3 百年前の東京

 一方、そのころ、地方からはるばる東京に上京した桜子は東京駅の大きさに圧倒あっとうされていた。


「うわぁ~……。さすがは帝都ていと表玄関おもてげんかんの駅やなぁ~。ドームの形をした屋根もすごく立派やし、赤レンガの駅舎えきしゃはため息が出るくらいキレイやわぁ~!」


 駅の外に出た桜子は、さっきからずっと首が痛くなるほど東京駅をあおぎ見て、ホー、ヘーと田舎者いなかもの丸出しで何度も感嘆かんたんをもらしてばかりいる。


 桜子は、女学校を受験するために両親といっしょに一度東京に来てはいたのだけれど、その時は試験のことで頭がいっぱいで緊張していて、とても東京駅の大きさに感動したり東京見物をしたりなどする余裕よゆうはなかった。

 東京駅の駅舎内にあるホテルに宿泊し、翌朝の受験当日は、この当時かなり料金が高かったタクシーで女学校まで行った。

 でも、どこの道をどう行ったかもはっきりおぼえていないし、試験を受けていた時の記憶もおぼろげだったのである。まわりの受験生たちよりも一歳年下の自分が合格できるだろうかと不安でしかたがなかったのだ。


 二度目の上京である今回、桜子は東京まで船と汽車きしゃで来た。

 朧月夜家は貿易会社を経営していて、商品をのせた船がちょうど横浜港まで行く予定があったから、父の梅太郎はその船に桜子を乗せてくれたのだ。東京駅まで東海道線の汽車で行くこともできたけれど、娘の初めての一人旅なので途中とちゅうまで安全に送ってあげたいという親心だった。


 横浜港は、四日市港よりもたくさんの外国船が入港し、西洋人たちがわんさかいて英語やフランス語、ドイツ語などが飛びかっていた。赤レンガでつくられた倉庫も美しく、江戸時代末期からヨーロッパの国々と貿易をしていた国際的な港はやっぱりスゴイと桜子は度肝どぎもをぬかれた。


 その後、横浜駅から汽車に乗って東京駅に着いたのである。そして、ここでも東京の都会ぶりに度肝をぬかれていたのだった。


「東京ってこんなにもすごかったんや~。試験を受けに来た時は、緊張がひどくて、まわりの景色なんてちっとも目に入らへんだから、気づかんだわぁ~!」


 とにかく、人がうじゃうじゃいる。いろんな都市から汽車で来た人たちがこの東京駅で降りるのだから当然だが、地方育ちの桜子はあまりの人混みに酔ってしまいそうになった。


「……仙造叔父おじ様が迎えに来てくれとるはずなんやけれど……」


 桜子の許嫁である柳一の父・仙造を大混雑する東京駅前で見つけるのはかなり大変そうだった。東京駅に見とれている場合ではないとようやく気づいた桜子は、梅太郎からもらった仙造の写真を片手に、それらしい人はいないだろうかと周囲を見回した。


「す、スリだぁーーーっ!」


 桜子が駅の周辺を行ったり来たりウロウロしていると、近くで男性の悲鳴が聞こえ、おどろいた桜子は「ほへ?」とつぶやきながら声がしたほうを向いた。


「くそ、ばれちまったか! どけどけー!」


 人相の悪そうなヒゲ面の男が財布を片手に走って逃げていて、その少しうしろに財布を盗まれた被害者と思われるおじさんが大汗をかいて泥棒を追いかけていた。


「あ、あわわ……。東京にはスリが多いってウワサには聞いとったけれど、早速出くわすとは思わんだわぁ~……」


 東京の名物を歌った音楽の中にも、スリの名前が出てくるほど、昔の東京にはスリが多かった。関東一帯を取り仕切るスリの大親玉がいて、警察でさえなかなか手を出せなかったらしい。


「おまわりさん、スリだよ! スリ! 早く捕まえてくれ!」


 スリのさわぎを聞きつけた人たちが、近くを巡回じゅんかいしていた警察官を連れて来てそう催促さいそくしたけれど、若い警察官は顔を真っ青にしてふるえ、スリを追いかけようとする気配けはいがない。


「わ、わたしは巡回中でいそがしいんだ!」


「泥棒がいるのに捕まえなかったら、見まわりをしている意味がないだろ⁉ ……まったく! ふだんはいばりくさって街を巡回しているくせに、いざ事件となると頼りない! そんなことだから弱虫のガチャガチャだとか陰口かげぐちをたたかれるんだよ!」


