第10話

「主役の医者がダグラス・フェアバンクス・ジュニアで」

往年おうねん銀幕ぎんまくのスターだな」

 所長が白石しらいしさんから貰ったおにぎりを頬張ほおばり、その横に立っている白石さんが、一度に食べたらダメですよ、と注意する。

「そのお医者さんが東欧とうおうの小さな国に学会で招待されるんです。そこは軍部が政権を握った独裁国家で、ある将軍がトップに立っていました」

「今の北朝鮮きたちょうせんみたいね」

 白石さんも参加してきた。

「で、お医者さんが手術をすることになって、行ってみると患者の顔が隠されていて誰だか分からない。おかしいな、と思いながら手術をして、なんとか成功したんですが、患者の正体が独裁者だと気づいてしまったんです」

「ほう」

「あらやだ」

 2人同時に声を上げる。護島ごとうさんだけは我関せずという顔をして机に向かっている。

「さらに悪いことに様態が急変して独裁者が死んでしまい、秘密を守ろうとする軍に命を狙われたお医者さんは慌てて逃げ出したんです。なんとか国境こっきょうを越えようとするんですが、知り合いもいない言葉も通じない外国でひとりだけで逃げるのはとても大変なことでした」

 月曜の昼下がり、食事休憩の時間に私は事務所で所長と白石さんにせがまれて映画のストーリーを話して聞かせていた。いつだったか、やはり昼休みに白石さんに「何か面白い話をして」と無茶なことを言われて、やむを得ず昔観た映画の粗筋あらすじを話したら、そばで聞いていた所長からも好評を得てしまい、それからたびたび2人を相手に語る羽目になっていた。

「というわけで、それでラストシーンです」

「君はこの仕事ではなく弁士べんしになるべきだったな」

 所長が軽く手を叩きながらいつもと同じ感想を言った。めてくれているのだろうが、調査員に向いていないと暗に言われているようで、毎回心臓に悪い思いをさせられている。

「ソリガチさんが全部話してくれたからもう観なくていいですよね」

 白石さんの方は監督や俳優が聞いたら怒りそうなことを言っていた。いつだったか「前に話してくれた映画を借りてきたDVDで観てみたけど、ソリガチさんの話の方が面白かった」と抗議ともお褒めの言葉ともつかないことを言われたことがあった。ともあれ、一通り話し終えたのでようやくひざの上に置いてあったタッパーのふたを開けて昼飯ひるめしることができる。

「それにしても部屋が明るいのはいいもんだな。気分まで明るくなる」

 所長が天井を見上げて目を細める。部屋の照明はすべてLEDエルイーディーに取り換えられて、それまでより明るさが増していた。白石さんに言われた通り先週の月曜に所長と直談判じかだんぱんして承諾を得てから、金曜に一日がかりで工事をしたのだ。よく説得できたね、と白石さんに驚かれたが、私のやりかたはいたってシンプルなもので、事務所で最低限の説明だけをするとすぐに連れ立ってタクシーで秋葉原あきはばらまで行って、電気店で実物のLEDを見せてその効用を説いただけである。オフィスを引き払おうと説得を試みて失敗した時に所長を理屈で説き伏せようとしても意固地いこじになられるだけで無駄なことはよく分かっていた。前日の日曜に店まで下見に行って、バレーボールの選手のようにひょろひょろと背の高い店員に「明日上司を連れてくるから」と頼んであったのでとどこおりなく話を進めることができた。もっとも、今まで電気店に足を運んだことがなかったのか、所長は遊園地に初めて連れてこられた幼児のようなはしゃぎようで、目についた電化製品を手にとり店員の説明を聞いては技術の進歩に感心しきりだったので、こっそり下準備したじゅんびをするまでもなく説得できていたかもしれない。ヨナナスメーカーを買って配送を頼んでいたが、ちゃんと使えるのだろうか。ただ、白石さんに事前に話をしていなかったので、いきなり何処へ連れていくのかと思った、と少しだけ怒られた。彼女にとって、所長はあくまでテディベアのようなかわいいおじいちゃんなのであって、体を気遣きづかわなければならない存在なのだろう。

