04-3/3 挑戦状 / 過去

*****

 一人でこの街の住宅街に佇むのはアカリにとってそれが初めての経験だった。

 思えば、いろんな経験が一遍に折り重なりパンクしそうにもなっていた。

 だけど、そんな不安を揉み消すように日々は過ぎていく。


 アカリという少女には元々居場所などはなかった。


 どのように育ってきたのかも知らなければ、食料を求めてIDEAを歩き回る日々が続いていた。

 なにも居場所のないアカリに居場所をくれたある人間に感謝していたが、決して口には出さない。

 出してしまったら壊れてしまうこの思いがなんなのか彼女は知らない。


 初めて感じた感情から……どうしても彼にはあの場所に行ってほしくないと考えるほどにだ。

 それは仕事だというのに、ギリギリのギリまでこの『隠された指示』を伝えるのに億劫するほどに、彼が離れていくことに恐れていた。


 それに高橋がここに居てはならない理由はもう一つある。


 今探している市川有栖を高橋が把握していたように、彼女も彼が後輩だということに気がついている気がした。

 認知に対する破調を感じた以上、彼がいると気が付いたら捜査の邪魔になる可能性がある。


 そして、思っていた通りに市川有栖という女性は、自身の自宅へとやってきた。

 高橋が流が入院する病院へと向かってすぐのことだ。


「……次は逃げられない」


 市川有栖は、名前ほどメルヘンな女性ではなく、女性としては短髪、服もお洒落気がない規制通りのジャージ。

 あのIDEAでの有栖警備隊のリーダー、白銀の輝く長髪であらゆる人間を魅了してきた嬢王の有栖とはまったく別人に見えた。


 新世界『IDEA』での有栖の容姿ならアカリは何度も出会ったことがある。


 どちらも抗戦に駆り出されて、秘匿品と呼ばれる改造アイテムの交換(トレード)の現場の差し押さえのときだ。

 証拠を隠すため、異能力の保持者の彼女が戦場に出てくることは珍しいことではない。

 でなければ、あの現場はとっくに抑えられていたかもしれないと考えるほどにだ。


 アカリは、バッチを増幅させて広範囲に『現実』と『IDEA』を接続(リンク)させる。


 その瞬間、世界が二次的な、空間に取り込まれた。


 そして、アカリが手を翳すと、自身の身体が幼児姿のアバターへと取り込まれて、IDEAでの姿へ変貌する。

 先ほどみたいの甘い考えでは有栖をまた逃がすかもしれない。


 アバターがなくても魔法や接続の使用は可能だが、身体能力や俊敏精度は確実に生身では劣る。

 アカリがIDEAであの醜い容姿でいるのは、単に食逃げや大人料金に対する割愛だけではない


 だが、有栖もそういう事態は把握していた。

 彼女が携帯を取り出すとすぐに、接続された世界が一瞬で逆再生した。


「……接続解除?」


 異空間が完全に取り除かれて、そこにはただ平凡な住宅街の一角へと戻されていた。

 アカリの身体からアバターは取り除かれて、高校生の光の姿へと戻されていった。


「IDEAでのゲーム依存者『金髪幼女』がこんな現実ではモデルみたいな女だったとは少し驚きね。

 でも、普通に考えて? 親とか住民がいるこの地域で一戦交えようとするアナタの考えには賛成できない。

 そこまでして戦うってのならはいつだって相手になるわ」

「……いつも逃げていた奴が言う事ですかね? 信じられない」

「私は構わない……。だけど、本当に今の私と戦って勝てると思ってる?」

そういうと、ジャージで隠していた右腕を外す。「片手が動けなくても、現実世界のアナタには負けない。そのまま、アッチの世界に戻れなくしましょうか?」


市川有栖は、ギブスが付けられた壊れた右腕を剥き出しにして、その目はあの世界と同じ鷹の目のように鋭く光を捉えていた。


「……いえ、アナタの腕は壊れていない。仮病ね」あくまで、無垢な顔でアカリは呟く。「あんだけ本気で走れるのに腕が壊れているワケないでしょうが? 

