第5話 サンザシの指輪の主

 意気揚々と石畳の町を歩くノアの後ろを、辟易したふうな顔のレイフが追う。


「ほらレイフ、早く」

「お前が仕切るな」

「ごめんごめん」


 レイフの言葉と視線がいつもより辛辣でも、ノアは気にならない。今日はこれから、サンザシの指輪の持ち主に会いに行くのだ。


 レイフ曰く、指輪の主は犯人を見ていないらしいが、何かノアが知らない情報が得られるかもしれない。

 両親の疑いを晴らせる可能性がある以上、否応なく期待は高まる。


「まったく……」


 黒と見紛う紺色の髪の上から額を押さえたレイフは、ノアと打って変わって朝から陰鬱そうだ。


「そんなに嫌がらないでよ。レイフの邪魔はしないって」

「お前が来るだけで面倒事が三つは増える」


 重々しい溜息を吐いて、レイフがノアを追い越す。


 四つの町からなるリディーズ島の中部、それぞれの町境に接する太古の森へ向かう道は、いつしか乾いた土に変わり、周囲の景色も変わる。

 民家は消え、前方に密集した緑の木々が姿を現していた。


 樹齢数百年の木々が集う太古の森は、別名“惑わしの森”ともいう。

 森の中を歩いていたはずが、いつの間にか森の入り口に戻っていたとか、採ったはずの野草やキノコが幻だったかのように消えていたとか。不思議な現象がたびたび起こる。


(レイフにはちょっと悪いと思わなくもないけど、聞き流せない話が聞こえちゃったんだから仕方ないじゃない)


 生真面目というか少々融通の利かない性格を現したようなぴんとのびたレイフの背中に、ノアは唇を尖らせながら着いて行く。


 先日、ノアは妖精館の裏手でレイフとドミニクがこそこそと話している場面に居合わせた。その際二人の会話から「指輪」「返却」という言葉が聞こえてきたため、居ても立ってもいられず同行を申し出た。


 当然レイフは難色を示し「ダメだ」と言い張ったが、ドミニクが「これも勉強だ」と折れてくれたのだ。本当にドミニクには感謝してもしきれない。


「ノア」

「……なに?」


 森の手前で立ち止まったレイフに珍しく名前を呼ばれ、ノアの反応は遅れた。


「手を出せ」

「こう?」


 差し出したノアの右手を、レイフの左手がしっかりと掴む。


「俺が良いと言うまで離すなよ」

「わかった」


 有無を言わせぬ雰囲気に、ノアは素直に頷く。

 指輪の持ち主と落ち合う太古の森には“人間避け”が施されていると、事前に聞かされていた。この森を人間に荒らさせないために、妖精たちが特殊な術をかけているのだ。


 どういう理屈かは例の如く教えてくれなかったが、レイフが一緒に居れば正しい道を行けるらしい。けれどノア一人では惑わされ、延々辿り着けなくなってしまう。


「行くぞ」


 レイフはノアの手を引き、幹の太いナラやブナなどがのびのびと枝葉を伸ばす森に足を踏み入れる。

 とたんに、植物と土のにおいがノアの全身を包んだ。


 不規則に立ち並ぶ木々の合間からそそぐ木漏れ日は暖かく、遠くでは鳥が鳴く声も聞こえる。さわさわと拭く風も気持ちが良い。この場に満ちている空気は、さも煌めかんばかりに清廉だ。

 ソノレアには他にも何箇所か森があるが、これほどまでに清浄さは感じない。


 レイフの導きで道なき道を歩くことしばし。

 視界が開け、木立の合間に白樺のテーブルと四つのイスが見えてきた。そのうちの二つには、すでに金色の髪をした人物が座っている。

 彼らを憚ってか、レイフは小さな声でノアに耳うちした。


「妖精界側の代表と、指輪の持ち主だ。わざわざ人間の世界まで来てもらっているんだ、粗相はするなよ」

「わ、わかってる」


 人間は普通、妖精界へは入れない。人間界と妖精界とでは時間の流れが違ううえ、妖精界で迷ってしまったが最後、二度と人間の世界へは帰ってこられないと言われている。


 対して妖精はどちらの世界も自由に行き来できる。木霊妖精の力を借りれば情報の交換は出来るが、物の受け渡しとなると妖精たちにこちらに出向いてもらわなければならなかった。


