第10話
「主役の医者がダグラス・フェアバンクス・ジュニアで」
「
所長が
「そのお医者さんが
「今の
白石さんも参加してきた。
「で、お医者さんが手術をすることになって、行ってみると患者の顔が隠されていて誰だか分からない。おかしいな、と思いながら手術をして、なんとか成功したんですが、患者の正体が独裁者だと気づいてしまったんです」
「ほう」
「あらやだ」
2人同時に声を上げる。
「さらに悪いことに様態が急変して独裁者が死んでしまい、秘密を守ろうとする軍に命を狙われたお医者さんは慌てて逃げ出したんです。なんとか
月曜の昼下がり、食事休憩の時間に私は事務所で所長と白石さんにせがまれて映画のストーリーを話して聞かせていた。いつだったか、やはり昼休みに白石さんに「何か面白い話をして」と無茶なことを言われて、やむを得ず昔観た映画の
「というわけで、それでラストシーンです」
「君はこの仕事ではなく
所長が軽く手を叩きながらいつもと同じ感想を言った。
「ソリガチさんが全部話してくれたからもう観なくていいですよね」
白石さんの方は監督や俳優が聞いたら怒りそうなことを言っていた。いつだったか「前に話してくれた映画を借りてきたDVDで観てみたけど、ソリガチさんの話の方が面白かった」と抗議ともお褒めの言葉ともつかないことを言われたことがあった。ともあれ、一通り話し終えたのでようやく
「それにしても部屋が明るいのはいいもんだな。気分まで明るくなる」
所長が天井を見上げて目を細める。部屋の照明はすべて
「珍しい。今日はお弁当なの?」
私がタッパーからサンドウィッチを取り出すのを見て白石さんが目を見張る。タッパーには耳を落とした食パンで固く焼いた目玉焼きを挟んだものが4切れみっしりと詰められて、家から電車でここにやってくるまでに絶え間なく圧力にさらされたせいか、どれも歪んで波打っていた。
「なかなかおしゃれなものを食べるんだね」
白石さんに感心されたが、私の心中は複雑だった。冷蔵庫のトレイに卵が2列
「はい、どうぞ」
今すぐ抹消されても何も困らない思い出を振り返っているうちに、とろみのついたミートボールが3つ乗せられた紙皿と割り箸が目の前に置かれていた。恒例の白石さんの手料理だ。現金なもので、肉団子を目にしただけで食欲が進み、それまで手の中でもてあましていた一切れをたちまち食べきってしまった。私に続いて、護島さんもミートボールをもらっているのを横目で
「あれ」
白石さんが驚いて護島さんを見てから私の方を見る。
「2人のお弁当、一緒じゃない」
「え」
私だけでなく護島さんもそう言って驚いたように聞こえた。彼女の手には小ぶりなサンドウィッチがあって、それは机の上に置かれたピンクのプラスチック製のランチボックスから取り出されたもののようだった。近寄ってミッキーマウスがガッツポーズをしたイラストが描かれたランチボックスを
「ほら同じでしょ。2人とも卵をパンで挟んでる」
「いやいや、違いますって。僕のは目玉焼きで、護島さんのはスクランブルエッグですよ」
「どっちも卵を焼いたものだから同じでしょ」
「焼き方が違うんだから別物です」
「そう? 護島さんはどう思う?」
私と白石さんの言い合いをよそに黙々とサンドウィッチをかじっていた護島さんが下を向いたまま呟いた。
「別にどうでもいいです」
取り付く島もない答え方だった。100年くらい昔の小説に出てきた、
「そうだ。だったら二人のサンドウィッチを交換して食べ比べてみたら」
「え」
今度は護島さんが驚くのがはっきりと聞こえた。もう一度白石さんの方を見ると、「まかせて!」とでも言いたげな表情をしている。また余計なお
「“だったら”の意味が分かりません」
まさに私もそう思っていた。初めて彼女と意見が合った気がする。
「いいじゃない。そんなにケチケチしないで」
「私は白石さんみたいに料理は上手くありません。まずいものを食べさせられてもご迷惑でしょうし」