 どうせあの世界では腕が壊れているっていう過敏性かなにかで腕力が上がっているだけ。それぐらいすぐにわかる」


 なにか返事をしようとした有栖を無視して、アカリは話を続ける。


「アナタは一度完全にこの腕が使い物じゃなくなったのは認めます。

 ……ですが、すぐに治った。今の医療は凄いですからね。

 だけど、アナタはそれを認めようとしない。その結果が、『IDEA』での異常パラメータと繋がる。

『ゲスト制度』でプラス999のところに元の200程度が加わったですからね。

 それが、三年というプレイ時間の実力が異能力なしプレイ時間十五年のわたしとあまり変わらない理由」

「――ウルサイ!」


 途中、有栖は奇声にも似た叫び声で、アカリの声を遮る。


 口を閉じた光の態度は相も変わらず、何もかも見通す無垢な目が有栖を捉えたままだ。


 有栖は、もう一度強くアカリを睨む。


「お前みたいな、ずっと現実逃避して、それが完全に現実になってしまった人間になにがわかるの?

 あの世界が亡くなって困るのは私もアナタも同じじゃないの?

 誰かが私が造り上げた大事なモノを、大切な仲間とその居場所を潰そうとしている。

 それを守るのがリーダーでしょ? 私は現実で居場所がなくなった人たちを守るために、消されようとするこの世界に仲間を増やしていただけ」


 アカリは彼女が言っていることがわからない。

 IDEAが亡くなる? そんな絵空事な事を恐れて彼女はこんな強行をしているのなら、尚更止めなければならない。


「アナタが『強制ログイン』させている多くの人が自殺をしています。

 それに気がつかないでまだ御託を並べますか?」

「お前になにを言っても無駄のようね。問題は強制ログインではない。

 その裏で強制ログアウトや自殺だと嘯く組織……。

 それが銭形率いる『社会更生委員会』と繋がりのある組織……そんなことも知らないで動いているの?」

「……わたしはそんなの信じない」


「……いいわ」有栖は脳裏の天邪鬼に踏ん切りをつけた。「言葉が通じる相手ではないってわかっていわ。

 だから、有栖警備隊のリーダーとして私はアナタに決闘を申し込む。

『デスルール』で命を懸けて勝負して決着をつけない?」


 アカリは怪訝な目を向ける。


「……有栖、アナタが言っていること意味わかっているの?」


『デスゲーム』。それは、アカリのような『IDEA』のみで生きている人間は体験したことがない。

 ただ、噂では聞いたことがある。


 ルールはとても簡単だ。


 現実でIDEAと接続(リンク)して、体力ゲージを削り合うというだけ。

 ただ、現実で行う以上、そこには『死』という概念が明白に存在する。


「当然……、伊達に三年間IDEAにいたワケじゃない。

 XX年前に起きた事件や秘密、反則やバグ沢山調べてきた。

 アナタにその申出に従う覚悟がないのであれば、二度と私の邪魔をしないで」


「……わかりました」アカリは、安易にそれに了承をするしかない。


 彼女の中では、何が正義で悪であるのかが困惑していた。

 自身では銭形が言う言葉だけが正義と考えていた。

 もし自身が生きていた世界が急遽消えると言われて、信じられずにいた。

 無垢な蒼い瞳の中には、ただ命令を聞いていればいいという人形としてのアカリが、確かに理性という感情を守るので必死だった。


*****


 病院を出てすぐに、爆発しそうな心臓を落ち着かせるために、高橋は空を仰いだ。


 過去に犯した過ちを抉られる。


 昔の古傷をなぞられるような痛みに中、その隣には日本には似合わない金髪の少女が立っていた。