(どうしよう、今になって緊張してきた……)


 ノアが人間と変わらない姿形をした妖精――エルフと会うのは、初めてだ。

 エルフは光の化身とも、神の血を引く神聖な存在とも言われている。特別神を信仰しているわけではないノアでも、近付き難い神々しさは感じられた。


 繋いでいた手が解かれ、レイフが一足先にエルフのもとへ足を進める。ノアはレイフの背に隠れるようにして、ばくばくと脈打つ心臓を落ち着かせた。


 指輪の持ち主には、聞きたいことがある。

 人に近い姿形をした妖精とは会話が成り立つものの、その分一度こじれてしまうと関係修復に時間がかかると、資料室の本に書かれていた。ここは慎重にいかなくては。


「レイフ。久しぶり」


 切り株のイスに座っていた青年が立ち上がり、柔和な笑顔でレイフを迎える。

 蜂蜜のような金色の髪に黄金色の目をした彼は、思わず呼吸を忘れて魅入ってしまうほど美しい顔立ちをしていた。


 装いは以前ノアが出会った謎の青年エムリスと同じで、身体にゆったりと黄緑色の布を巻きつけ、腰の辺りで布や紐を用いて止めているが、生地全体に細かな模様が描かれている。

 とくに気品漂う紫色の腰布などは、見る角度によって青っぽくも銀色っぽくも見えた。


「出来ればお前には会いたくなかったんだがな」


 にこやかなエルフの青年に対しても、レイフの無愛想っぷりは健在だ。けれど青年は気にしたふうもなく、「元気そうでなによりだ」と受け流している。


(なんだかこの人とは仲良くなれそうな気がする)


 ノアが直感的にそんなことを考えていると、黄金色の目の青年と目があった。


「こちらのお嬢さんは?」

「助手だ」

「は、はじめまして! わたし、ノアといいます!」


 レイフに短すぎる紹介をされたノアは、栗色の髪が浮く勢いで頭を下げる。


「はじめまして、ノア。私はラウェリン。人間界への窓口として、妖精側の代表をさせてもらっている」


 胸に手を当てたラウェリンは、わざわざノアに目線の高さを合わせ挨拶を返してくれた。

 柔らかな物腰と丁寧な対応に、ノアはいたく感動した。同時に緊張でどもった自分が恥ずかしくなる。


「よろしく、お願いします!」

「そう固くならないで。私と君はいわば同僚だ。仲良くしてくれると嬉しい」

「はいっ、あ、うん!」


 仲良く、といわれ、ノアは砕けた口調で返事をした。満足そうに目を細めたラウェリンは「それから」と言って、切り株のイスに腰掛けたままの少女を手のひらで示す。


「この子が私の妹で、サンザシの指輪の持ち主である、レイチェル」


 ラウェリンよりも輝きのある金の髪を長く伸ばし、胸元のあいたシンプルなドレスをまとった少女は、ノアを一瞥しただけですぐに視線を反らす。

 眉の辺りで真っ直ぐ切りそろえられた髪の下、ややつり気味の目はエメラルドのように綺麗な色をしていた。


 レイチェルはノアが挨拶をしても「ラウェリンが説明したからいいでしょ」と言わんばかりに何も答えてくれなかった。


(気難しそうな子だなぁ……)


 見た限りレイチェルの歳はノアとそう変わらないようだが、妖精は可愛らしい姿をしていても数十年、百年以上生きていることもある。果たして普通の女の子と同じように接していいものか。

