。その際思いのほか良い音がしたためすぐさま「ごめん」と謝った。
「離せ」
顔をしかめたレイフはノアの手首を掴み、引き離しにかかる。ノアは首を横に振ってそれを拒み、レイフとの距離を詰めた。
「その目のことで、レイフがどんな辛い思いをしてきたのか。わたしには想像することしかできない。それもたぶん、全然考えが足らないだろうけど」
一度言葉を切り、続ける。
「だから、レイフのことをもっと教えて。どんなことに悲しんで、どんなことで喜ぶのか。知りたいの」
「俺は――」
言いかけて、レイフは口を噤む。すぐ傍にいるノアを見つめるレイフの表情は、嫌悪やためらい、苦悩、葛藤といった様々な感情を映している。
その混沌の中でやがて、嫌悪が勝った。
「この気味が悪い目を、何度抉り出そうとしたか」
忌々しく吐き捨てたレイフは、ノアから離した手を膝の上に戻す。
「こんな話、聞いたところで何の面白味もない。嫌な気分になるだけだ」
「それでもいい。レイフのことを知れるのが、嬉しいの」
はにかんだノアは、もう顔を反らされることはないと判断し、レイフの頬から手を離した。
色の違うレイフの双眸には、ちゃんとノアが映っている。
「あ、でも言いたくないことは無理に聞かない。レイフが話せる範囲で十分だから」
「――お前は、なぜここまで俺に構う?」
レイフはさも不思議そうに、真面目な顔で言う。
「それは……一応まだ、奥さんだから?」
自分でもよくわからず、ノアは首を傾げた。助手ではなく奥さん、という言葉が先に出たことも驚きだ。
「仕事のためにお前を騙して結婚した夫に尽くすのか」
呆れたように鼻を鳴らしたレイフは、首の後ろに手をあて苦々しく笑う。
「前にも言ったが、俺はお前など」
「わー! それ以上言わないで!」
ノアは両手をのばし、レイフの口を塞いだ。
「さすがにわたしも傷つくわ。だってわたしはレイフのこと好きだもの!」
「…………は?」
零れ落ちんほど目を見開いたレイフの口から、間の抜けた呟きが漏れる。
「失礼な! わたしだって落ち込むことはあるんだから」
「いや、そっちじゃなくてだな……」
もごもごと言葉を濁したレイフは口を手で覆い、部屋の隅の方へ視線を逃す。
「そっちじゃない? …………っ!?」
何のことかと自分の発言を思い返していたノアは、髪の合間から覗いたレイフの耳が赤くなっているのに気づいたとたん、火がついたように赤面した。
「やっ、その、レイフのことは人として尊敬しているし、そういう好きであって……! 別に男の人として見たことがないわけじゃないし、妖精の嵐から庇ってくれたときなんかすごくどきどきしたけど!!」
「もういい! 少し黙れ!」
恥ずかしさを誤魔化そうと喋りたてるノアを、レイフが上擦った声で止める。
互いにあらぬ方を向いた二人は熱を持った頬が冷めるまで、言葉を発さなかった。
「……ごめん。やっぱり今日は帰るね」
ようやく落ち着きを取り戻したノアは、ぎくしゃくと立ち上がる。
「ここにいろ」
去ろうとしたノアの手を掴んだレイフもまた、ぎこちない動きでベッドの端へ移動し、場所を空けた。
「聞いてくれるんだろう、俺の話を」
赤みの残る顔をしたレイフに見上げられ、ノアは自分の頬が再び火照るのを自覚する。
レイフの手が触れている場所からも、満たされた胸からも熱が広がり、心地よい暖かさが全身を包む。
これから聞く話は決して明るくも楽しくもないだろうけれど、レイフが自分のことを教えてくれようとしていることが嬉しい。
「うん」
微笑んだノアはレイフの隣に腰掛け、更け行く夜に馴染む声に心を傾けた。
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