 この時代、警察官たちは立派なサーベルをガチャガチャ鳴らしながら「えっへん、えっへん」とふんぞりかえって街を巡回したけれど、いざという時には頼りない警察官もいたので、「ガチャガチャ」と市民たちから呼ばれてバカにされていたのだ。


「だ、だれかスリを捕まえてくれ~!」


「邪魔だ、どけどけー!」


 人混みの中、スリと被害者の追いかけっこはなおも続いていた。そして、スリはたくさんの人を突き飛ばして、桜子がいるほうにかけよって来て――。


(う、うわわ⁉ ぶ、ぶつかる⁉)


 恐くて動けない。桜子はギュッと目をつぶり、スリに突き飛ばされる瞬間を覚悟しながら待った。


 しかし、吹き飛ばされたのは、スリのほうだった。


「うぎゃぁ!」


「おやおや、こんな人混みの中で走っていたらケガをしますよ?」


 スリと桜子がぶつかる直前、一人の見上げるほど背の高い男の人が桜子をかばうようにしてスリの前に立ちはだかり、そのたくましい体格でスリを吹っ飛ばしたのである。


「す、スリめ! 大人しく観念かんねんしろ! 逮捕だ、逮捕~!」


 さっきまでブルブルとふるえていた警察官が急に元気を出し、サーベルをガチャガチャ鳴らしながらかけつけて、目を回してたおれているスリに手錠てじょうをかけた。


「やれやれ、これで一件落着ですね」


「あ、あの……。助けていただいて、ありがとうございます」


 桜子は、のほほんとした笑顔の背の高い男性にお礼を言った。


 身長は、五尺九寸(一八〇センチ)ほどはあるだろか。成人男性の平均身長が五尺三寸(一六二センチ)ぐらいだったこの時代では、かなりの大男である。しかし、よく見ると、涼やかな目をしていて顔立ちも端正たんせいな男性だった。どことなく、柳一に似ている……。


「あっ……。もしかして、仙造叔父様ですか⁉」


 桜子は自分が持っている写真と男性を見くらべながら言った。


 まちがいない、この人が花守仙造だ。


「ええ、そうですよ。あなたが桜子さんですね。東京へようこそ」


 仙造も桜子の写真を梅太郎から送られていて、手に持っていた写真と桜子の顔を見くらべた後にそう言い、ニコリとほほ笑んだ。氷のように冷たい印象の柳一とはちがい、とてもおだやかな雰囲気ふんいきの人である。親子とは思えないほどのちがいようだ。


「初めまして! 朧月夜桜子です! こ、これからどうか末永くよろしくお願いします!」


「あははは。結婚のあいさつはまだ早いですよ。桜子さんも柳一もまだ学生なのですからね」


 許嫁の父親と初めて会った桜子は、カチコチに緊張してしまったけれど、仙造の柔和にゅうわな笑みを見ていると少しずつ落ち着いてきた。


「それにしても、無事に会えてよかった。この人混みの中で桜子さんを探し出せるだろうかと少し不安だったのですよ。まさか、泥棒から助けた女の子が息子の許嫁だったとはね」


「はい。わたしも迷子になったらどうしようと不安やった……ごほん、ごほん、不安でした」


 うっかり方言でしゃべってしまいそうになった桜子は、あわてて言い直した。


 方言で話したら東京の人に田舎者だと思われるかも知れないと考え、東京ではなるべく方言は使わないようにしようと桜子は決めていたのだ。


「近くに車を停めてあるから、東京案内のついでに少しドライブしましょうか」


「え⁉ いいのですか⁉」


 桜子は目をパァッと輝かせ、期待のまなざしを仙造に向けた。


 大正時代、すでに自動車は都会の人々の重要な移動手段になっていて、かなり高価ではあったけれど、車を所有する人が徐々じょじょに増えてきていた。


 桜子の父の梅太郎も貿易会社の社長なので車を持っていたけれど、船に乗っても酔わないのに車に乗ると気持ち悪くなるため、朧月夜家では車に乗る機会が滅多になかったのである。

 だから、あこがれの都会・東京をドライブできると聞き、桜子はワクワクしたのだ。


 そして、喜び勇んで仙造の車に乗りこんだのだけれど――。






(すごくゆっくりだ。この車、すごくゆっくりだ……)