 しかしレイチェルより年上らしいラウェリンとは普通に話して、妹のレイチェルに畏まるというのもどうなのだろう。


「レイチェルに対しても、畏まらなくていいよ」


 ラウェリンはそう言って、ノアとレイフに席を勧めた。

 ノアの悩みはきっと、そのまま顔に出ていたのだろう。そのことを恥ずかしく思いつつ、ノアはレイフとラウェリンの間に腰を下ろした。正面にはレイチェルがいるが、やはり目は合わない。


「まずはレイフ。連絡が遅くなってすまい」

「それはいい。他に言いたいことはあるが……」


 ちらとレイチェルを見たレイフは軽く息を吐き、ペアの指輪が入った箱を取り出した。


「姫。これはあなたのものか?」

「姫?」


 思わず疑問を口にしたノアに、レイフの睨みが飛ぶ。


「私とレイチェルは、どちらも妖精界を統べる王の子だ」


 顔の前で手を合わせ謝るノアの耳元で、ラウェリンがそっと教えてくれた。


(ということは、ラウェリンは王子様なんだ。確かに見た目や所作、初対面で年下のわたしにも優しい所とか、まさしく王子様、って感じ)


 一人納得するノアを余所に、盗難の被害者であるレイチェルは不機嫌さを増す。


「そうよ、それはわたくしのものよ。いつのまにかなくなっていたの。母さまにもらった大切なものだったから、大事にしまっておいたのに!」


 綺麗な顔を歪め拳を固く握る様からして、姫はかなりご立腹らしい。


(いつの間にかなくなっていた、ということは、犯人は見ていないんだろうな)


 以前レイフが「被害者は犯人を見ていない」と言っていたのは本当だったようだ。


(でも……)


 胸に痛みを覚えて、ノアは俯く。

 ノアの両親は、盗品と知らずサンザシの指輪を買い、それを娘の結婚指輪にした。けれどそれはもともと、レイチェルの母親が娘とその夫のために用意したものだったのだろう。親が娘にペアリングを贈るのは、きっとそういうことだ。


「……ごめんなさい」

「ノア?」


 謝罪を口にするノアの隣で、ラウェリンは不思議そうに首を傾げる。

 しかし反対隣に座るレイフはノアの言わんとすることに察しがついたようで、ノアに咎めるような目を向けた。


「そのサンザシの指輪、わたしの両親が露天商から買ったの」

「あなたの親がわたくしの指輪を盗ったのではなくて?」

「それは違う!」


 美しい顔に険を帯びるレイチェルを制して、ノアは続ける。


「レイチェルがいる妖精界に、人間はおいそれと行けない。だから、わたしの両親が指輪を盗むのは不可能に近いわ。何日も行方がわからなくなったり、急に歳を取ったりはしていないもの」


 レイフにかかれば「妖精を脅して盗らせた線は消えない」と言いそうだが、レイチェルは一応理解はしてくれたようで、射る様な視線は僅かに威力を弱めた。


「あなたが使うはずだった指輪を、わたしは結婚式で使ってしまった。謝ってすむ問題じゃないとは思うけど、ごめんなさい!」


 立ち上がったノアは、レイチェルに深く頭を下げた。

 ペアの指輪の意味を考えれば、誰かが結婚や婚約に使うことは想像できた。盗られてさぞ心を痛めているだろうことも。


 けれどそれだけで、”使用済みの指輪の価値”についてまでは考えが至らなかった。

 物理的に減るものではないとはいえ、自分以外の誰かが指を通し使った結婚指輪など、使いたいとは思えないのではないか。


(これじゃ、レイフのことを言えない)


