第2話


 席がえをした日から、日直が真ん中の列の前から3番目辺りまでくるには月日が経っていた。オモチャのナイフのように柔らかい視線ヤイバは、今でも突き刺さる。視線ヤイバの主は誰かは、わからない。

 視線の長さはおよそ、刃渡り7.5センチ。今までみたことのない短さと柔らかい視線ヤイバが気になり、授業に集中できないでいた。


 校内に授業開始のチャイムが鳴り響く、次の授業は歴史。先生が来てしまう前に、教科書とノートを出そうと引き出しの中を探る。


(…………あれ?)


 歴史の文字を見過ごしてしまったのだろうか、もう一度教科書を探すがその文字はどこにも見当たらない。まさか、と思いながらも今度はカバンのなかを探すが見つからず、私はカバンに顔を押しつけた。


(どうしよう……)


 他のクラスの子に借りる。そんな案が浮かぶが、借りられるような友人などいないし、ましてや先生がもう来るかもしれないというのにそんな時間などない。

 歴史の先生は、とても厳しい。教科書がないと知ったら課題のひとつやふたつ、出されてしまうかもしれない。

 自分の情けなさにすこし涙が出そうになるのを堪えつつカバンを机にかけ直そうとして、パチリと、隣の席の男の子と目があった。


 隣の席の男の子、向坂湊さきさかみなとは、黒い瞳をぱちぱちと瞬かせこちらをジッと見ていた。しばらく動かない彼に私は小首を傾げると彼は、ハッと我に返ってはその顔を紅葉色に染め上げた。

 口をおさえて何やら慌てている向坂くんの姿は、明るくて堂々としている彼にしては珍しく、マジマジと見つめてしまう。


「……ど、どうしたんだ?」


「え?」


 まさか、声をかけられるとは思いもせず声が裏返ってしまった。


「なにか探してるみたいだったけど」


「あ、ええっと……」


 教科書を忘れた。そう素直に伝えてもいいのだろうか、なんだか忘れたから見せてくれと図々しくも強請ねだっているようで、伝えるのははばかれる。

 言おうかどうか迷っている私に、彼は慌てて両手を振って見せた。


「俺の勘違いだったらいいんだ、ごめん。けど、俺に何か手伝えることがあったらと思って……」


 その彼の言葉に、きゅっと心臓が甘く痛んだ。こんなにも優しい言葉をかけられたのはいつ振りだろうか。

 彼になら話しても大丈夫かもしれない。そう思った私は、両手を祈るように握りしめた。


「……歴史の教科書を、忘れてしまいまして」


「教科書?」


「はい……」


 沈黙が2人を包む。

 私は彼の次の言葉が何と返ってくるのかコワくて、握りしめた両手にさらに力をこめた。


「なんだ、教科書か」


 ギィー、とイスが引かれた音に私はビクリと肩をふるわせた。向坂くんは、立ち上がりこちらに背を向けている。

 教科書を忘れた私に呆れたのだろうか。それとも、教科書を見せてくれと催促しているように聞こえ怒ってしまったのだろうか。

 嫌な想像ばかり浮かべる私に、彼は机へとイスを私の机へと合わせることで答えを返した。


「なら、一緒に教科書を見れば解決するな」


 にかり、と太陽みたいに向坂くんは笑う。その笑顔がまぶしくて、彼の優しさが心にしみて、私の瞳から涙があふれた。


「な、なんだよ、泣くほどイヤ?」


 突然泣きはじめた私に、向坂くんはどうしていいかわからず両手をむやみに彷徨わせる。

 イヤではないと、むしろその逆であると伝えるため私は必死に首を横に振った。


「向坂くん、ありがとう」


「お、おう……」


 精一杯の感謝をこめて彼に笑顔を向けると、彼はそっぽを向いて恥ずかしそうに指先で頬をかいた。


◇◇


 歴史の先生が謝りながら入ってきたのは、それから5分後のことだった。授業開始の挨拶をする前に、先生はプリントを配りそのまま授業を始めてしまう。慌てているせいか、妙に机をくっつけている私たちには気づいていないようでホッと息をつく。

 先生の読み上げにあわせて、向坂くんは教科書をめくっていく。


「あー、すこし戻って教科書57ページ。織田信長の……」


 滞りなくめくっていた指先が先生の言葉に一瞬だけとまった。


「向坂くん?」


「あー、すまん。めくる」


 どこか気まずそうにしながらも、指定のページを開く。私は、そのページに描かれた織田信長の肖像画を見て、つい口を手でおさえたが耐えきれず、机に突っ伏した。

 教科書57ページ、織田信長の肖像画にシャーペンで落書きがしてあったのだ。少しばかりさみしかった頭がおかっぱ頭に、頬は可愛らしくグルグルほっぺにされている。細長い瞳もアイラインがひかれ、長い睫毛も描かれていた。


「ご、ごめん。気に障ったか?消すから許して」


 小さな声でそう言われ、消そうと消しゴムをもつ向坂くんの手を思わず掴んだ。


「…………有明さん?」


 掴んだものの、なかなか頭をあげない私に向坂くんは疑問に思ったのだろう戸惑うように声をかけられた。


「ち、ちがうの……ふふっ、ごめんなさい、面白くて」


 机に突っ伏しながら、顔だけ向坂くんに向けて笑う。


「あ、そっか……うん」


 夕焼けの色みたいに頬を染めて向坂くんは、笑った。

 その瞬間、ふにゃりと身に覚えのある感触が頬に触れた。いつも感じていた、オモチャのナイフのような刃渡り7.5センチの視線ヤイバ。それと同じ感触がいま、私の頬に触れたのだ。


「……視線ヤイバの主は、向坂くんだったんだ」


「え、なに?」


 蚊がなくような小さな声で呟いた。私が、なんと言ったのか聞き取れなかったのだろう。向坂くんはもう一度聞き取ろうと顔を近づける。


 視線ヤイバの主が向坂くんでよかった。そう思いながら、私は「なんでもない」と笑顔で返した。

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