第9話
嫌な夢をみた。内容はまるで覚えていないが、とにかく
結局、その日は外で調査をするのを諦め、自宅で
乗り換えがスムーズにいったおかげである程度余裕をもって
「サジッタさん」
何度も呼ばれていたらしいがそれまで気がつかなかった。振り向くと甘いマスクをした青年が立っていた。より正確を期すなら甘ったるいマスクと言うべきだった。顔の部品ひとつひとつは大きく目立っているがバランスを欠いていてハンサムとは言えない。ファーリー・グレンジャーに似ている、と思ったが、それを言ったところで伝わるはずもないので黙っていた。
「サジッタさんですよね」
そうだった、ここでは私はサジッタだった。
「初めてお目にかかります。タンホイザー・ゲートの
名刺を渡された。タンホイザー・ゲートが阿久津の個人プロダクションであることは当然知っている。そして、目の前にいるこの青年が私がここまで来る原因となった、正岡の知り合いのご婦人の息子さんであることも知っていた。ワークショップだけでなくプロダクションにまで勤め出したところを見ると、阿久津は彼をだいぶ買っているようだ。一流大学を出て大手の広告代理店に勤めていたような優秀な人材とはなかなかめぐりあえないのだろう。彼への期待はプロキオンという名前でも分かった。こいぬ座の一等星を名乗らせたのは、ゆくゆくはおおいぬ座の一等星であるシリウス、太陽の次に明るい星の名前を襲名させたいからなのだろう。私がサジタリウスでなくサジッタになったのと同じ発想である。
徳見くん―プロキオンくんと呼ぶべきだろうか―は私を見て少し戸惑っているようだった。まさか初見で正体を見抜かれるはずもないが、と思っていると、
「おしゃれなんですね」
微笑まれたので彼の戸惑いの理由が分かった。今日の私は黒のスーツ、黒のワイシャツ、加えて黒のネクタイをつけていたので、それが異様に見えたのだろう。たまたま白いワイシャツにアイロンをかけそびれたのでやむなく黒を着てきただけなのだが、結果的には全身黒ずくめである。ワルを気取った変な奴が来た、くらいに思われているのかもしれない。
「今日はずっと家で仕事をしていたんでね」
説明にも弁解にもなっていないことを思わず呟くと徳見くんは笑い声をあげたが、義理でしてくれているのは丸分かりだった。
「メールでお伝えした通り、ACT2についていくつかご説明差し上げたいことがありますので、とりあえず隣の部屋までいらしてもらえますか」
401を出て、402まで行く。隣に比べるとだいぶ狭い部屋で、10名も入れば満杯になってしまいそうだった。こちらへ、と促されてテーブルの奥に腰かけた徳見くんの前に椅子に座る。20年近い昔に生活指導室に1度だけ呼ばれたことを思い出したが、優等生ではなかったものの不良にもなりきれなかった学生には
「では説明させていただきます」
物思いに
「まずはACT2へのご参加に感謝を申し上げます。
「それはどうもご
「当ワークショップの名前、ACT2というのは、みなさんが人生の第2幕を見事に演じ切ることを願ってその名がつけられました」
もっともらしい理屈だが、おそらくアクツのワークショップだからアクトツーになっただけだろう。
「ACT2に参加されるにあたってはいくつか守っていただきたいルールがあります。まずは名前です。参加中は阿久津が名づけたスターリー・ネームで呼び合ってください。本名を名乗らないようにくれぐれもお気を付けください」
あの妙な名前はスターリー・ネームというのか。
「罰則とかはあるんですか?」
「特にはありませんが、その時の阿久津の気分次第でペナルティが課されるおそれはあります」
それなら気を付けた方がいいだろう。何を考えているのか分からない男のすることだ。
「次に、参加中のスマートフォンの持ち込みは禁止です。会場の入り口でいったん回収してお帰りの際に返却します」
「情報
「それもありますが、一番の理由はイベント中に着メロを鳴らされると進行に支障をきたすからです。阿久津は場の一体感を乱されるのを何より嫌うのです」
「マナーモードにするだけではダメなんですか?」
「切り替えたつもりで鳴らしてしまうこともありますから。スマホそのものがなければ音が鳴るおそれもありません」
言っていることに筋は通っていたが、渡したスマホの中身をチェックされるかも、という危惧を抱くのは当然だった。もっとも私のスマホにはパスワードがかかっていたし、大事なデータは残さないよう普段から心掛けていた。見られて困るのは
「そうだ、先程情報漏洩のお話が出ましたが、このワークショップの内容を
やっていないが、仮にやっていたとしても正直には答えなかっただろう。阿久津がチェックするに決まっている。