 ノアもまた、相手の思いを汲み取ることが出来ていなかった。

 申し訳なさと情けなさに歯を食いしばるノアに、レイチェルはすっと目を細める。


「やっぱりね。この指輪には人間の匂いが染み付いているもの」


 白く細い指先で、二つの指輪が入った箱をつつく。大切だったものが汚されてしまった、とでも言うようなレイチェルの言動に、ノアはいっそう恐縮する。


「それで、あなたはどう落とし前をつけるつもり?」

「レイチェル。ノアに責任はないだろう。彼女たちは盗品とは知らなかった」

「お兄様は黙っていて。これは女同士の問題よ」


 仲裁に入ったラウェリンを睨んだレイチェルは、横柄に腕を組みノアを見上げる。

 きつい眼差しを向けられたノアはごくりと唾を飲み込み、おずおずと口を開く。


「代わりの指輪を、レイチェルに贈るわ」

「指輪はいらない」

「えっと、じゃあ……」


 あっさり却下され、ノアはたじろぐ。しかしろくに知らない相手にペアの指輪を貰ったところでその方が困るだろうと思いなおし、別の物を考える。

 レイチェルの金の髪に映える髪飾り、もしくはネックレス、イヤリングの方がいいだろうか。


「そのブローチでいいわ」

「え?」


 思考を遮られたノアは、レイチェルの指が示す先――自分の胸元にある野いちごのブローチに触れ「これ?」と確認する。


「ええ。よく見れば綺麗な石を使っているじゃない。細工も細かいようだし。欲しいわ」

「あ、えっと、これは……」


 野いちごのブローチは、エムリスに貰った物だ。人から貰った物を他の誰かにあげるのは抵抗がある。

 他のもので手を打ってもらえないかとノアは色々提案したが、レイチェルはどれも首を横に振った。どうしてもこの野いちごのブローチが良いらしい。


(困った)


 思わずレイフに助けを求めそうになったとき。枝葉を揺らす風が強くなった。


「嫌ならいいわ。その代わり、あなたたちはここから帰れなくなるわよ」


 立ち上がったレイチェルを中心に風が渦を巻き、下草をなぶりながら威力を増していく。


「え、ちょ、なにこれ!?」


 妖精の嵐の際、ピクシーは自身が飛ぶことで風を巻き起こしていたが、エルフはこんなことも出来るのか。神の血を引いているというのは偽りではないらしい。


 戸惑うノアを余所に晴れていたはずの空は曇り、周囲の森は白樺のテーブルを囲うように幅を狭めて来る。帰れなくなる、というのは言葉だけの脅しではないようだ。


(なんて横暴なお姫様なの!)


 これではわがまま娘の癇癪だ。


「姫。それでは脅迫だ」


 見かねたレイフが口を出すが、レイチェルは眉を寄せ「あなたも同罪でしょう」と言い捨てた。


「指輪からはレイフの気配もするわ」

「なんだ、レイフ。ノアは君の妻だったのか。結婚式に呼んでくれればよかったのに。相変わらず水臭い」


 ラウェリンは強風に金の髪を乱されながら、祝福するように手を叩く。なかなかにマイペースな王子様だ。


「………………はぁ」


 まるで重荷を背負って山を越えた直後かのような疲れきった溜息を、レイフが吐く。そのなかには、ノアに対する呆れも含まれているのだろう。


(ごめん、レイフ)


 レイフに迷惑をかけてしまったことは、ノアも悪いと思っている。けれどどうしても、レイチェルに謝りたかった。

 それが原因で今の状況を招いているなら、ノア自身できちんと解決しなければならない。


 ノアは胸元から野いちごのブローチを外し、レイチェルに差し出した。エムリスには悪いが、ここを出してもらわないことにはどうにもならない。


「箱も包装もなくて悪いけど、どうぞ」


 ノアがそういうと、レイチェルはぱっと花が綻ぶかのような笑顔を見せた。とたんに風は止み、空は晴れ、森の様子も元通りになる。


「あらいいの? ありがとう!」


 何がいいの、だ。と思わなくもないが、ノアは微笑でごまかす。

 手に入れたブローチを木漏れ日に翳したり、胸元に当てたりしていたレイチェルは、思い出したふうにサンザシの指輪が入った箱を取る。


「これはあなたにあげるわ。もういらないもの」

「は?」


 思わず受け取ってしまってから、ノアは呆気に取られた。母さまからもらった大切な指輪だったんじゃ……だった?


