夏は僕から視線を奪う

 7月。夜9時。うだるような暑さに僕は汗をにじませていた。僕のいる建築棟はガラス張りのせいで昼間はまともに日光が入り、製図室の温度は夜になってもなかなか下がらないために、外よりもむしろ蒸し暑くなっていた。加えて建築棟の南側に池があるせいで、この季節はカやアブが発生し、蛍光灯に向かって飛んではぶつかり、真下にある製図台の上に死骸が落ちてくる始末だ。こいつらも暑さで頭がおかしくなったのだろうか。そんなことを考えながら死骸を消しゴムのカスとともに羽根箒で床にはらった。


 設計の演習が日に日に忙しさを増していき、課題提出の前日は徹夜をすることが当たり前になっていた。課題提出前夜の現在、僕は製図台に向かい手を動かしながら、今日も徹夜だな、と考えていた。製図室にはまだ提出の締め切りに追われる多くの学生が残っており、皆黙々と作業をしていた。


 日付がすでに変わり、疲労もかなり溜まってきた頃。集中力が切れたので周りの声に耳を澄ますと、明日は花火大会だねという会話がどこからか聞こえてきた。


 花火大会。豊平川とよひらがわで行われ、4000発もの花火が上がる札幌の夏の風物詩である。豊平川は札幌市を南西から北東へと分断するように流れており、毎年大勢の見物客が河川敷に集まってくる。

 徹夜明けで課題を終わらして提出が確認されると、午後から講評会が始まる。全員の発表が終わるのは夕方頃だから花火大会に行くにはちょうどいい時間帯だ。


 花火見に行く体力残らねえと笑いあっている声が聞こえる。話しているグループの方向をちらりと盗み見た。その中に彼女の姿はなかった。

 僕は特に花火に興味がなかったので、発表が終わったら帰ってすぐ寝ると決心して、止まっていた手をまた動かし始めた。


 課題は徹夜のおかげで無事終わり、すでに僕の発表は済んだ。僕の考えた設計案は可もなく不可もない無難なものだった。発表の際には教授からの指摘にたじろぎ、論理的な回答を頭の中から引き出すのに精一杯であった。

 彼女はというと、教授からの指摘に一歩も引かずに説明していた。


 全員の発表が終わり、教授が製図室から出ていくと、一斉に疲れた、眠いという言葉が学生の口から溢れ出していた。花火大会どうする、みんなでいっちゃうという会話も聞こえてきたが、僕はさっさと荷物をまとめて建築棟を出た。


 家に帰るためにメインストリートを歩いていると、いつの間にか横に同じ速さで歩いている人物がいることに気づいた。それは、彼女だった。

「帰るの?」

 僕は歩く速さを変えることなく、僕のことを見上げている彼女に言った。

「……寝ようと思って。」

 そうなんだと言うと彼女はあごに手を当て、わざとらしい少し考えるような顔つきをし始めた。沈黙は苦ではない僕だったが、発表終わりで気分転換したかったのかもしれない。

「そういえば、案、よかったね。教授とも議論が白熱してたし。」

 僕は思案顔の彼女のことは気にせず話しかけた。

 彼女は話しかけられると、眉間にシワを寄せたまま目だけをこちらに向けて答えた。

「本当にそう思ってる?」

 うん、と僕がうなずくと、彼女は少し笑った。

「ありがとう。でもまだ全然ダメ。作り終わってからも自分で納得できないところがたくさん見えてきて、提出までは何度も作り直してたの。一つ一つにちゃんとした意味を持たせたかったんだよね。発表は終わったけど、うーん、まだまだ改善の余地ありだな。」

 どうやら彼女は自分が納得のいく出来になるまで手を抜かない主義のようだ。僕なんかはすぐに妥協してしまうので、そんな高い目標を常に自らに課す彼女の姿勢は素直に見習いたい。そんなことを考えていたら、彼女はそうだ、と大袈裟に声を大きくして言った。


「花火大会、一緒に行かない?」


 一瞬、何を言っているのか僕にはわからず、言葉が出てこなかった。どんな脈略でそのような言葉が出てくるのだろう。そんなことを考えている僕のことには気がつかないまま彼女は続けた。

「最近見てて思ってたんだけど、なんだか周りに上手く溶け込めてないような気がして。」

「……僕が?」

 僕は自分の顔を人差し指でさした。彼女がそう、とうなずく。

 確かに僕は周りの学生と足並みを揃えようとはあまり思っていない。建築に興味を持って進学したけど、他の建築学生のやる気に満ちている顔を見ているうちに、自分自身のやる気が非常に低いものであると気づいたことは事実だ。

 きっと彼女は僕の発表や普段の言動から、そのことに気づいたのだろう。よく観察していると感心する。

 私も同じでさ、と彼女は言う。確かに、最近彼女が誰かと一緒にいるところを僕は見ていない。初めは誰とでも仲良くできそうな雰囲気のあるやつだと思っていたが、案外うまくはいかないようだ。

 今日のこの提案もただの暇つぶしだろうと考えていたが、同族意識が彼女の中で働いているのかもしれない。

「ねえ、どう?」

 僕の目を真っ直ぐに見つめてくる視線に耐え切れず、視線を逸らしてから答えた。

「……わかった。」

 こうして僕は彼女と花火大会へ行くこととなった。


 豊平川までは歩いて行くことにした。札幌駅から地下鉄に乗って4駅もすれば目的地に着くのだが、今の時間はすでに花火大会へ向かう人たちで混んでいるだろうと考えたからだ。お互い徹夜で思考力が落ちていたからか、歩いている間は特にこれといって話はしなかった。彼女はあくびが出るようで、時々手で口元を隠していた。


 結局、地上も豊平川に近づくにつれて人が増えてきたので、河川敷に着いた頃にはすでに開始時刻の少し前になっていた。

 普段誰もいない河川敷が、すでに見物客で足の踏み場もないような状態だった。

 後ろの方から見られればいいと考えていたが、彼女はなるべく前の方で見たいと言った。頑張って人の隙間を通ろうとするが、自分の体が無駄にでかい分、なかなか前に進めない。ふと彼女がいないことに気づいたので、辺りを見渡す。見物客の頭のてっぺんしか見ることができない。見失った、どうしようかと考えていると、服の裾が引っ張られた。下を見ると周りに押しつぶされそうになっている彼女が、僕の服を掴んでいた。その手を離すと、そのまま僕に手を差し出しながらこう言った。

「ほら、迷子にならないようにさ。手、つなごう。」

「……え。でも。」

「はやく。もう始まっちゃうよ。」

 急かされた僕はしぶしぶ彼女から差し出された手を握った。いや、というよりもの方が正しい表現かもしれない。それほどに彼女の手は小さかった。

 15センチ。そう考えた瞬間、僕は今、彼女といるこの現実に実感を持った、そんな感覚に襲われた。


 花火が上がり、見物客の歓声が聞こえてくる。しかし、僕の意識のすべては、繋がれている彼女の手へ向いていた。


 僕の手よりもたった5センチ小さいだけの彼女の手が、愛おしく思えた。

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