吸血の教示者

kinakonn

第1話

 電話が鳴っている。深い水底で漂う私の耳にたどり着いたその音は、はるか頭上の陽光にも似た不快さを感じさせた。


 電話を鳴らしているのは誰だろう?それが私を呼んでいるのか、ただ鳴っているだけなのか、私には判断がつかない。しかし不快な音を止める為には私が受話器を取らなくてはいけない。この水底に私以外に人間はいないのだから。


 ああ、だけど。


 私の肺にはもう水が満ちているから、うまく喋れないかもしれない―――



 ―――太陽。光。朝。うっすらと開いた目に飛び込んできたそれらが、私の目を再び閉じさせる。


 まだ寝ていよう。今日は日曜日で、予定も無かったはずだ。不愉快な目覚ましのアラー厶を聞きながらそう思い、それを止めようとした。寝起きのぼんやりとした視界で目覚ましを触るが、アラームが止まる気配はない。なぜだ…。


 ああ、そうか。鳴っているのは目覚ましではなく携帯だ。画面を見ると、波留からの電話だった。


「もしもしぃ…」


 日曜日の朝から電話をかける不届き者への苛立ちを抑えつつ、私は電話に出た。


「もしもし?冬子、今どこだ?」


「家だけど…」


 まだ平常には程遠い頭で、段々と私は嫌な予感を察知していた。


「はぁ?もしかして今起きた?」


「う、うん」


 あからさまに機嫌の悪い波留の声を聞きながら、ベッドから体を起こして時計を見る。11時。もはや朝ではなく昼前と呼ぶのが正しい時間だ。


「あー、もしかしてだけど。約束あったっけ」


「はよこい!」


 それだけ言い放ち、一方的に電話を切られた。


 できるだけ急いで、身支度をしよう…。


「おっそいわ!」


 私の顔を見るなり波留は声を荒げた。


「その服、似合ってるね」


「うっせーこのチンポ野郎!野郎じゃねーな…チンポウーマン!」


「往来で恥ずかしい事言うのやめて、謝るから」


 ともかく一緒にいる時に騒いで欲しくないので、私は頭を下げた。


「誠意が足んねーなぁ?」


「お昼奢るし機嫌直してよ」


「マジ?やったー」


 波留に対して「奢る」は魔法の言葉である。その事実を再確認しつつ、波留に合わせて歩き始める。


「よし。つまらない話と面白い話、どっちを先に聞きたい?」


「つまらない話なんて聞きたくないわ」


「じゃーつまらない話から」


 注文を済ませて席につくなり、波留は話し始めた。


「まぁよくある噂話って奴でな。お前も聞いたことぐらいあるだろ。『吸血鬼の怪』ってな…」


 ラーメンを食べながら、仰々しくゆっくりした口調で波留は語る。機嫌はすっかり直ったようだ。


「興味ない」


 ウォーターサーバーの不味い水を飲みつつ、私は簡潔に答えた。このウォーターサーバーの水はなぜこんなに不味いのだろう…。気になって仕方ない。


「だろうな。よくある与太話だ。夜中にサークル棟で出るとかなんとか」


「それだけの話なんだが…そんでここからが面白い話だ」


 そう言うと、波留は丼を持ち上げスープを飲み干した。塩分過多だろう、と注意する間も無く丼を机に戻して波留は続ける。


「その"吸血鬼"に襲われた奴がいる」


「幻覚か、勘違いか、狂言ね。面白い話じゃないわ」


「まあまあ。話を最後まで聞けよ」


 大げさなジェスチャーを加えて波留は言う。まるで私がその話に食いつくと分かっているような態度だ。少し気に入らないが、その自信の根拠への興味が私の中で勝っていた。


「…何があったの?」


「歯型だ」


「歯型?」


「写真見るか?」


 波留に差し出された携帯を覗き込むと、女性の首筋が写っていた。その白い肌に四つ、赤く点状の傷がついている。これが彼女の言う歯型らしい。なるほど、吸血鬼の牙で咬まれたような跡にも見える。


「薬学部の一回生で、名前は須藤加奈子」


「加奈子の話によると襲われたのは三日前、サークル棟の三階らしい。今は入院してる」


「道すがら聞くわ。案内して」


 それだけ言って、私は鞄をとって立ち上がった。


「おい待て。案内ってどこへだよ」


 波留が後ろから問いかける。


「話なら直接聞いたほうが早いでしょう。その子に」

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