「あの、レイチェル」

「他人が使った指輪なんていらないわ。そもそもわたくしにはまだ、結婚する相手もいないし。母さまにはいずれまた新しい指輪を買ってもらうから」


 今までの会話はなんだったのか。指輪を盗られたレイチェルは確かに怒っていた。それなのに、こうもあっさり代替品で納得するなんて。


「それではわたくしは先に帰りますわ」


 ごきげんよう、と優雅な微笑を浮かべ、レイチェルはふっと姿を消した。


 まるで嵐だ――ノアは先日妖精の嵐に遭ったときよりも強い衝撃を覚えて、呆然と立ち尽くす。


「だからお前を連れて来たくなかったんだ」


 テーブルに肘をついたレイフが、溜息混じりに言う。


「レイフは知っていたの、その……レイチェルのああいう性格を」


 兄であるラウェリンの手前言葉を濁すノアに、レイフは苦い顔で頷いた。


「指輪を盗まれた姫が大層機嫌を損ねていたのは間違いない。それはそこのラウェリンがよく知っているだろう」


 ノアがラウェリンを見ると、彼もまた苦笑いで首肯する。


「加えて、彼女には悪い癖があってな」

「ノアと話している途中から、あのブローチが欲しくなったんだろう。指輪を盗まれた怒りを忘れるほどにね」


 レイフから話を引き継いだラウェリンは「すまない、ノア」と眉を下げた情けない顔で、妹の所業を詫びる。

 育て方を間違えただろうかと憂う彼は、そこはかとなく苦労人の気配がした。先のマーペースぶりを見るに、ラウェリンに翻弄されているものもいそうだが。


「あー、でも、レイチェルがもう怒っていないのなら、それでいいんじゃない、かな?」


 あはは、と空笑いするノアに、レイフの目が向く。紺色の左目は夜のごとく静かで、感情が読めない。


「いいのか?」

「え、だめ?」


 じっとノアを見ていたレイフは長く息を吐いて、軽く目を伏せた。


「あのブローチはよかったのかと聞いている」

「ああ、あれは……」


 そういえばエムリスはノアにブローチをくれたとき「きっときみの役に立つ」と言っていた。もしかしたら彼は、この状況を予測していたのだろうか。


(まさかね。でも、指輪の持ち主を知っていると言っていたし……)


