第2話

「おい、誰かいるか?」

 サークル棟の二階、パズル研究会と書いてある扉を波留は叩く。間もなく、中から声が聞こえてきた。

「何か用か? 開いてるよ」

 波留はそれを聞くと、扉を開けて中に入る。中は昼なのに薄暗い。部屋の中には男女一名ずつ姿が見えた。二人とも、何か机に向かって作業をしているようだ。波留は、先ほど中から返事をしたであろう男の方に声をかけることにした。

「人を探してる。このパズルを作った奴だ」

 部屋から持ってきた白紙のクロスワードパズルを差し出す。男はそれを一瞥すると、納得したような顔で言う。

「……これを持って来たのは君で三人目だ。結論から言うとそのクロスワードにも、過去のものにも我々パズル研究会は関与していない」

「何だって?」

「困ったものさ。こんな陳腐な子供だましが我々の作ったものだと思われるなんて」

 そう言うと男はよくセットされた髪をかき上げて、わざとらしくため息をついた。この男の所作は一々わざとらしさを感じさせる。こういうの、何と言うんだったか……。

「でも面白い題材だと思いますよ。鍵の無いクロスワードパズル」

 漠然とそんな事を考えていると、黙って作業をしていた女性が口を開いた。栗色のロングヘアで、恐らくは波留より年下だ。ということは、一回か、もしくは二回生だろう。

「面白いもんか。こんなの解ける訳が無い」

「そりゃそのままじゃ解けませんけど、きっと何かの方法で鍵を提示しているんですよ。彼女らしいです」

「彼女?」私は尋ねる。「作者に心当たりがあるのか?」

「ええ。ありますよ。そして教えるつもりでもあります」

 彼女はこちらに顔を向ける。なにやら不敵な笑み、にも見える表情をしている。男は口を閉じたままだ。

「……これを聞きに来たのは三人目だって言ったよな。他の二人にも教えたのか?」

「いいえ。彼らには教えても面白くありませんから」

 そう言うとまた笑みを浮かべる彼女。不意に、口を閉ざしていた男が小さく声を上げる。

「おい、あまり部外者に喋るもんじゃ……」

 言いかけた男を、彼女の視線が鋭く貫く。すると男は再び口を閉じて作業に戻った。この部屋における力関係が大体明らかになった気がする。

「君、名前は?」私は彼女に問いかける。

山城美結やまぎみゆ、文学部の2回生です」

 美結は立ち上がって言った。結構身長が低く、それでも波留は美結の事を見下ろす形になっていた。

「話を戻すが。他の二人には教えなかったのに、私には教える理由はなんだ?」

「あなたが二見波留さんだからですよ。そのパズルに興味を持ったのはあなたではなく朝霧冬子さん、でしょ?」

「ちょっと待った。なんで私の名前を?」

「ちょっとした有名人ですからねー。もっと世俗の事にも気を向けたほうがいいですよ」

 美結は得意げに言う。きっと彼女は誰に対してもこんな接し方なのだろう。

「それで、どうします?  そのパズルの作者に会いたいんですよね?  連絡とってあげますよ」

「……ああ、頼めるか?」

「そう来なくちゃ!  じゃそういうことで、私は帰りますんで、先輩あとお願いしますね」

「……勝手にしろ」

 男は吐き捨てるようにそう言い、大きくため息をついた。

「いや、別に電話で約束つけてくれるだけでいいんだが……」

「いやぁ、私も気になりますもん。このパズル」美結は上機嫌な笑顔で続ける。「それにぃ、彼女、警戒心が強いですから。二見先輩だけだと会ってくれないかも……なんて」

 今度は波留がため息をつく番だった。彼女の周りにはため息が絶えないに違いない。

「……分かった。案内してくれ」

「はぁい。じゃ先輩、また明日〜」

 波留は室内に残った男に手を振る美結に連れられて、パズル研究会を後にした。


「さっきの奴、名前なんて言う?」

麻木正海あさぎまさうみ、一応うちの会長です」

 美結の後ろについて、廊下を歩く。彼女の羽織っているパーカーの袖がぱたぱたと揺れている。

「あ、ちょっと電話かけますね。流石にアポ無しで会いに行くと追い返されちゃうので」

 サークル棟を出たところで彼女はポケットからスマートフォンを取り出した。こちらも冬子に連絡しておくことにしよう。冬子にも先月からスマートフォンを持たせている。冬子自身は必要ないなんて言っていたが、一緒に選んだ物を買ってやると、文明の利器の利便性に早くも敗北を喫したようだった。例のクロスワードと格闘している時もよくスマートフォンを調べ物やメモに活用していたのを思い出す。

