一章 許嫁は飛び級少女

2 夢見がちな菜々子

菜々子ななこお嬢様ぁ~。お、お魚を焦がしてしまいましたぁ~。ぐすん……」


「スミレったら不器用なのね。料理は要領よくやらなくちゃ。ほら、わたしの作った卵焼きをごらんなさい!」


「……ごらんなさいと言われても、真っ黒焦げじゃないですか」


「む、むむぅ~……。料理って難しいわね。シノブがお嫁さんに行ってしまう前に、もっと料理を教わっておくべきだったわ……」


 大正十一年(一九二二)四月、ぽかぽかとした日和のある日。


 東京の麻布あざぶ西町にあるはなもり家は大さわぎだった。大切なお客さんを歓迎するために、この家の長女の菜々子と奉公人ほうこうにんの少女スミレがごちそうを作ろうと悪戦苦闘していたのである。


 つい数週間前までは、住みこみで花守家の家事をしてくれていた、シノブという料理の上手な奉公人がいたのだけれど、彼女はお嫁に行き、シノブの親戚しんせきの娘であるスミレが新しい奉公人としてやって来た。

 しかし、スミレはものすごくあわてんぼうで、料理も掃除も下手だったのだ。


 えらそうにスミレに指図さしずをしている菜々子もそそっかしい性格で、卵焼きも満足に作れないぐらい、料理が大の苦手だった。


「ううぅ~……。ガス七輪(ガスコンロの原型となった調理器具)ってたきぎで火を起こさなくても料理ができるから便利だけれど、いまいち使い方がわからないわ。なんか、火のいきおいがさっきから弱くって……」


「あっ! お嬢様! 顔をそんなに火に近づけたら危ないですよ!」


「きゃぁーーーっ!」


 菜々子がガス七輪を乱暴にガチャガチャといじくっていたら、ボンッ! と急に火のいきおいが強まった。


 間一髪、スミレが体を後ろに引っぱってくれたおかげで、菜々子は前髪を少しこがすだけで済んだけれど、おどろきのあまり家中にひびき渡る大声を出してしまった。


「……さわがしいな。何をやっているんだ。勉強に集中できないから静かにしてくれ」


 さわぎを聞きつけた花守家の長男・柳一が台所にやって来てそう苦情を言うと、菜々子はぷくぅ~とほっぺたをふくらませて怒った。


「お兄様の許嫁の桜子さんが今日からこの家で暮らすことになるのですよ! 歓迎のためのごちそうを作らないとダメじゃないですか! わたしも、将来は義理のお姉様になる桜子さんと仲良くなりたいですし!」


「お姉様? あのなぁ、彼女はおまえよりも年が……」


「それに、それに、桜子お姉様は、今月からわたしが入学するメイデン友愛女学校に通うのでしょ? 女学校では、仲のいい先輩と後輩がまるで姉妹のように助け合っていると聞いているわ。わたし、桜子お姉様とそんな清く美しい先輩後輩の関係になりたいの……!」


「……やれやれ。少女小説の読みすぎだな」


 両手を胸の前で合わせて目をお星様みたいにキラキラ輝かせて語る菜々子にあきれ、柳一はため息をついた。


 四月で十三歳になる菜々子は、女学生たちの美しい友情物語がたくさんのっている少女小説をいつも読んでいて、特に先輩と後輩の姉妹のように強いきずなを描いたお話が好きなのである。


 三年前に母を亡くした菜々子は、愛情にうえていた。

 母か姉のように信頼して甘えられる人が欲しくて、とても美人だったシノブのあとをついてまわっていたけれど、シノブは奉公先のお嬢様である菜々子にどこか遠慮をしていて見えない壁が感じられた。

 新しくやって来たスミレはまだ子供でそんな壁を菜々子にたいして作らないけれど、同い年なので甘えられない。


 そんな時に、兄の許嫁が三重県の四日市からこの東京へやって来て、しかも同じ屋根の下で暮らすことになると聞き、菜々子は「わたしのお姉様になってくれるかも!」と喜んだのだ。


 三重県四日市の朧月夜おぼろづくよ家は、亡くなった母・カスミの実家で、桜子の父・梅太郎とカスミは兄妹だという話だ。つまり、桜子は、柳一と菜々子のいとこにあたる。


 でも、朧月夜家と花守家は過去にいろいろとあって数年前までは疎遠そえんで、最近になってようやく仲直りして子供同士の婚約をかわしたため、菜々子は桜子という少女がどんな人なのか知らない。


 ただ、父の仙造せんぞうから一つだけ聞いているのは、


「飛び級に頭がいい!」


 ということだった。大学教授の仙造がそこまでほめるということは、本当に飛び級にかしこい大人な女性なのだろう。東京の名門女学校に転校してきたのも、きっと頭がいいからだ。菜々子は勝手に妄想をふくらませて、まだ見ぬ「桜子お姉様」にあこがれを抱いていたのである。


「はぁ~~~。早く会いたいわぁ~、桜子お姉様!」


「菜々子お嬢様。今は妄想にひたっている場合では……。だんな様が東京駅まで桜子お嬢様をむかえに行かれている間に料理を作っておかないと、歓迎会ができませんよ?」


「はっ⁉ そ、そうだったわね! もう一度、卵焼きに挑戦よ! 今度はこがさないわ!」


 菜々子とスミレは再び料理を始めたけれど、そばで見ている柳一には黒こげになった謎の固形物こけいぶつを大量生産しているようにしか見えない。


「……まぁ、勝手にすればいいさ。オレは許嫁なんて興味ないから」


 菜々子とスミレがてんてこまいになっているのを見あきた柳一は「火事だけは起こすなよ」と冷たく言いはなつと、自分の部屋に戻って行った。


(……もう、何よ。感じの悪いお兄様! お母様が亡くなる前はもっと優しかったのに……)


 台所から去って行く兄の背中をにらみながら、菜々子はまたほっぺたをふくらませた。


 親同士が決めたこととはいえ、桜子お姉様もあんな意地悪いじわるな人と婚約するなんてかわいそうだ。菜々子はそう考えるのであった。

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