第3話 公安調査庁

 警視庁捜査一課の一室にあるホワイトボードの周りに、刑事達が集まっていた。そこに遅れて来た木原と神津が加わる。二人が捜査から帰ってきたことを視認した合田警部は、早速近くにある机に歩み寄る。そこに八枚の写真が横一列で並べられていた。

「まず、事件の整理をしよう。この男、大橋陽一が、二十四年前に突然死したとされる衆議院議員の小松原正一を殺害した言い自首してきた」

 合田警部はホワイトボードに大橋陽一と黒縁眼鏡を掛けた優しそうな目付きの初老男性、小松原正一の写真を、磁石で止めた。数秒の沈黙の後、警部は説明を続ける。

「ここからは、俺と大野が調べたことだが、小松原の嫁で政財界の大物の一人娘、愛佳は夫の急死から三か月後に、警察庁の若手官僚、榊原栄治《さかきばらえいじ》と再婚したらしい。ご存知の通り、榊原栄治は警察庁刑事局長を務めている。愛佳は五年前に病死したようだ」

 色黒の大男、榊原栄治の写真を、ホワイトボードに張った後で、警部は新たな関係者の写真を机の上から取る。その男は、顎髭を伸ばし眉間の皺が目立つ堅物のような人物だった。

「この男、酒井忠義は浅野静子の秘書だった。現在は衆議院議員として活躍している。そして、小松原正一の急死に関して一番知っていそうな人物が井伊尚政いいなおまさ。彼は東都病院の医師から法務大臣になった異色の経歴の持ち主で、小松原の死亡診断書を書いている」

 少し頭頂部が円状に禿げた男、井伊尚政の写真を貼った後で、合田は木原と視線を合わせた。

「さらに、木原と神津の捜査で新たな関係者が浮上した」

 その後で木原は仲間の刑事に報告を始めた。

「大橋陽一が務めていた介護施設に、小松原と犬猿の仲だった浅野静子が入所していました。残念ながら彼女は三か月前に病死しましたが、娘の浅野房栄公安調査庁長官に話を聞けば何か分かるかもしれません」

 黒い髪を腰の高さまで伸ばした細目の女、浅野房栄の写真が貼られ、刑事達はざわつき始めた。二十四年前の真相を知っていそうな四人は全員政府関係者。一筋縄ではいかない厄介な事件であることに、刑事達は驚愕する。

 緊迫した状況の中、黒いスーツを着た黒縁眼鏡の男、北条宗茂検視官が長方形の大きな封筒を持って、捜査一課の一室に顔を出した。

「合田警部。大橋陽一の自宅から発見された白骨死体の身元が分かりました。DNA鑑定の結果、遺体は小松原正一本人とみて間違いありません。殺害された時期はおよそ二十四年前。それと、凶器の錆び付いた包丁から小松原正一の血痕と大橋陽一の指紋が検出されました。これが報告書です」