 波留は冬子に、起きた時に電話してくれ、とだけメッセージを送り、今まさに電話をかけている美結の方に向き直る。

「あれー、繋がらないですね。二回もかけ直したのに。おかしいな」

「ま、大方家で寝てるんでしょう。仕方ない、押しかけますか」

「押しかける? 大丈夫なのかそれは……?」

 正直言って不安だ。美結はかなり投げやり、というか行動してから考えるタイプだと私は予想をつけている。そういう点で少し冬子に似ている気がするが、美結の方にはあまり行動に裏付けがないように思える。

「ええ、まあ、大丈夫ですよ。任せといてください、大船に乗ったつもりで!」

 そう言い美結はぐい、と胸を張る。

 うーむ、これは。

 波留の中で一つの衝動が芽生えるのが分かった。そしてその衝動とそれを打ち消すための理性とがせめぎ合いを始める。そして決着は―――

「……何してるんですか、先輩」

 ―――波留の手が美結の胸にぺたり、と触れていた。ぺたり、である。その擬音が正確極まりない形容をもたらしてくれる。しかしなるほど、これはこれで骨ばった胸部の感触が心地良く押し返してくる。冬子の胸を不健康と評するなら、美結のそれは未成熟だ。なんというか、幼さ、可愛げが感じられる。

「悪くないな」

「あのですね、もうそろそろやめて頂けますか?」

「ああ」波留は手を離す。「悪い」

「全く、ワンタッチ目の時点で先輩をぶたなかった事を褒めて欲しいです。というか、『悪くないな』じゃないですよ。人の胸を触っておいてなんですかその態度は!」

 お菓子の袋をぶちまけたみたいにまくしたてる美結。私はと言えば、ただただ恐縮する事しかできない。やってしまった、という奴だ。行動に裏付けが無いという点では私も重篤だったかもしれない。

「いや、すまん。この通り、全く申し訳ございません」

 私は両手を小さく掲げ、"土下座"のジェスチャーをする。

「そんなのじゃ足りませんね。地面に額を擦りつけて私の靴を舐めながら慈悲を乞うて下さい。そしたら許してあげます」

「えぇー……」

「まぁ、というのは冗談です。が、私はそっちの気がありませんので次やったら即帰らせてもらいます」

 美結はすたすたと波留を置いて歩いていく。……怒らせてしまったようだ。仕方ない。ここから信頼を得ることを考えよう。


 無言のまま二人で歩き続け、大学を出て最寄りのバス停にたどり着いた。

「次のバスまでちょっと時間がありますねー」

 時刻表を覗きながら美結が言う。少しは機嫌が直ったのだろうか。そもそもそんなに怒っていたわけではないのではないか……?

 いや、それは希望的観測というものだろう。

「《加藤真紀》《かとうまき》。理学部の2回生で、パズル研究会の元メンバーです」

 彼女は車道の方を向いたまま話し始めた。

「それが、このクロスワードの作者なのか?」

「ええ、そうです」

「さっき、麻木が何か言いかけてたのと関係あるんだよな」

 美結は黙っている。

 バスが一台到着するが、違う系統だったらしく美結は動かない。背が低くて、人形みたいだ、と私は思う。

「……多分ですけど、二見先輩」

「先輩、朝霧さんの前では馬鹿なフリをしてますよね。違いますか?」

 それは、波留にとって思ってもみなかった質問だった。しかし、なぜか波留はそれを聞かれたことに驚く事もなかった。

「なんでそう思う?  お前、冬子と知り合いだったのか?」

「いえ、そういう訳でもありません。ただなんとなく、そうかな、と思っただけですよ」彼女は手をぶらつかせながら言う。

 波留は少し返答に窮する。はぐらかそうかとも思ったが、そうする理由は見当たらなかった。

「……そっちの方が面白いからな。ま、アイツからすればたいていの人間は馬鹿だって事だ」

「……そうですか」

 また二人の間に沈黙が横たわることになった。なんだか神妙な顔をしている美結の横顔を見ていると、似合わないな、なんて考えてしまう。


「待たせたわね。で、そちらは?」

 冬子は私達が目的地に到着した五分ほど後に自転車に乗って現れた。

「山城美結、人文学部の2回生で、パズル研究会のメンバーです。それで、あの、朝霧さん……」

 なにか言いたげにもじもじしている美結とこちらを見て首をかしげる冬子。見られても、私も美結の意図するところは分からないのだが。というようなアイコンタクトを送っておく。