 ノアがうんうん唸っていると、レイフの眉間に皺が寄り始めた。それを見たラウェリンはくすくすと忍び笑いを漏らし、ノアを呼んだ。


「レイフは心配なんだよ。あれが誰かからの贈り物だった場合、君が気に病んでいるのではないかと」

「そうなの?」


 意外に思ったノアはレイフに水を向ける。しかしレイフには「違う」とばっさり否定された。

 それを少し残念に思いつつ、野いちごのブローチについて二人に説明する。


「あれはエムリスからもらったの」

「またあいつに会ったのか?」


 低くなったレイフの声に、慌てて訂正をいれる。


「レイフから忠告される前、最初に会った時にもらったの。パンをあげたお礼に、って」

「まったく。知らない者からほいほい物を貰うな。もしまたあいつを見かけても、放っておけ」

「はーい」


 ノアがそっぽを向きながら心にもない返事をすると、レイフの目が鋭くなったため、ノアは慌てて返事をしなおす。


「私もエムリスのことは知っているが、悪い奴ではない。衝動を抑えるだけの理性は備えているし」


 エムリスを危険視するレイフに、ラウェリンも反論を示した。しかし、レイフがすかさず口を開く。


「お前は口を出すな」

「ちょっとレイフ、その言い方はないんじゃないの!」


 どこかぴりぴりした様子のレイフに違和を覚えつつ、ノアはラウェリンを庇う。不満を現すように両手を腰に当て、イスに座ったままのレイフを睨んだ。


「お前自身、全く心当たりはないのか」

「心当たりって」

「本当に、何もされなかったか」


 レイフはノアの目を真っ直ぐに見て、淡々と問いを重ねる。


 記憶を辿ったノアは、「おいしい」と言われたことを思い出す。とはいえ、エムリスにかじられたり舐められたりしたわけではないため、実害は何もないのだが。


「そうだ、ノア。君の家の庭にあった妖精界のものについて、妖精たちから確認がとれた」


 ラウェリンの言葉で、ノアはレイフから視線を外す。レイフが舌打ちしたような気がするが聞かなかったことにした。


「ほんと!?」


 ノアの両親には指輪の他に、庭にあった妖精界の品々についても疑惑がかかっている。ノアにしてみれば両親を疑うなど見当違いもいいとこで、犯人ではないと自信を持って断言できた。

 しかし証拠がないことには、頭の硬いレイフが納得しない。


「まだ半分だが、確かにハワード家に置いてきた、もしくは譲渡したものだと証言を得ている。それぞれの妖精にサインもしてもらった」


 ラウェリンは、喜びにぶんぶんと尻尾を振る子犬のようなノアを小さく笑って、薄く削った木の皮を取り出す。

 そこには親指の爪ほどの小さな手形や、ミミズがのたうち回ったようなぐしゃぐしゃの線、やけに凝った判などが押されていた。証言した妖精によって、随分と個性がある。


「ありがとうラウェリン! これで父さんと母さんの疑惑が晴れるわ!」

「……まだ半分は確認が取れていないから、引き続き調べなければならないが」


 興奮するノアに対し、ラウェリンは少しばかり気まずげに目を伏せた。


「わたしも手伝えたらいいんだけど」

「お前が手伝ったところで、証言の強要を疑われる」

「わかってる」


 つっけんどんなレイフの横槍に、ノアも無愛想に返す。


「何も出来ないのは歯がゆいし、ラウェリンに手間をかけてしまうのも申し訳ない。でも、両親は絶対に妖精からものを奪ったりしていない」


 強い眼差しで訴えるノアに、ラウェリンは「ああ」と答えたが……その表情は彼の心の揺らぎを映しているようだった。



 ラウェリンに見送られ太古の森を出たノアとレイフは、妖精館を目指し夕暮れの町を行く。途中森から妖精界へ帰るのだろうピクシーに髪や服を引っ張られたが、ノアは全く気にならなかった。


 サンザシの指輪を盗んだ犯人の情報は得られなかったが、ラウェリンの調査で両親への疑惑は薄れるはずだ。それにノアが指輪の持ち主を知った今なら、エムリスが何か話してくれるかもしれない。


 エムリスに対するレイフの態度が気にならないわけではないが、ラウェリンも悪い人ではないと言っていた。もらったブローチをレイチェルに譲ったことも、きちんと話しておきたい。


「余計な事をするなよ」


 斜め後ろを歩くレイフがノアをたしなめる。その口調はいつもよりも角があった。


「無理やりついてきてレイフに迷惑をかけたのは、悪いと思っている。でも」

「でも、じゃない」


 半身振り返っていたノアは、苛立ちを内包したふうなレイフの低い声に足を止める。


「お前は事の重大さがわかっていない」


 迫り来る夜を背負うレイフは、恐いくらいに真剣な顔をしていた。


「妖精界の姫の指輪が盗まれた。これは事によっては、ただの盗難事件じゃすまない」


 レイフの迫力に圧され、ノアは相槌代わりに頷く。


「指輪が盗まれたと気付いた姫は、それは荒れたらしい。ラウェリンや姫の母親がどうにかこうにか宥めすかしていたが、あと少し指輪を取り戻すのが遅れていたら、姫は人間界に乗り込んできていただろう。肉親といえど、四六時中見張っていられるわけではない」