「珍しい。今日はお弁当なの?」

 私がタッパーからサンドウィッチを取り出すのを見て白石さんが目を見張る。タッパーには耳を落とした食パンで固く焼いた目玉焼きを挟んだものが4切れみっしりと詰められて、家から電車でここにやってくるまでに絶え間なく圧力にさらされたせいか、どれも歪んで波打っていた。

「なかなかおしゃれなものを食べるんだね」

 白石さんに感心されたが、私の心中は複雑だった。冷蔵庫のトレイに卵が2列縦隊じゅうたいで16個並んで勢揃せいぞろいしているのに気づいたのは昨日の昼間のことである。それだけならそなえあればうれいなし、と満足できてよかったのだが、困ったことにそれらをいつ買ったのか忘れてしまっていた。卵の賞味期限は2週間だったはずだが、それ以内に買った確信がなかった。それなら捨てればいい、と思えるほどの蛮勇ばんゆうを持たない私は急いで全部食べ切ることにしたのだが、卵づくしが始まって4度目の食事ともなると、気分が落ち込むのはやむを得なかった。コレステロールも大丈夫なのだろうか。卵料理のレパートリーが早くも尽きつつあるから、いざとなったらロッキーの真似をするしかないのかもしれないが、そもそも無理に食べようとするのが間違っているのかもしれない。ただ、そうは言っても、外国には食べたくても食べられない子もいるんですよ、と子供の頃から言われ続けてきたみは容易に解けるものではなかった。小学5年の時のクラスの委員長は、僕の好き嫌いと外国の子の食事に何の関係があるんですか、と給食の時間に反論して担任の女教師を泣かせ、激昂した大学を出たばかりの男の副担任に力任せにビンタされて後々PTAでも問題になっていたが、彼はその後中高一貫の進学校に合格していたから、今頃はそれなりに高い地位に就いていてもおかしくなかった。

「はい、どうぞ」

 今すぐ抹消されても何も困らない思い出を振り返っているうちに、とろみのついたミートボールが3つ乗せられた紙皿と割り箸が目の前に置かれていた。恒例の白石さんの手料理だ。現金なもので、肉団子を目にしただけで食欲が進み、それまで手の中でもてあましていた一切れをたちまち食べきってしまった。私に続いて、護島さんもミートボールをもらっているのを横目でうかがおうとして、そういえば今日は森永さんがいなかったのだと思い出した。おそらく病欠なのだろうが、今までになかったことだ。無口な人でもいなくなられると、それなりの喪失感があるものだった。

「あれ」

 白石さんが驚いて護島さんを見てから私の方を見る。

「2人のお弁当、一緒じゃない」

「え」

 私だけでなく護島さんもそう言って驚いたように聞こえた。彼女の手には小ぶりなサンドウィッチがあって、それは机の上に置かれたピンクのプラスチック製のランチボックスから取り出されたもののようだった。近寄ってミッキーマウスがガッツポーズをしたイラストが描かれたランチボックスをのぞむと、2切れの玉子サンドとコールスロー、それにうさぎの形に薄く切られたリンゴが3切れ、箱庭のように整然と配置されていて護島さんにふさわしいもののように見える。お弁当にも人柄が出るものだな、と不躾ぶしつけに見ていると、怒りの気配が彼女の後頭部から漂ってきたので慌てて退散する。とはいえ、きれいな人はつむじまで美しい、というのは思いがけない発見だった。

「ほら同じでしょ。2人とも卵をパンで挟んでる」

「いやいや、違いますって。僕のは目玉焼きで、護島さんのはスクランブルエッグですよ」

「どっちも卵を焼いたものだから同じでしょ」

「焼き方が違うんだから別物です」

「そう? 護島さんはどう思う?」

 私と白石さんの言い合いをよそに黙々とサンドウィッチをかじっていた護島さんが下を向いたまま呟いた。

「別にどうでもいいです」

 取り付く島もない答え方だった。100年くらい昔の小説に出てきた、折角せっかくの誕生日なのに何故か機嫌を損ねて周囲に当たり散らし、とうとう父親に怒られて泣き出してしまった女の子のことを思い出したが、その作家は護島さんをモデルにして話を書いたのではないか、とタイムパラドックスもはなはだしい考えが思い浮かんだ。白石さんの方を見てみると、彼女も私を見ていて、何やら意味ありげに笑っている。まさか画像を送ったのをばらすつもりか、と内心びくびくしていると、