そう言うと彼女はミートボールをつまんでから、2切れ目のサンドウィッチに取り掛かった。
「そうですよ。僕の方こそ料理はまるでダメですから、護島さんの口に合うとはとても思えません。このサンドウィッチにだって何が入っているのか分かったものじゃない」
「あんた、何か変なものを入れてるの?」
白石さんが露骨に嫌そうな顔をする。
「そうじゃないですけど、物の例えですって。でも、さっき護島さんはああ言ってましたけど、きっと料理はお上手だと思いますよ。食べなくても見ただけで分かりましたから」
話を締めくくる代わりに、ははは、と力なく笑ってから席に座り直す。何故か少し気落ちして、割った箸でつまみ上げたミートボールを口の中に突っ込み、左手でタッパーから新しいサンドウィッチを取り出したところで、左横に人の気配を感じたので見てみると、護島さんが私を見下ろしていた。彼女にはいつも気持ちの上で見下されているように感じていたが、現実に見下ろされるのはあまり覚えのないことだった。照明を替えたせいか、瞳の色がいつものヘーゼルとは違って見える。瞳は
「何?」
「どうぞ」
「いいの?」
「どうぞ。それ、私にもください」
そう言うと私の左手に握られた目玉焼サンドを指さした。白石さんの言った通り交換しよう、というつもりらしい。
「いや、あの、だからさっきも言ったけど、これは他人に食べさせられるようなものじゃないんだよ。僕が食べる分にはいいけど、そんなものを君に食べさせるわけには」
「いいから。早く渡してください」
長々と余計な言い訳をして怒られるのはいつも通りだが、怒っている彼女の唇が少し歪んで端が吊り上がっているように見えるのはいつもと違っていた。どのような心境の表れなのだろうか。
「じゃあ」
左手の目玉焼サンドを彼女に手渡してから、右手の中に現れた玉子サンドを見つめる。中に挟まれたスクランブルエッグは少し固めで、コンビニで売られているものとは少し違っていた。卵以外にも何か挟まれているようだったが、
「じろじろ見ないでください」
席に戻った彼女に着替えを覗かれたかのような剣幕で言われたので、観察をやめて実食することにした。口に含むときちんと下味がついているのにまず気づいた。この時点でただパンに挟んだだけの私の負けが決まったのだが、マヨネーズと刻んだタマネギが入っているのは味覚の鈍い私にでも分かった。スクランブルエッグも程良い食感で、事務所で食べるよりはピクニックに持って行きたい
「おいしい。本当においしい」
心からそう思ったのが伝わったのだろうか、私を見る護島さんの目から
「あ」
思わず声を漏らしてしまったのは、護島さんが私の目玉焼サンドを口にしていたからで、彼女のサンドウィッチに比べるとお粗末この上ない
「どう? 大丈夫だった?」
私のサンドウィッチが最初から存在しなかったかのような態度を気にした白石さんが質問したが、「大丈夫?」と訊いたということは、味の問題ではなく食用に適しているかそうでないかの問題と考えていることになる。私の料理のレベルを正確に把握されているのが実にいまいましい。護島さんは長い
「食べられなくはなかったですね」
「だろうね!」と叫びたかったが、もう大人なので我慢するしかなかった。しかしそれよりもちゃんと食べてくれた彼女に感謝すべきなのだろう。思っていたよりずっといい人なのかもしれない、と評価の見直しを始めてしまっている私も
「なんだ、2人ともうまそうじゃないか。どれ、私のとも取り換えてくれないか」
そういえば所長もいたのだった。やけに静かだと思ったら、ずっと食事に集中していたらしく、それに加えて白石さんの言いつけを守ってゆっくり飲み込むようにもしていたらしい。両手におにぎりを持って交換を持ちかけている姿は、『おむすびころりん』のおじいさんみたいで、所長を油断ならない老人と警戒している私でも微笑ましくなってしまった。