「それともうひとつ重要な規則があります。ACT2の参加者同士が連絡先を交換すること、そしてワークショップ以外のプライヴェートで交流することは禁じられていますので、その点はどうかご了承ください。」
「それはどういうことです?」
思いがけない決まり事を告げられて声が上ずる。
「ACT2はあくまで阿久津世紀あっての集団なのです。阿久津を抜きにして集まるのは適切ではないのです」
「でも、せっかく知り合ったんだから、もっと仲良くなりたいと思うんじゃないですか?」
「ですから阿久津と一緒にみんなで仲良くなればいいんです。そのために月に1度ワークショップの終了後に阿久津を囲んで
理由はいくつか考えられた。自分のいないところでこそこそ集まられて悪口を言われたくないという小心さ。あるいはマグニの設立メンバーの不信を買って社長を辞めざるを得なくなった苦い経験に由来する他者への
「このルールを言うと、みなさん嫌な顔をされるので実のところ私もつらいんです。中には参加を取りやめてしまった人もいました」
「確かに驚きましたけど、阿久津さんの
それはお世辞ではなかった。強制収容所みたいなルールで他人を縛ろうとする人間に対する
「そうなんですか。いや、そう言っていただけると有難いです」
胸のつかえがとれて思わず顔が
「それでは最後になりますが、ACT2への参加にあたってはお手数ですが入会費および受講料を支払っていただくことになっています。サジッタさんが本日これから一度ワークショップを体験してみて、正式に参加したいと思われたのなら、次回お越しになられるときにこの書類に必要事項を記入したうえで私の方までお届けください」
何枚かの書類を手渡された。契約書や銀行の振込用紙をざっと見たところおかしな点はないようだったが、合計で20万円あまりを支払わなければならないようだった。「でもお高いんでしょ?」という声がまた聞こえてきたが、これを支払うのは私ではなく正岡である。ご婦人のお悩み解決と老人の暇潰しの対価として
「私が呼ぶまでこちらでお待ちください」
徳見くんが腕時計を見てから部屋を出ていき、私一人が残された。スマホを見てみると18時45分になっていた。そろそろ他の参加者も来場している頃だろう。15分くらいならなんとかなる、とさっき渡された書類に再び目を通しつつ待つことにする。そのうち隣の部屋からテーブルが動かされる音と何人かの話し声が聞こえてきた。19時をまわったあたりで、「よろしくおねがいします」と大勢が一斉に挨拶した後で阿久津の声が聞こえてきた。白金台で聞いたばかりの声だ。時々楽しそうなさざめきが聞こえてくる中、それから15分経っても私は一人で待たされていた。さすがに契約書を見るのも嫌になって、
30分を過ぎると目をつぶるのにも疲れてきた。もしかすると、これは私の積極性を試すテストなのかもしれない。消えたチーズを探しに行ったネズミは生き残ったが、ただ待っていただけのネズミは死んでしまった、という話をやる気に満ち溢れたビジネスマンから聞かされたことは何度かあった。ポジティブ一本槍の阿久津も好みそうな話であったが、
35分を過ぎたところで、隣の部屋のドアが開き誰かが走ってくるのが聞こえた。勢いよくドアが開いて徳見くんが現れた。
「すみません。本当にすみません。話が盛り上がっちゃってどうしてもタイミングがとれなくて」
どうやらテストではなくただの不手際らしかったが、徳見くんの全身から申し訳ない気持ちが阿久津の香水と同じくらいに強く漂ってきたので、気にしなくて大丈夫、と
「こちらでお待ちください」
401のドアの前まで来るとそう言われた。ここからまた30分待たされたりして、と冗談を言おうとしたが徳見くんが気にすると悪いのでやめておいた。部屋の中に戻ろうとする徳見くんに電源を切ったスマホを差し出すと、
大会議室に入るとドアのすぐ横にバッグを置いてからホワイトボードの前に立っている阿久津に近づく。今日は真っ赤なベレー帽をかぶっていて、本人の意図としては芸術家らしく見せたいのだろうが、私には外人部隊に入るのを断られた
「おお。黒いねえ」
1時間前の徳見くんの反応といい、どうも今日はインパクトのある格好をしてきてしまったようだ。ホワイトボードには「シンクロニシティ」「イメージの転換」と書かれた横でちびくろさんぼの虎のように矢印が輪を書いて互いの尻を追いかけている図があった。たとえ待たされずに呼ばれていたとしても大した話は聞けなかったものと思われた。
「今日からみなさんの仲間になるサジッタさんです」
手を振って挨拶を促される。この年齢になって転校生の気分を味わうとは夢にも思わなかった。