「そうだ。だったら二人のサンドウィッチを交換して食べ比べてみたら」

「え」

 今度は護島さんが驚くのがはっきりと聞こえた。もう一度白石さんの方を見ると、「まかせて!」とでも言いたげな表情をしている。また余計なお節介せっかいをしようとしているのか、このおばさんは。

「“だったら”の意味が分かりません」

 まさに私もそう思っていた。初めて彼女と意見が合った気がする。

「いいじゃない。そんなにケチケチしないで」

「私は白石さんみたいに料理は上手くありません。まずいものを食べさせられてもご迷惑でしょうし」

 そう言うと彼女はミートボールをつまんでから、2切れ目のサンドウィッチに取り掛かった。他人行儀たにんぎょうぎな物言いが拒絶の意思を明確に示していた。ただ、白石さんのアイディアに反対なのは私も同じだった。

「そうですよ。僕の方こそ料理はまるでダメですから、護島さんの口に合うとはとても思えません。このサンドウィッチにだって何が入っているのか分かったものじゃない」

「あんた、何か変なものを入れてるの?」

 白石さんが露骨に嫌そうな顔をする。

「そうじゃないですけど、物の例えですって。でも、さっき護島さんはああ言ってましたけど、きっと料理はお上手だと思いますよ。食べなくても見ただけで分かりましたから」

 話を締めくくる代わりに、ははは、と力なく笑ってから席に座り直す。何故か少し気落ちして、割った箸でつまみ上げたミートボールを口の中に突っ込み、左手でタッパーから新しいサンドウィッチを取り出したところで、左横に人の気配を感じたので見てみると、護島さんが私を見下ろしていた。彼女にはいつも気持ちの上で見下されているように感じていたが、現実に見下ろされるのはあまり覚えのないことだった。照明を替えたせいか、瞳の色がいつものヘーゼルとは違って見える。瞳は黒檀こくたんで肌は象牙ぞうげのようだ。頭の中で<エボニー・アンド・アイヴォリー>が流れる。

「何?」

「どうぞ」

 ひるんだ私に向かって右手に持った玉子サンドを差し出した。

「いいの?」

「どうぞ。それ、私にもください」

 そう言うと私の左手に握られた目玉焼サンドを指さした。白石さんの言った通り交換しよう、というつもりらしい。

「いや、あの、だからさっきも言ったけど、これは他人に食べさせられるようなものじゃないんだよ。僕が食べる分にはいいけど、そんなものを君に食べさせるわけには」

「いいから。早く渡してください」

 長々と余計な言い訳をして怒られるのはいつも通りだが、怒っている彼女の唇が少し歪んで端が吊り上がっているように見えるのはいつもと違っていた。どのような心境の表れなのだろうか。

「じゃあ」

 左手の目玉焼サンドを彼女に手渡してから、右手の中に現れた玉子サンドを見つめる。中に挟まれたスクランブルエッグは少し固めで、コンビニで売られているものとは少し違っていた。卵以外にも何か挟まれているようだったが、

「じろじろ見ないでください」

 席に戻った彼女に着替えを覗かれたかのような剣幕で言われたので、観察をやめて実食することにした。口に含むときちんと下味がついているのにまず気づいた。この時点でただパンに挟んだだけの私の負けが決まったのだが、マヨネーズと刻んだタマネギが入っているのは味覚の鈍い私にでも分かった。スクランブルエッグも程良い食感で、事務所で食べるよりはピクニックに持って行きたい出来栄できばえだった。

「おいしい。本当においしい」

 心からそう思ったのが伝わったのだろうか、私を見る護島さんの目からけんが取れていた。その代わり、今度は白石さんが私を感情のこもらない目でにらんでいて、私の料理よりもずいぶんと褒めるじゃない、とでも言いたそうにしていたので、ちゃんと褒めているつもりですよ、いつも有難く頂いてますよ、という気持ちを込めて白石さんを見てみたが、このアイコンタクトが成功した保証は何もない。後でちゃんと口で弁解しておこう。