 春のうららかな日差しの下、アメリカ産の外車フォード・モデルTが東京の街をゆるゆると走っていた。


 本当にもう、うしろの席に座っている桜子が眠たくなってしまうほど、ゆるゆると。


 この当時の車の屋根は折りたたみ式のほろ(車をおおうための布)が普通で、桜子は春のさわやかな風を感じたくて幌を仙造にたたんでもらったのだが、あまりにもゆっくり走行しているせいで風なんて何も感じなかった。


「お……叔父様。少しゆっくりすぎませんか?」


「あははは。わたしは何事もゆっくりするのが好きでしてね。あわてるのは苦手なのです。ゆっくり安全運転、安全運転」


「安全運転は大変けっこうなのですが、自転車に追いぬかされましたよ?」


「気にしない、気にしない。スピードを出しすぎて事故を起こすよりはマシですから」


「今度は、人力車に追いぬかされました……」


 お客を乗せた二輪車を引っぱって威勢いせいよく走る車夫しゃふが、仙造の車を追いぬかし、


「お嬢ちゃん、車をおりて歩いたほうが早いぜ! ガハハハ!」


 と、ふりむきながら桜子に笑いかけた。


「あ、あう~……。何だか悔しいですぅ……」


「あははは。自転車や人力車と競争するためにドライブしているのではないのだから、もっと景色を楽しんでごらんなさい。ほら、あそこに見える白い洋館が帝国劇場ていこくげきじょうですよ。そして、隣に建っている赤レンガの建物が警視庁けいしちょうです。白と赤の対比が美しいでしょう?」


「え……? あっ、本当だ! 東京の名所が描かれた絵葉書えはがきで見たことあるけれど、実物のほうが何倍もキレイ!」


 桜子は胸をはずませ、大はしゃぎした。


 帝国劇場、略して帝劇ていげきといったら、歌舞伎かぶきやシェイクスピア演劇の上演、時には外国人の音楽家を招いてオペラもやっていると聞いたことがある。宝塚たからづか歌劇かげきなら桜子も観たことがあるけれど、帝劇にも一度行ってみたいと前々から思っていたのだ。


「今度、みんなで帝劇に行ってみましょう。……ああ、でも、浅草オペラも楽しいかも知れませんね。妻が亡くなる前に一度行ったことがあるのですが……」


 仙造はそこまで言いかけると、急に口をつぐみ、しばらく沈黙したあとにまた明るい口調で話し始めた。


「浅草にはまた別の機会に行くとして、ちょっと銀座に寄ってみましょうか」


「あっ、はい……」


 仙造は明るくふるまっているけれど、奥さんのカスミの話をしたとたん、桜子は仙造の背中に暗い孤独の影を感じた。桜子にはわかるのだ。昔、自分も孤独に苦しんで暗い影を背負っていたことがあるから、人がさびしい気持ちになっていると直感でわかってしまうのだ。


(カスミさん……わたしにとって叔母おば様にあたる人……。わたしは一度もお会いしたことがないけれど、三年前にお亡くなりになったらしい。柳一さんは、お母様がいなくなってさびしいから、あんなにも辛そうにしとったんかな……?)


 桜子はそう思ったけれど、桜子を喜ばせるために明るくふるまって東京案内をしてくれている仙造にそんな深刻な内容は聞きづらい。

 銀座までゆっくり、ゆっくりと車が走って行く間、桜子と仙造はとりとめもない世間話をするのであった。


 その後、二人は銀座のレンガ街で買い物を楽しんだ。

 仙造はフランス産のワインを買い、桜子はアイスクリームを買ってもらって食べた。

 他にもオシャレな楽器店や時計店なども気になったけれど、桜子がもっと大きくなったらいつか行ってみたいと思ったのは外国製の化粧品が売っているお店だった。


「どうですか、桜子さん。楽しいでしょ? 東京はスリやかっぱらいがいて、地方の街にくらべたら少し物騒ぶっそうですが、こんなにも楽しい場所があるのですよ」


「はい、東京はとても素敵なところだと思います。叔父様、ありがとうございます!」


 仙造は、上京してすぐにスリと遭遇そうぐうするという恐い目にあった桜子が東京を嫌いにならないように、東京の素晴らしい場所を見せてくれたのだろう。桜子は、そんな仙造の優しさがうれしくて、とても温かな気持ちになった。


(叔父様は心の優しい人や。その子供の柳一さんだって、本当はきっとお父様のように温かい人に決まっとる。いつか、柳一さんともこうやって銀座の街を仲良く歩けたらええなぁ~)


 桜子は、柳一と手をつなぎながら銀座の街を歩く自分を想像して、ドキドキするのだった。

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