「流の様子はどうでしたか?」

 その目は、真実を見せつけた悪の眼ではなく、あくまでも冷淡で無垢なまっすぐだった。


 彼等『銭形社会更生委員会』の目的がわかっているとしても、まさか彼女に会いに行けだなんて言わないと思っていた。

 あそこには、あの高橋の知らない流という女性がいたのであればどれだけ気が楽であったのか。


「どこで彼女の情報を手に入れたんだ?」

 それを知り得ないアカリの目さえ信じれない。


「アナタの素性を調べて、昔に大怪我を負って歩けなくなった人間を探すのなんてお安い御用です。

 ……だと言っても、調べたのは、銭形ですけどね」

「そこまでするのか?」

「およそ一年間、ずっと探し求めた事例ですからね。

 ですが、一年って期間で済んだと考えれば、短いほうですが。

 一応ですが、彼女のログイン時間、アナタが急に会われたことによる心理的動揺による心拍数……」

「――だからどうしたんだ?」


 すでに、ある確信が高橋の脳裏には浮かんでいた。

 否、彼にはもう病院で楓凪という中学のときの友人と出会う前から、彼女の正体がわかっていたのかもしれない。

 あの写真に写された血達磨の少女に残されたザラついた髪、痩せこけた骨格、桃色の皮膚、優しかった目でさえも高橋にはそれが楓凪だと気づくことは容易い。


 高橋はそれを別人だと自分自身にも嘘をついていた。

 だが、それは銭形という男には彼女の正体を教えているようなことだった。


「銭形って男は、そんな歩けなくなった……IDEAでしか生きる価値を見出せない少女に現実で生きろというのか?」


 なぜかそのとき、アカリの眼の色が変わる。


「……あるいはそうかもしれませんね。ですが、アナタがそんなに彼女を庇う理由がわかりません。

 流は一年前にコチラに現れて、味方と敵での間を複雑にも絡んできた。

 アナタがこちらへ来てしまった原因も、彼女が使用した『鏡』が出回っているせいでもあるのに」

「――それは」


 いつもらしくないアカリの口調に戸惑う。

 まるでなにかを責め立てるように、それは自問自答でそう自身へと思い込ませるように迸る。


「……どうしたんだよ? アカリ」


 どうにか、冷静に話し合おうとしたが……。


「彼女のことが好きなのですか!?」


 それは、あまりに関係のない事項のように思われた。


「はあ? どうしてこうなるんだよ!」

「……アナタの頭がそう言っているのです。

 ……好きというのは、心が惹かれる、気になるという感情の真意がわたしにはわかりません。教えてください」


 それが、勝手に心を読み取る彼らに対しての憎悪になった。


 あのIDEAに住む組織全員に言えることだ。

 人の心を覗くという行為は本来ならば神でさえ許されない。

 思いのままに心を覗き、隠し事を掘り出す彼女たちが許せなく堪らなくなる。


「アンタより傍に居てもらいたい。そういう感情の一つだよ」

それが、精一杯の彼女への嫉みであったが……。

その言葉によって、なにか糸が切られたようにいつものアカリになる。


「……そうですか」アカリは平然と高橋を見る。「わかりました」


 その急降下で、高橋自身も彼女の事を傷つけたと気づいたときにはもう遅い。

 アカリは真っすぐな感情のない人形へと戻される。


「わたしたちは彼女の正体が明らかになったと言って手を出したりはしません。

 ただ、彼女を守るために居場所を把握しただけと考えてください」


 結果がどちらにしても、それ以上、高橋はなにかを語ろうという気にはなれなかった。


 銭形という人間の目的がわからない。楓が流だからってそれがどうしたいのか?