「朝霧さん!」

 美結は一呼吸して、"気をつけ"の姿勢で言う。

「は、はあ」

「サイン下さい!」

 色紙とペンを差し出した美結に、波留と冬子は顔を見合わせた。

「あの……、誰かと間違えてない?  私のサインに価値があるなんて、とてもじゃないけど思わないわ」

「いえ、私、朝霧さんのファンなんです!」

 また私達は顔を見合わせることになった。流石の冬子も面喰らったようだ。目を見開いたまま固まっている。

 かく言う波留もかなり驚いていた。美結の素振りから多少冬子に興味があるのだろう、と予想はしていたが、まさかファンとまで自称するとは。

「あの、サイン、頂けないでしょうか……」

 美結は固まった冬子を上目がちに見て、あからさまにしょんぼりした様子だ。その声を聞いて、冬子は再起動する。

「あ、ああ。サイン、サインね。いくらでもどうぞ」

 冬子はそう言うと美結からペンと色紙を受け取った。しかし、ペンを握ったところで彼女はまた停止してしまう。

「……サインってどうやって書くの?」

 そして、冬子はゆっくりとこちらに顔を向けて言った。


 数分後、軽やかな歩調の美結の手には習字のようにかっちりした字で"朝霧冬子"と書かれた色紙が握られていた。美結は歩きながらしきりに冬子に話しかけ、冬子も何やらまんざらでもなさそうな顔で答えている。

「―――だから言ってやったのよ。『現場にいた全員尿検査させなさい。薬物の反応が出たらそいつが犯人よ』って。そしたらどうなったと思う? 全員陽性で逮捕されて、事件は迷宮入り。面白いでしょう?」

「えー、ヒッピーの巣窟じゃないですかぁー」

 先ほどから冬子はかなり機嫌が良さそうだ。いつもより格段に口数が多くなっている。ファンなんていうものが出来たのは恐らく彼女の人性で初めてだろう。浮かれるのも無理はない、のかもしれない。

「そういえば朝霧さんはこのクロスワード、どう思いました?」

 そう言うと美結はポケットから冬子が持っていたのと同じクロスワードを取り出した。冬子は少し驚いたような顔をする。

「……複数あったのね」

「私が確認しただけで人文学部、理学部、そして工学部に一部ずつ掲示してあったみたいです。というか、前から真紀ちゃんは何箇所かに貼ってましたよ。知りませんでした?」

「そういえば、私で三人目だって麻木が言ってたな」

「波留と、美結と、あと一人ね。真紀って言うのがこのクロスワードの作者?」

「ですです。加藤真紀。理学部の2回生で、元パズル研究会。私の友達です」

「私の週末を返してもらわなくちゃ」

「私も、だいぶ悩まされましたからねぇ。問い詰めたい気分ではあります」

 それを聞いた冬子は何か言いたそうに少し美結の方を向いて、再び何もなかったように歩き始める。それは彼女が何かに気づいたサインだ。違和感やつっかかり、彼女風に言うと"糸のほつれ"。それらに気が付いた時に、冬子のその動作は出る。

 一方の美結は、そんな事は気にも留めず軽い歩調で歩き続けている。波留は、何に気付いたのか冬子に尋ねようかとしたが、止めておいた方がいいだろう、と判断した。それは、美結に関して気付いたことに違いない。ならば、彼女の前では尋ねるのは控えたほうがいいはずだ。

 さて、この時から冬子の機嫌は登り坂だった。そしてさらに、これからその登り坂はどんどん急激になっていく事になる。しかしそんな事は、この時の波留にとっては予想しえないことだ。

「あ、見えてきましたよ。あのアパートです」

 今思えば、そう言った美結の指さした方向に黄色い"KEEP OUT"のテープが見えた時、冬子の機嫌グラフはまさに頂点に差し掛かる所だったかもしれない。

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