「僕は構いませんが、護島さんはあとひとつしか残ってませんよ。それにそのおにぎりは白石さんが作ってくれたものじゃないですか」
「いいじゃないの。みんなで分け合って食べるなんてとてもいいことよ」
「私も大丈夫です」
私の
学校法人が所有している不動産の件は、法務局で
「そうだな。あそこの土地にはもう関わらんほうがよさそうだ。放漫経営の悪しき伝統は変わらんか」
私が作成した簡単な経過報告に目を通してから、所長はリクライニングチェアに背中をもたれさせた。もちろん涙目とドライアイのことは省略してある。
「新校舎の調査はどうします?」
「それはやったらいい。親父さんはなかなかの人物だったが、息子二人はどうもな。まあ、そうは言っても向こうは君を買ってくれているようだし、危なくなるまではつきあってあげなさい」
危なくなりそうな人に買われてもあまり嬉しくはない。とはいえ、依頼は依頼である。明日にでも予定の土地に行ってみることにしよう。サッカースタジアムの近くと聞いているが、専門学校の
「お先に失礼します」
護島さんが一礼して事務所を出て行く。もう17時を過ぎているのにそれで気が付いた。思いがけず熱を入れて仕事をしていたらしく、私には珍しいことだった。いつもそれくらい集中できていたならもっと違う人生もあったかもしれない。
「いけない」
白石さんが叫んだ。青い表紙のファイルを両手で持っている。
「護島さんに頼まれていたのに。どうしよう」
詳しい事情は分からないが、ファイルを彼女に渡さねばならないことだけは分かった。
「僕が届けてきますよ。今ならまだ間に合います」
「お願い」
抛り投げられたファイルを空中で
「はいこれ」
とりあえずファイルを手渡す。小さく「あ」の形に彼女の唇が開く。何故追いかけてきたのか、やっと理由が分かったのだろう。
「白石さんに頼まれてね。間に合ってよかった」
私としては濡れた左足の件には触れずにお別れしたかったのだが、護島さんは興味津々なようで、手にしたファイル越しにちらちら下の方に目をやっている。仕方がない。余計だと分かっているが言い訳してみよう。あー、と尺八のような音を
「たぶん気づいているとは思うけど、ここの隅には水たまりができているから気を付けてね。でないとこうなる」
隅を指さした後で軽く上げた左足も指さす。靴だけでなくスラックスも濡れて裾の色が濃く変わっている。クリーニング屋の出番がめぐってきたようだ、とますます落ち込む。護島さんはそんな私を
「おっと」
そこでやっと私も彼女をじっと見詰め返してしまっていたのに気づき、思わず一歩後退る。それでもまだ距離が近すぎる気がして、さらにもう一歩後ろに下がる。
「まあ、護島さんは僕よりずっとしっかりしてるからさ。こんな凡ミスはしないと思うけどね」
それでもまだ彼女は黙っている。踊り場の二段下で立ち止まったまま私を見上げるその表情からは何の考えも読み取れず、まるで知らない人の相手をしているようでだんだんと不安になってきた。怒られた方がマシだとまで思ったが、残念ながら、と言うのもおかしいが、今の私に彼女に怒られるべき理由はなかった。
「じゃあお疲れ様。そうだ、今日はサンドウィッチどうもありがとう」
用事は済ませたのだ。これ以上留まる必要はない。無理矢理切り上げて背を向けて事務所に戻ることにする。中まで濡れた靴でステップを踏むたびに不快な感触が足の裏に広がっていく。このままだとふやけてしまいそうだ。4階の手前まで上がってようやく彼女の顔が見えなくなったその時、
「さようなら」
と下の方から声がかすかに聞こえたような気がして、足が止まってしまった。彼女が私に挨拶をしたのか。まさか。耳を澄ませても遠ざかっていく足音しか聞こえない。誰かがスイッチを押したのか、タイマー式なのか、階段を照らす電灯が点いても、たった今何が起こったのかを整理することもできない私の働かない頭は
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