「……っ」


 先刻のレイチェルの力――野いちごのブローチ欲しさに風を起こし森をも動かしたことを思い起こしたノアは、ぞくりと背筋を這った恐れに身を震わせる。


(もし、もしもレイチェルが人間の世界へ来て、怒りのまま力を使っていたら――)


 両腕を抱くノアの姿に少しは溜飲が下がったのか、レイフは小さく息を吐く。


「姫が、盗品と知らず指輪を買っただけのお前の両親を犯人だと思い込み、怪我を負わせていたとしたら。そしてそれを市井の人間が知れば、人間界と妖精界の間には修復し難い亀裂が入ったはずだ。妖精をよく思わないものなどは声高に妖精排除を叫んだに違いない」

「……そこまで、考えていなかった」


 ごめんなさい、と謝ることしか出来ず、ノアは項垂れる。自分の至らなさに、ほとほと嫌気がさした。


 そして一見冷めたふうに見えるレイフが、ノアよりもよほど深く、多くのことを考え、心を砕いているのだと思い知らされた。


「俺が思っていたほど、その頭は良くなかったようだな。読みを間違えた」


 レイフの言葉は、日没が迫り温度が下がった空気よりも冷たく、辛らつだ。


 考えが足りずレイフを失望させてしまったことは、思いのほか強い衝撃をノアに与えた。彼の役に立ちたいわけではないが、決して足を引っ張りたいわけでもない。


(もっと、ちゃんと考えなきゃ。本もたくさん読んで、いろんな考えを知って……)


 落胆させてしまった分を取り返そうと、ノアは必死に頭を巡らせる。


「………………」


 頭を下げたまま動かないノアを、レイフはしばらく見下ろしていたが、やがてゆっくりと瞑目した。

 そして何かを決心したふうな硬い意思を宿した紺色の目で、再びノアを捉える。


「――ノア」


 呼ばれて、ノアは顔を上げる。ちょうど吹いた風になびかぬよう、レイフが右の前髪を抑えたため、彼の顔は半分見えなくなった。


「お前のような騒々しく浅慮な女など、仕事のためでもなければ結婚などしなかった」


 何の感情も伴わず吐き出された言葉に、ノアは目を見開く。直後胸を占めたのが苛立ちではなく悲しみだったことも、ノアを戸惑わせた。


「わた、わたしは……」


 ずきずきと痛みを訴える胸を押さえ、言いたいことがまとまらないまま語りだす。


「わたしだって!」


 不機嫌なのか無表情なのかわからないレイフの方へ身を乗り出し、ぐっと目元に力を込める。そうしないと、視界がぼやけてしまいそうだった。

 ノアの意思と関係なく喉が詰まり、鼻の奥までもがつんとし始める。


「レイフと一緒に働くうちに、仕事熱心でいいなとか意外と格好良いとこあるじゃない、って思ったけど。でも、わたしだって……、だれがあなたみたいな根暗で無愛想な人とっ!」


 それ以上言葉が続かず、ノアはレイフに背を向けて走り出した。

 嫌な所もたくさんあったはずなのに、どうしてか今は妖精の嵐から庇ってくれた時のレイフの姿が浮かんで――ノアの胸をいっそう締め付けた


「……褒めたいのか貶したいのか、どっちだ」


 家路を辿る人々のなかに紛れていくノアの姿を目で追いながら、レイフはくしゃりと前髪を掴む。


「うわっ!?」


 離れた場所でノアの間の抜けた声があがる。


「大丈夫かい、お嬢ちゃん」

「はい、ごめんなさい!」


 人ごみの中でノアは、壮年の男にぶつかって座り込んでいた。


「…………まったく、手のかかる」


 重い溜息を吐いたレイフは仕方なさそうに足を踏み出し、ノアを追いかけた。

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