第2話

 病院の一室、窓際のベッドに須藤加奈子は居た。

「わりーな、急に。体調は大丈夫か?」

「はい、おかげさまで。二見先輩には気にかけて頂いて、ありがたいです。」

 病室に入るなり景気の良い挨拶をする波留と、明るく返す加奈子。この二人は仲が良いらしい。加奈子は頭に包帯を巻いている。恐らくその怪我が入院している直接の原因だろう。しかし、少し顔が蒼白に見える。

「あの、そちらは…?」

「ああ、紹介がまだだったな。こいつは―――」

「朝霧冬子です。雑誌の―――編集者をしております」

 波留を遮ってそう言うと、私は笑顔で加奈子に手を差し出した。視界の端で波留が眉間に皺を寄せているが、気が付かないふりをしておこう。

「記者さん…ですか?」

 握手をしながら、加奈子は訊ねる。あまり不審がっているような様子は無く、むしろ好奇心のようなものが見て取れる表情だ。

「ええ、まあ、そんなようなものと思っていただければ」

「まだ少し頭の怪我が痛むので、失礼ですがこのままで…」

 笑顔のまま、手を離す私。恐らくこれで彼女の信頼は得られただろう。そう思い、波留に目を向ける。彼女はまだ私を睨んだままだったが、やがて諦めたように小さくため息をついて視線を逸らした。

「少しお話が聞きたくて、二見さんにお願いしてついて来たんです。あなたが3日前に体験したというその…、事件について」

「ああ、やはりそうでしたか。なんだか私の事が噂話になっているようで、少し気が滅入ってしまいそうなんです…」

「お嫌でしたら、無理にとは言いません」

 私の言葉に、加奈子は首を振る。

「嫌じゃ、ないんです…。ええ、お話しします。きっとそれで気持ちの整理もつく…」

「ありがとうございます」

 私が笑みを作り礼を言うと、加奈子はゆっくりと出来事について話し始めた。


 あの日はそう、講義が終わって少しだけ部室に行ってから、遅くまで図書館で課題をしていました。切りがついて、閉館時間も近かったので帰ろうかとしたその時、携帯を忘れているのに気付いたんです。多分部室に置いてきたんだ、そう思って私は部室に行く事にしました。

 ああ、私は模型同好会に入ってます。二見先輩ともそこで知り合ったんです。

 話がそれてしまいましたね。それで、私は部室に戻ったんです。部室は電気がついていて、誰か居るんだと思いました。けど入ってみると誰もいなくて……。トイレでも行ったのかな、とも思ったんですが、誰かがいた痕跡も無いんです。戸締まりとか電気は、皆さん普段から気をつけていましたから。

 それで少し怖くなって、携帯を見つけてすぐ部屋を出ました。時間も遅かったので、中にあった鍵を使って施錠してから帰ろうとしたんです。

 ……部室から出ようとした時でした。後ろから急に襲い掛かられたんです。抵抗しようとしたんですが、がっちり押さえつけられて。それから、押し倒されて馬乗りの状態になられたんです。とにかく怖くて声も出せず目を瞑っていたら、首のあたりに痛みを感じました。恐る恐る見てみると、その人が私の首筋に顔を近づけていたんです。そして歯を…、突き立てていました。それを見て私は、気が遠くなって。次に気がついた時は病院でした。


「私が覚えてるのはそれくらいです」

 そう言って加奈子は話を終えると、脇に置いたペットボトルから水を一口飲んだ。その動きに視線を向けて、机に置いてある薬の名前を見る。あれは鉄剤の類だ。視線を元に戻して、私は口を開いた。

「話して頂いて、ありがたいです。…少し質問してもよろしいですか?」

「ええ、構いません。といっても私に答えられることもそう多くありませんので…」

 加奈子は申し訳ない、というような表情を作り、私に向き直った。少し気になって、横にいる波留に視線を向ける。彼女は本を読んでいるようだ。気にしなくていいか。

「では…。倒れている須藤さんを発見したのは誰か、聞いてますか?」

「えっと、石橋先生だったと聞いてます。まだお礼が言えてないんですが」

 石橋先生は確か、建築学科の准教授で、模型同好会の顧問だったはずだ。見た目を脳裏に思い浮かべる。

「倒れていたのは部室の中?」

「えーと、部室の中、だと思います」

「ありがとうございます。もう一つ、入院して血液検査は受けました?」

「はい。結果の複写をもらってます」

「少しだけ見せてもらっても構いませんか?」

「ええ、まあ…」

 少し不安そうにそう言うと、加奈子はベッドの横に置いてある紙袋から薄い紙を取り出した。私はそれを受け取り、いくつかの項目を確認してすぐに加奈子に返した。

「この血液検査はいつ?」

「ええと、一昨日です」

「その3日前の事以外で、最近何か怪我とか、あと献血をしたりは?」

「最近は特に怪我も…。献血もしてないです」

「ありがとう。最後に少し」

 返事を待たず私はベッドに寄って、横になっている加奈子の栗色の髪に触れ首筋の傷を確認する。

「あ、あの、ちょ―――」

 ふむ。写真で見たときにも感じたが、実物を見て確信した。これは―――

「綺麗すぎる…」

「ふえぇ!?」

 しまった、声に出てしまったらしい。赤面した加奈子が顔を私に向ける。首筋に目を近づけていた私と、かなりの近距離で見つめあう形になっている。よく見れば、なかなか可愛らしい顔立ちだ。そんなに赤面されると、そそられるじゃないか―――そう思った矢先、