 彼女は身元がバレるのが嫌で名前を詐称、偽名であちらの世界で自身の居場所を探していたんだ。


 名前がバレるということは、彼女の居場所を奪うことと同意。


 高橋にも、そして楓にもその苦しさは重々知っている。心の枷をなくした人間は、生きる価値を急激に狭めていく。


 中学の時、高橋と楓の居場所は、誰も訪れない図書室だったように。

 その居場所だけが二人を繋いで、ただ前を見て過ごせたように。



 夜になると、外からは梅雨明けの雨音が聞こえ始めていた。


 食事もせず、自らの過ちに自覚し始めた高橋の部屋へとアカリは訪れた。

 彼女がこうやって彼の部屋に来るのは珍しいことではない。ただ、喧嘩の後だというのもあって、彼女は来れないと思っていた。

 彼は色々と悩んだ。どうアカリに謝るべきか、どうすればアカリに本当の想いを伝えられるのか悩んでいた。


 だから、彼女がこの話題を尋ねることは想像していなかった。


「……わたしにだけでいいから。流のことをどう思っていたか教えて」


なにも悪びれることない。それ以上に、アカリの目はなにかに恐れるように震えている気が高橋にはした。


「僕には、あの子しか友達がいなかった。

 だけど、僕には彼女の傍に居る資格はない」


 それが高橋が楓へと思う気持ちの気がした。


 そして、高橋はその感情をどうしてもアカリには知ってもらう必要があった。

 あらゆることを誤解されていることが嫌だった。


「僕はそれを口に出すことが怖いんだ。

 それがどういう意味か理解してほしい」


 それが、彼女に対しての、せめてもの気持ち。

 高橋は光という少女にそういう形でしか気持ちを伝えられない自分を嫌いになる。


 アカリは細く白い手を、あの日のように高橋へと向ける。その手が重なったとき、二人は一つになる。


 そこから、アカリは高橋の過去を見た。

 

*****

 高橋は中学三年生の頃だった。

 二学期が終わる少し前、クリスマスで浮かれている生徒も数人いたが、ほとんどの生徒が高校への進学のために日々精進していた。


 だが、人によっては真面目に勉強をしている人間が気に食わない奴らも複数いた。彼らは『落ちこぼれ』と言われていた。


 誰がどう仕向けたのかわからない。


 確かに言えるのは、クラスという小グループの形成によってできた無理矢理な人間関係が彼女、そして高橋が『虐め』という被害に遭った一番の原因だと考える。


「お前、クラスで勉強するなよ」


 今日の虐待の発端はそんなセリフだったかも知れない。

 楓は教科書を取られた。この教科書に人が集まっていく。

 テレビで見た川に落ちた牛に群がるピラニアのように、教科書の周りに男女問わず集まっていく。


 そこでは、虐めというか楽しくおしゃべりをしている一つの塊にしか見えないが、彼女たちは作業を終わらせると、それを彼女に返した。


「――自覚したほうがいいこと。ここに書いといたから」


 そう、女性が言うと、一斉に笑い声があがる。

 彼女は、下を見て何も言わない。


 担任が訪れると、そういうときだけは優等生の如く冷静に席へと戻っていく。



 彼女はそれ以上なにも言えない。

 以前、担任の教師に教科書の件を話したが、それは逆効果になった。一度誰かが彼女がいじめられていることを報告した人物がいたのだ。

 それが問題となり、学校問題になる手前、急激にその話題は消滅した。


 学校側の決定は、彼等の『いじめ問題』が発覚することで、その他生徒の推薦入学が決められた子、さらには虐めた側のこれからの将来に関わるとしてこの問題を掘り下げたのだ。

