逆説的な結果 -PARADOXICAL OUTCOME-

kinakonn

第1話

 人間の感情というのは全く以て御しがたいものである。

「……ッ! ……ッ!」叩きつける音が響き渡る。

 そしてその中でも最も御しがたく、かつ激しい感情は"怒り"であろう。

「……ッ! ……ッ!」彼女は手に持った乗馬鞭でもって目の前の『それ』を叩きつけている。

 憤怒とは、七つの大罪にも数えられる感情、罪。

「……ッ! ……ッ!」彼女の目の前には肉。

 怒りを制御するのに必要なことは、それを飲み込むか、吐き出すことだ。

「……ッ! ……ッ!」

 彼女がしているのは、誰が見ても後者だろう。

「そろそろいいぞ。だいぶ柔らかくなっただろ。気はおさまったか?」

 私こと二見波留ふたみはるは、目の前に居る彼女、朝霧冬子あさぎりとうこに声をかける。夕食に使う予定の切り落とし牛肉は、慎重に冷蔵庫へと戻しておくことにした。

 汗ばんだ彼女は乗馬鞭を握ったまま、肩で息をする。特徴的な白髪が彼女のうなじに汗で張り付いており、上気した頬と相まって非常に扇情的だ。

 画になる、とでも言うのだろうか。今すぐソファにでも押し倒してやろうかな、と思ったが、彼女の機嫌メーターが活火山の如く振り切れているのは分かりきっていたので今は我慢する。

 冬子はしばらくそのままで波留を睨んでいたが、やがて視線を外すと手に持った乗馬鞭を放り投げてソファに腰をかける。かと思えばまた立ち上がり、今度は水性ペンを握り壁のホワイトボードに向いて静止した。波留はその様子を困ったように眺める事しかできない。……実際、一昨日からの冬子の態度には困り果てていた。口もきかない、部屋にこもりきりで、食事もたまに。

 彼女がこうなるのは、決まって何か解けない問題がある時だ。そしてそれは、いつもなら簡単に解けるはずの物であればなおさらである。以前に一度、波留が彼女になぞなぞを出したとき彼女はこうなった。馬鹿げたなぞなぞの答えを教えても機嫌が治らず、かなり苦労したものだ。

 そして今彼女はその解けない問題と、文字通り直面している。

「あー!  分からん!  何なんだこれは!  人を馬鹿にしているにも程がある!  責任者を出せ!」

 ホワイトボードに向かって書きつけては消し、書きつけては消し、を繰り返していた冬子がその作業を中止する。わしゃわしゃと頭を掻きむしり、何やかやと喚き立てる彼女の姿は普段からは想像もつかないだろう。彼女を慕っている後輩の須藤加奈子あたりが見れば、きっと絶句すること間違いなしだ。

「……思うんだがな、冬子」

 波留は見かねて、声をかけることにした。冬子はちらり、とこちらを見る。

「解けるはずないだろ、その……。鍵の無いクロスワードパズルなんて」


 彼女がそのパズルを持ち帰って来たのは一昨日の事だ。何やら興奮した様子で帰宅した彼女の手には問題の、鍵のないマス目だけのクロスワードパズルが握られていた。

 彼女の話によると工学部の研究棟、一階の端にある掲示版に毎月クロスワードパズルが掲載されているらしい。そして彼女は毎月それを解いている。波留はたまに彼女がそれを解いているのを見たことがあった。なかなかに骨のある物であるらしく、波留に何か専門的な知識を尋ねてくることさえある。もちろん答えられる時の方が少ないのだが。

 そんなこんなで彼女はこの二日間、その白いクロスワードパズルにつきっきりだった。最初は彼女も、何か秘密があるんだ、これは何か大きな謎のはずだ、なんて楽しげに意気込んでいたが、一日も経つとこの有様になってしまった。彼女にとって、解けない問題があるというのはそれほどのストレスなのだ。

「きっと印刷ミスか何かさ。それを作った奴―――誰かは知らないが、そいつに聞いてみたらいいんじゃないか? もしかしたら、掲示板のところに訂正版でも貼ってあるかもしれないし」

 波留はなるべく冬子に気遣って言った。彼女がこんなに意気消沈することは珍しい。波留も、気を遣うというものだ。

「えぇ……そうね。紙にも異常はない。過去の解答とつき合わせても分からない……悔しいけど、正直、お手上げ」冬子は再びソファに腰掛けた。「そろそろ……、そういう手段にでも出ないといけないかしら。それと、掲示板なら加奈子に確認してもらったわ。……何もなかった」

「そうかい。それで、どうする?お使いぐらいならしてやらんこともない」

「いや、それは大丈夫……大丈夫よ。自分で行くから……。まずは、クイズ研究会かしらね……」

 冬子のしゃべり方は普段に比べて非常に緩慢だ。それに心なしか、瞬きの回数が多いように感じる。これは……

「お前、もしかしてずっと起きてたのか?」

「こんな問題があるのに……、寝ていられるわけがないでしょ……。さ、行くわよ―――っと」

 ソファから立ち上がろうとして、彼女がふらつく。そのまま倒れ込む彼女を、波留はとっさに受け止めた。

「おい、大丈夫か?」

 顔色が悪く、呼びかけても返事がないので心配になる。やがて、すぅ、と規則正しい寝息が聞こえたので波留は安堵でため息をついた。全く、世話がやける。

 しばらく寝かせておこう、波留はそう思い、寝室まで運ぶことにした。幸い冬子はかなり軽かったので、特に苦労することなく彼女をベッドまで運び込むことができた。

「おっと、ワイシャツは皺になっちまうな……」

 波留は彼女の体をベッドに寝かせる直前に気づき、それを脱がせ始める。洗濯の当番は私だから、これは後の手間を省くための合理的な選択だ。洗濯だけに。しかし、まぁ、少しの悪戯心があった事は否定しない。

 ワイシャツを脱がし終えた私は彼女をベッドに寝かせ、薄めの毛布をかけておいた。そして、出かける準備に取り掛かる。

「さて、まずはクイズ研究会だったか?」

 波留は彼女が持っていたクロスワードパズルを丁寧に鞄にしまうと、玄関へと向かった。

 ―――願わくば、何も面白いことが起こらないように。そうでなければきっと、彼女が目を覚ましたときに腹を立ててしまうだろうから。

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