「そのへんにしとけ」

 波留の声と共に頭を本で叩かれた。

「おっと、これは失礼。ご協力ありがとうございました。また今度お見舞い、来ますので」

 最大限の笑顔を急ごしらえして私は言う。

「は、はい…」

「では、お大事に」

「じゃーな、加奈子。また来るぜ」

 その言葉と赤面したままの加奈子を残して、私たちは病室を出た。


「なんで記者なんて嘘ついたんだ?」

 病院を出て、通りを歩きながら波留が聞く。

「それが一番、効率が良さそうだったからよ」

「そうかい。バレても知らねーからな」

「それで、何か分かったか?」

「まあね。でもまだ分からない事が多い。……それに彼女の話し方、というか態度に違和感があったわ」

「聞かせる気は?」

「言ったでしょ。まだ分からないことがある。行くわよ」

「…あたしの話を聞いたときとは、えらく態度が違うなぁ?」

 波留は私の顔を覗き込んで言う。

「……ええ。訂正する。これは面白い話だったわ」

 答えると同時に、ポケットの中の携帯が震えた。恐らくはいつもの"アレ"だ。一応携帯を確認し、すぐポケットに戻す。

「なんだ?」

 波留が意外そうな声を上げる。

「兄さん。2日に1回、飼ってるハムスターの写真を送ってくるの」

「ああ、あの人ね……」

「とにかく大学に戻るわよ。模型同好会の部室を調べるわ」


「鍵閉まってるわよ」

「おかしいな。誰も来てないのか?」

 模型同好会と張り紙のある扉の前で、私達は立ち尽くしていた。

「鍵、どこにあるの?」

「さっき鍵置き場を見たんだが、置いてなかったぜ。部員の誰かが持ってると思うんだが…」

 言って、肩を竦める波留。少し歯切れの悪い言い方だ。あまり期待はしないでおこう。

「連絡とれないの?」

「あんまり顔出してないもんで……」

「使えないわね」

 扉の窓から室内を覗いてみる。……窓が開いているようだ。この部屋はフロアの端で、隣はトイレだ。

「ちょっとこれ持ってて」

「おい、どこ行くんだよ」

 鞄を波留に預けてトイレに入る。奥の窓を開け、窓枠に足をかける。…足場は無いが、隣の部室の窓までの距離は短い。これなら十分に飛び移れるだろう。

「ふぅ……」

 深呼吸をして、一息に飛ぶ。一瞬の浮遊感のあと、隣の窓枠に着地した。少しバランスを崩しそうになり、急いで室内に降りた。

 扉の前に波留が待っているのが見えたので、鍵を開ける。

「お前、ガキみたいなことするなぁ」

 驚いた顔の波留が、鞄を渡しながら言ってくる。

「でもなんで私にやらせなかったんだ?」

「内鍵がついてたら、そうしたわ」


「で、この部屋で何を探すんだ?」

「血」

「はあ?」

 波留が思い切り素っ頓狂な声を出す。

「あの子の検査結果を見て分かったわ。血圧とHCTが基準値をかなり下回ってた。彼女は3日前に、何かの理由で失血したのよ」

「吸血鬼、か…」

「これが全て彼女の狂言なら、この部屋に血か、血を捨てた痕があるはずよ」

 説明しながら、部屋を探していく。

「なんでだ?」

「気を失うほど血を抜いた状態で、どこか遠くに隠したり捨てたりできると思う?」

「失血で気を失ったとは限らないんじゃないのか?」

 波留にしては賢い意見だ、と思った。

「それは無いわ。1日後であの結果なら、相当量の血を失ってるはず。ショックとまではいかなくても、失血性の貧血で気を失ったのは間違いないでしょう」

「そうか……。まあ、探してみるか」

「それから、赤い塗料があったら出しといて」

「なるほどな。中に隠したってことか」

 ロッカーや引き出しを手当たり次第に探す波留。この雑多な部屋には物がかなり多いようだ。スプレー缶や、鉄道模型や、ノートパソコンやらが放置されている。少し時間がかかるかもしれないな……。そう思いつつ、私も部屋を漁りはじめる。


「それらしいものは見つからねーな」

 波留が机に並べた赤い塗料に向き合って言った。

「見つからないわね」

「なんだよその態度はコノヤロー」

 不満を言いながら私の頭を拳でグリグリしてくる。

「まあいいわ。これ調べるわよ」

「どうすんだ?」

「紙か何かない?」

「確か模造紙がその辺に…」

 言いながら、波留はロッカーから模造紙を取り出してきた。

「じゃあ塗っていきましょう」

「塗るのか」

「塗るわよ。どの塗料を塗ったのか分かるようにしてね」

 私は作業にかかっていく。拝借した筆を使い、机に広げた模造紙を少しずつ赤く染めていく。波留も続いて筆をとる。この分なら作業もすぐに終わるだろう。


「終わったぞ」

「ええ、ありがとう。次はカーテン閉めてきてくれる?」

「次から次にこきつかってくれやがる」

 そう言いながらも波留はカーテンを閉める。私は鞄の中から小さめのスプレー容器を取り出した。

「なんだそりゃ?」

「ルミノール」

 波留の質問に答えると、手に持ったスプレーを噴霧する。塗料を塗った紙、流し、机や道具入れにも噴きかけていく。

 それを終えると、私は一声かけてから電気を消した。

「こりゃまた綺麗だな」

 反応があったのは紙に塗った塗料のひとつの染みだった。暗い部屋で紙の光っている箇所を確認する。

「ここはどの塗料かしら」

「ええと…近くに置いたこれだな」

 波留が薄暗い中で塗料を手に取った。

「…他は?」

「どこも反応はないな」

 そう言ったのを聞くと、私は立ち上がって電気をつけた。

「一つはっきりしたことがあるわ」

「何が分かった?」

 私に視線を向ける波留。彼女の顔を見ていると、何だか安心できた。私はがたついた椅子に腰掛けて、答える。

「吸血鬼なんていない」

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