「あ」

 思わず声を漏らしてしまったのは、護島さんが私の目玉焼サンドを口にしていたからで、彼女のサンドウィッチに比べるとお粗末この上ない代物しろものを食べさせるのはただでさえ心苦しいのに、それをしっかり味わいながらゆっくりと食べているのだから私の心中はいよいよ穏やかではなかった。1分近くかけて食べ切ると、彼女は何も言わずランチボックスの中に入っていた透明な小さなフォークを使ってコールスローを食べ始めた。口直しのつもりなのだろうか。

「どう? 大丈夫だった?」

 私のサンドウィッチが最初から存在しなかったかのような態度を気にした白石さんが質問したが、「大丈夫?」と訊いたということは、味の問題ではなく食用に適しているかそうでないかの問題と考えていることになる。私の料理のレベルを正確に把握されているのが実にいまいましい。護島さんは長い睫毛まつげを伏せて答えた。

「食べられなくはなかったですね」

「だろうね!」と叫びたかったが、もう大人なので我慢するしかなかった。しかしそれよりもちゃんと食べてくれた彼女に感謝すべきなのだろう。思っていたよりずっといい人なのかもしれない、と評価の見直しを始めてしまっている私も大概たいがいちょろい性格だった。

「なんだ、2人ともうまそうじゃないか。どれ、私のとも取り換えてくれないか」

 そういえば所長もいたのだった。やけに静かだと思ったら、ずっと食事に集中していたらしく、それに加えて白石さんの言いつけを守ってゆっくり飲み込むようにもしていたらしい。両手におにぎりを持って交換を持ちかけている姿は、『おむすびころりん』のおじいさんみたいで、所長を油断ならない老人と警戒している私でも微笑ましくなってしまった。

「僕は構いませんが、護島さんはあとひとつしか残ってませんよ。それにそのおにぎりは白石さんが作ってくれたものじゃないですか」

「いいじゃないの。みんなで分け合って食べるなんてとてもいいことよ」

「私も大丈夫です」

 私の気遣きづかいは女性陣によって却下された。森永さんがいれば味方になってくれただろうか。所長の机まで行ってサンドウィッチと引き換えにおにぎりを手渡しで受け取る。席に着かぬうちにかぶりついたので、「お行儀!」と白石さんに怒られた。家で息子さんを叱るのと全く同じ調子だと感じられたが、彼女にとって私もでっかい子供でしかないのだろう。おかか入りのおにぎりは味以上に満足感があって、それを食べ切ると1切れだけ残った目玉焼サンドを平らげる気持ちが無くなっていた。帰りに電車の待ち合わせの間にでも急いで食べてしまおうか、とまた白石さんに叱られそうな行儀の悪いことを考えながら、午後の仕事に取り掛かった。


 学校法人が所有している不動産の件は、法務局で登記とうきを確認してみると権利関係が予想以上にややこしいことになっていたので、これはもはや私の手に負えるところではなく専門家に任せた方がいい、といつも涙目でハンカチが手離せない理事長にアドバイスしたのだが、一昨日おとといの土曜に新小岩しんこいわの本校まで呼ばれたので行ってみると、福岡ふくおかに出張していて不在の理事長の代わりに彼の弟の副校長に出迎えられて、再来年ちょうふ調布ちょうふに新校舎を開設する予定なのでそれに関係する調査を不動産の件とは別にして新たに依頼したいとのことだった。少子化の時代でも積極的な運営を続けたい、と肩をいからせる副校長は、私が詳細を聞き取っている間、しきりに目薬をさしているので、その理由を聞いてみると、重度じゅうどのドライアイで悩んでいるらしかった。ならば兄と弟、2人が合体すればちょうどいいのではないか、という無責任な考えが帰りの総武線そうぶせん隅田川すみだがわにかかった橋を渡りながら思い浮かんでいた。

「そうだな。あそこの土地にはもう関わらんほうがよさそうだ。放漫経営の悪しき伝統は変わらんか」

 私が作成した簡単な経過報告に目を通してから、所長はリクライニングチェアに背中をもたれさせた。もちろん涙目とドライアイのことは省略してある。

「新校舎の調査はどうします?」

「それはやったらいい。親父さんはなかなかの人物だったが、息子二人はどうもな。まあ、そうは言っても向こうは君を買ってくれているようだし、危なくなるまではつきあってあげなさい」