「物的証拠があるのなら、今すぐ逮捕送検する」

 身元と凶器が特定されたと聞きつけ、千間刑事部長が捜査一課を訪れた。突然の逮捕宣言を聞き、合田警部は必至の抵抗をする。

「千間刑事部長。まだ送検するには早過ぎる。犯行動機も不明なんだ。事件の全容も分からないのに、送検してしまえば冤罪が起きるかもしれない」

「これは政界を揺るがす巨大な事件だ。マスコミにバレる前に、送検する必要がある」

「政界の連中を敵に回すにはいかないということか?」

「そういうことだ」

 刑事部長は合田警部を睨み付けた。しかし、警部は怯むことなく、ホワイトボードを強く叩く。

「絶対に真実を明らかにする。そのために、この四人と接触するんだ」

 強い正義感と対立する刑事部長は、呆れたような顔になり、警部に背を向ける。

「二十四時間以内に犯行動機を明らかにしなければ、大橋を逮捕送検する」

 それだけ伝えると、刑事部長は捜査一課の一室から去った。二十四時間以内に真実を明らかにするという厄介な事件に挑むことを、刑事達は誓う。


 公安調査庁に二人の刑事が訪れたことを、浅野房栄公安調査庁長官は風の噂で聞いた。長官の執務室の中で、黒縁眼鏡の痩せ型の男が浅野の前で頭を下げる。

「長官。いかがしましょうか?」

 そう尋ねられ、浅野は頬を緩める。

「そうね。五分だけでも会おうかしら。多分二十四年前の事でしょう」

 黒縁眼鏡の男は、長官の一言を聞き冷や汗を掻く。その反応を見て、浅野房栄はクスっと笑った。

「分かりやすいわ。母があなたを私専属運転手にした理由。アレも二十四年前のことと関連しているでしょう?」

「長官。どこでそれを聞いたのですか?」

「あなたのことを調べたのよ。あなたと大橋陽一の接点。ご存じでしょう? 遠藤昴えんどうすばるさん」

 名前を呼ばれ、遠藤は激しく動揺した。

「長官のお母様を熱心に介護していた介護士だってことしか知りません」

 完全に白を切った遠藤を見て、浅野は首を横に振る。

「別に責めているつもりはないのよ。あなたのことは黙ってあげる。ということで、そろそろ刑事さんを呼んできてくれるかしら。外で話すと警備が面倒だから、ここで聞くから案内して」

「はい」

 運転手の遠藤昴は頭を下げ、長官室から離れる。

 公安調査庁のホールで待っている木原と神津の前に、遠藤昴が現れたのは五分後のことだった。

「警察の方ですね? 公安調査庁長官の運転手の遠藤昴を申します」

 遠藤と名乗る運転手の男は刑事に深々と頭を下げた。

「あなたが運転手ですか? 介護施設でデパートの鍵を受け取り、大橋陽一からの手紙を受け取ったと聞きました。その手紙の内容を知りたいのです」

 早速本題を切り出す木原に対して、遠藤は承諾する。

「了解しました。長官がお待ちです。ご案内します」

 再び頭を下げた遠藤と共に、二人の刑事はエレベーターに乗り込んだ。

 長官の執務室に案内された刑事達は、机を挟み浅野房栄と対面する。限られた時間しかないため、木原は早速浅野に尋ねた。

「浅野房栄公安調査庁長官。あなたのお母さんと敵対関係だった小松原正一を殺したと大橋陽一が告白しました」

 この話題に浅野は眉を顰める。

「小松原正一。確か二十四年前に急死したと母から聞いているわ。自首してきたという大橋陽一は母を介護していた人だったかしら?」

「そうです。彼の自宅から白骨化した小松原の遺体が発見されました。凶器も見つかっているため、大橋陽一が犯人で間違いありません。しかも、彼は数年間海外に移住していたため、未だに時効を迎えていないんですよ。しかし、彼と被害者の関係や犯行動機が分かりません。そこで被害者の関係者に話をお聞きしようかと思いました」

 事の経緯を聞いた浅野はクスっと笑う。

「関係者とは言っても、私は小松原さんのことは知らないのよ。強いていうなら、母唯一の汚点。少し調べたら分かることだけど、二十四年前、母は小松原正一に使途不明金問題を追及されたの。このことはマスコミ発表される前に握り潰されちゃったわ。その時小松原に最低な政治家だと罵られた挙句、頬を殴られたと母が言っていた」

「介護施設の広田さんから伺いましたが、あなたは大橋さんから手紙を受けとっていますね。その手紙を拝見することはできますか?」

「あの手紙ね」

 浅野は机の引き出しから封の開いた封筒を取り出し、机の上に手紙を置いた。上部右端が数センチほど破れた便箋に書かれていたのは、たった一言。

『約束を破ってしまいごめんなさい』

「浅野長官。この手紙を提出してもらえませんか? 一応大橋陽一本人が書いた物か筆跡鑑定をする必要があります」

「ええ。構わないわ」

 二人の刑事は浅野から手紙を受け取る。その去り際、木原は人差し指を立て、浅野に訊いた。

「聞き忘れていました。この手紙にある約束というのは、何のことでしょうか?」

「母の月命日に墓参りに行けなくなった。それだけのことよ」

「なるほど」

 木原がそう呟いた後、刑事達は公安調査庁から去る。

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