 その説明を、楓本人にだけ言い渡された。彼女もそれで了承してしまっていた。


 それっきり何も虐め問題は解決されていない。逆に楓はチクリ魔として、あらゆる生徒から罵声される結果となった。


 そのとき、学校へと知らせたのは高橋だった。


 先生もその虐めの真実を知りながら、隠蔽しようとしていることは気づいていた。

 生徒は、担任や教師の前であからさまの虐待をするほど馬鹿ではない。だが、馬鹿でなければ、虐めという非人徳的行動や、他人の気持ちを理解できない行動は取らないだろう。


 あの雰囲気で、なにか起きたことが理解できない担任含めその他の教師も高橋にとっては馬鹿としか言い表せない。


 よく学校で見掛ける学内アンケートがなくては(あったとしても無理かもしれない)、把握できないグループ関係ならいっそのこと解体してほしいとまで考えていた。

 それこそ、壺に蛇とカエルを共に投げ込むことを学校という社会体制が行っていると同意かもしれない。



「先生に知らせてくれてありがとうね」楓はそれでも高橋に感謝をした。


 授業が終えると、楓は隠していた体育着に着替えて図書室で自分の世界に耽る。

 一人のストーカーじみた高橋という男は、そんな彼女を眺めているのが好きだった。


 角から沈みそうな夕日、高橋は受験勉強を一丁前にしていた。


 楓は彼の気持ちなどいざ知らずに高橋の前へと微笑みながら席に座る。


「東大でも目指しているの? 高橋くん勉強好きだね」

 肘を付き、顎に手をあてて、楓の視線は高橋へと向けられていた。


 あえて彼女に目を合せずに「アンナ奴らと同じ高校はゴメンだからな……」

 迷いなく、高橋は答えた。


「そなんだ」彼女の目が反らされて校庭へ向けられる。「アタイはね。高校には行くつもりはないんだ」


「――え?」高橋は思わず楓の顔を確認した。「どうして?」


 実はというと、高橋がそこまで必死になって勉強するのにはワケがあった。


 それでも、楓が成績はいつもトップで頭脳明晰、この市では選りすぐりの進学校に前期入試で合格できるほどの学力がある。

 高橋は、彼女と同じ高校へと進学するために勉強をしているつもりだった。


「……そうねぇ。高校行ってもツマらないじゃん?」

「いや、そうだけど……」

 ただ、彼女と同じ高校へ入学すれば楽しくなくてもどうにかこの先を乗り越えられると考えていただけあって、彼女のその『行かない宣言』は不覚な衝撃として高橋の心情を揺らしていた。


「なんか、将来に希望が持てないの。

 やりたい夢とか希望とか、どこかに落ちてないかしらね?

 川でも海でも山でもいいから。そしたら、高校にでもどこでもいくのに」


 そういうと、楓は、椅子から腰を持ち上げて上半身を窓に身を投げ捨てた。


 外からは校庭の砂の匂いが混じり合った風の匂いが、図書室の陰湿な匂いと混ざり合う。

 彼女の長い髪が海の中の海藻のように風に揺れていた。



 その帰り道だった。


 誰もいないはずの教室で、一人の男性が高橋の肩を掴んだ、その後ろで不気味な笑みを見せる同級生に、彼の肩は震えていた。


「……お前、アイツのこと好きなの?」

 肩に手を置いた男がそっけなく尋ねる。


「そういうワケじゃない」


 彼を敵に回すことがどういうことだか理解できないはずがない。

 この教室で楓が虐められている中心にはいつも彼の姿がある。

 その彼が、高橋という楓に味方をしようとする人間を邪険に思わないはずがない。


「いいんじゃないか? いじめられっ子同士、エッチでもなんでもやってればいいじゃん?」


 男が言うと、周りの同級生たちも吊られるように大袈裟に笑い始める。

 そんな彼らを無視して、高橋は下駄箱のある一階へと向かおうとする。


「だから、違うって言ってるだろ?」


 最後にそれだけ吐いて引っかかるのだけはできるはずがなかった。


 だが、楓を人質にとるように彼女の名前が述べられた瞬間、高橋のその脚が石にでもなったようにストンっと止まっていた。


「ならさ、なにやっても文句は言わないよな?