 危なくなりそうな人に買われてもあまり嬉しくはない。とはいえ、依頼は依頼である。明日にでも予定の土地に行ってみることにしよう。サッカースタジアムの近くと聞いているが、専門学校の立地りっちとしては適切なのかどうなのか。

「お先に失礼します」

 護島さんが一礼して事務所を出て行く。もう17時を過ぎているのにそれで気が付いた。思いがけず熱を入れて仕事をしていたらしく、私には珍しいことだった。いつもそれくらい集中できていたならもっと違う人生もあったかもしれない。

「いけない」

 白石さんが叫んだ。青い表紙のファイルを両手で持っている。

「護島さんに頼まれていたのに。どうしよう」

 詳しい事情は分からないが、ファイルを彼女に渡さねばならないことだけは分かった。

「僕が届けてきますよ。今ならまだ間に合います」

「お願い」

 抛り投げられたファイルを空中で合掌がっしょうする形でキャッチすると、急いで部屋を出る。下に向かって、護島さんの名を呼ぶ。さぁぁぁぁん、と暗い階段に自分の声がこだまするのを聞きながら駆け降りる。もう一度名前を呼ぶと、3階と4階の間の踊り場に降りたところで彼女の白い顔がこちらを向いているのが見えたので、よかった待っていてくれたと、ほっとするのと同時に私の左足がばしゃっと派手に水音を立てた。革靴が濡れるのを感じながら、この踊り場の隅に水が溜まっていたのを思い出した。いつも気を付けていたのに彼女を追いかけるのに夢中になってすっかり忘れてしまっていた。下へと急ぐあまり角を大きく曲がっていたのも災いしたようだ。彼女も私の失態に気付いたようで、目を丸くして私の足元を見つめている。

「はいこれ」

 とりあえずファイルを手渡す。小さく「あ」の形に彼女の唇が開く。何故追いかけてきたのか、やっと理由が分かったのだろう。

「白石さんに頼まれてね。間に合ってよかった」

 私としては濡れた左足の件には触れずにお別れしたかったのだが、護島さんは興味津々なようで、手にしたファイル越しにちらちら下の方に目をやっている。仕方がない。余計だと分かっているが言い訳してみよう。あー、と尺八のような音を咽喉のどから出してから、

「たぶん気づいているとは思うけど、ここの隅には水たまりができているから気を付けてね。でないとこうなる」

 隅を指さした後で軽く上げた左足も指さす。靴だけでなくスラックスも濡れて裾の色が濃く変わっている。クリーニング屋の出番がめぐってきたようだ、とますます落ち込む。護島さんはそんな私を嘲笑あざわらうでもなくただ見つめていた。いつも顔に貼り付けていた苛立ちを取り去ったまっさらな顔立ちを初めて見た気がしたが、そんな彼女はいつもよりもずっと幼く見えた。

「おっと」

 そこでやっと私も彼女をじっと見詰め返してしまっていたのに気づき、思わず一歩後退る。それでもまだ距離が近すぎる気がして、さらにもう一歩後ろに下がる。

「まあ、護島さんは僕よりずっとしっかりしてるからさ。こんな凡ミスはしないと思うけどね」

 それでもまだ彼女は黙っている。踊り場の二段下で立ち止まったまま私を見上げるその表情からは何の考えも読み取れず、まるで知らない人の相手をしているようでだんだんと不安になってきた。怒られた方がマシだとまで思ったが、残念ながら、と言うのもおかしいが、今の私に彼女に怒られるべき理由はなかった。

「じゃあお疲れ様。そうだ、今日はサンドウィッチどうもありがとう」

 用事は済ませたのだ。これ以上留まる必要はない。無理矢理切り上げて背を向けて事務所に戻ることにする。中まで濡れた靴でステップを踏むたびに不快な感触が足の裏に広がっていく。このままだとふやけてしまいそうだ。4階の手前まで上がってようやく彼女の顔が見えなくなったその時、

「さようなら」

 と下の方から声がかすかに聞こえたような気がして、足が止まってしまった。彼女が私に挨拶をしたのか。まさか。耳を澄ませても遠ざかっていく足音しか聞こえない。誰かがスイッチを押したのか、タイマー式なのか、階段を照らす電灯が点いても、たった今何が起こったのかを整理することもできない私の働かない頭は薄暗うすくらがりから抜け出せないままでいた。

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