 誰がどう楓凪のことを犯しても文句言わないよな?」

「……何が言いたいのか分からない」

「高橋お前さ、教師たちに楓の件を言いつけたの知ってるんだぜ」


 その瞬間、高橋を逃がさないようにまわりの人間が彼を囲む。


「別にアイツのことどう思っているか知らないけど、ムカつくんだよね。

 いつも本読んで私は頭いいですアピールしてくるの。

 だから彼女が受験失敗したら傑作じゃない?」

「お前はもっと自分のことだけ考えろよ? 受験するんだろ?

 こっちで戦えよ?」

「そんなことは聞いてない」


 その瞬間、――高橋の顔に痣、彼の口からは血が溢れ出す。


「残された選択肢は二つ。チクリ魔として楓と共に高橋も虐められるか。

 こちら側に付いて楓を虐めるか。どちらがいい?」


 あたかもそれが一般論のように、彼らはその二択を高橋へと課した。


 

 その先の事は、思い出したくもない。


 だから、強さが欲しかった。

 圧倒的で、誰もを完膚なきに懲らしめる事のできる力が欲しかった。

 そうすれば、目の前で、楓がバケツ一杯分の水を被って、教科書は油性ペンで使えないほどに落書きをされ、彼女が大事にしていた一冊の小説があんなことにはならなかった。


 だが、高橋自身はそれを慰めることのできる立場でなければ、彼女に許しを乞うことができる立場でもない。

 あのとき、素直に彼女のことが好きだと言えれば、馬鹿にされるのは自分だけで助かったかもしれないのに。

 そんな、卑怯で、自身の痛みに敏感で、他人の傷を抉ることのできる自分という存在が許せなかった。


 そんな高橋は、彼女と行きたかった高校への入学はできるはずがなかった。


 ――たった一言で自分は変われたのに……


 それだけが、彼に媚びれついた落ちない油のように、心へと植えついていた。


*****

 その記憶を正しく汲み取れたかは定かではない。

 次期にアカリは変わらない無垢の目を開いた。


「……そうですか。でもアナタは仕方がなくそうしたのではないじゃないですか?

 結論は、アナタは楓という女の子を助けたかった。

 それでいいんじゃないですか。助けられなかったという行為があるからオサムは苦しんでいる」

「そんなのは理由にならない。僕は、自分がヤラレルのが怖くて彼女を裏切ったんだ」

「そうかもしれない。だけどいいじゃないですか?」

「――よくない」


 自身がこんなのうのうと暮らせていること。

 彼女が居なくなった世界でなぜ普通に暮らしているのかすべてが許せない。


「僕も他のクラスメイトと、虐めを無視した教師たちもなにもなかったように生きている。彼女の人生はここですべてが変わってしまっても、それが変わらないように生きていることが辛くて、苦しくて……」


 なんで、自分だけが生きてしまったんだろうって。


 でも、人は簡単には死ねない。妹には辛いところは見せられないというのも正直な感想だった。

 そこまでして死ねない自分は愚かにも感じたのだ。


「じゃあ、あなたは違うってことをあの子に伝えてきてください」

「――え?」

「どんなに殴られても、責められてもアナタは流……いえ、楓に人生を変えられてしまったことを話す必要があるのではないでしょうか?」

「だから、僕は……」

「好きなんですよね? 楓のことが」


 それには、高橋は応えることはない。

 アカリがそのことについて尋ねたのも二打目だった。


「あなたには、守るべき人がいます。

 一緒にいたい人間がいます。彼女を救ってからでも、今の問題を解決するのは、遅くないのではないでしょうか?」


 ワケもなくアカリは高橋へと抱擁をする。

 彼女のいつもの子供らしい性格が今ではなぜか嘘のように愛しくも感じる。


 その中で、彼女に守られて情けないとも考えた。


 自分を変えたい。


 高橋はそのためにするべきことはわかっていた。

 楓という少女に謝りたい。そして、自分がこの先を生きていくことを許してほしいと考えていた。


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