「えー、サジッタです。どうぞよろしくお願いします」
拍手が
「それだけ? 他に何か話したいことは? せっかくだからアピールしておこうよ」
そんなことを言われても特に何もない。調査のためにワークショップに入ったのだからアピールなどせずに目立たずに済ませたいのだ。
「話したいことがないなら踊ったら? 一発芸、モノマネとか。何か持ちネタはないの?」
話がないなら芸だってあるはずもない。阿久津の声にからかいが含まれているところを見ると、私がとても芸とも言えない
「そういう気の利いたことができたのなら、ここに来ることもなかったんですけどね」
苦し紛れにそう言うと、参加者たちの表情が少し明るくなったのが見えた。私の話に共感しているらしい。ここにいるのはみな自己表現が苦手な人なのだ。さっきは見えなかった共通項が私の目の前にあった。
「一言でいいからさ、何か面白いことを言ってよ。最初が大事だからね。ここにいるみんなのハートを
「前もって言ってくれていれば、隣の部屋で30分も一人でいましたから、その間に何か考えておいたんですけど。すみません。何も出てきません」
皮肉っぽい言い方にならないよう気を付けて、それはどうにか上手く行ったらしい。私への同情と主宰者への反発が入り混じった空気が伝わってくる。さすがに阿久津もそれを察したようで、
「うんうん。じゃあ、今日のところはそれくらいでいいや。自己紹介はおいおいしてくれればいいから」
席に座るよう言われた。金色のペイズリー柄のスーツを着た主宰者に
「じゃあ話を戻すよ。君たちに限らず、世間一般のみんなが大いに勘違いしていることなんだけど、反省には何の意味もないどころか、むしろ害悪でしかないんだ。過去を振り返る、失敗を
実によくしゃべるものだと驚くが、手にしたボトルから取り出したマルチビタミンの錠剤をボリボリかじりながらしゃべっているのに言葉に詰まる様子が全くなかったことにもっと驚かされる。サプリメントをピーナッツと同じ調子で食べていいものかどうなのかは知らない。それはともかく、阿久津の話の方といえば、私が読み込んだ100冊もの著書と同じで、無内容もいいところだった。真剣に聞くだけ無駄なので、聞いた端から記憶から削除していく。コンピューターならぬ私のメモリーにも容量の限界はあるのだ。大半の参加者もその点は心得ているようで、耳を傾けている風でいてどこか
「ガブリエルが
会議室の中は静まり返り、誰かが鼻をすすっているのがよく聞こえた。
「そうです。ガブリエルの口癖は父の
阿久津が目を光らせて天井を見上げると、参加者から拍手が自然に起こっていた。この話は著書の中でもたびたび語られているので私も知っていたが、同じ内容でも本で読むのと目の前で話されるのとではこちらの受け取り方がまるで違っていた。阿久津が「名探偵ガブリエル」に関わっていなかったのはほぼ確実で、この前会って話をした堺からもそう聞いている。堺から聞いた話といえば、彼にはお姉さんがいるから他に身寄りがないということはないし、「
「なんだか湿っぽくなっちゃったね。今日はこの辺にしてまた次回頑張ろうか」
参加者たちは何も言われないうちから椅子とパーテーションを片付け始めた。おそらく会議室を使用する前の状態に戻してから帰る取り決めになっているのだろう。私も手伝うことにする。パイプ椅子を折りたたんで横の壁に重ねて立てかけているうちに、男性陣が後ろに寄せられていたテーブルを前方まで運んでいて、こうなると私のやることはもうないようだった。カーペットの上に落ちていた
「初めてだったけどどうだった?」
と背後から
「どう? 緊張した?」
「おかげさまでそれほどあがることもありませんでした」
そう言うと阿久津は頬を
「何なに。いきなり何。僕に
思春期の女子みたいな嫌がり方をされたこっちの方が「きもい」と言いたくなったが、
「いや、カナブンが肩に止まってたんですよ」
そう言うと、阿久津は、うえええ、と舌を出してその場で
「なんだかお待たせしちゃったみたいで、悪いことをしたねえ」
曲がったベレー帽を直しながら、ACT2の主宰者は息を整えようとしていた。私も殊更に今の出来事を掘り返しはしない。
「いえいえ。こちらから出向けばよかったんです」
「プロくんがねえ、もっとしっかりしてくれないと困るんだよねえ」
プロくんというのは、プロキオン、つまり徳見くんのことで、部下に罪をなすりつけようとしているようだが、この場合は主宰者に責任があるのではないか。
「プロキオンさんは優秀な方だと思いますよ」
「うんうん。それはそうなんだけど。何しろ
横を通り抜けていく
「彼には将来的に僕の右腕になってもらいたいからね。一緒に大きな仕事をしたいんだ」
会議室に残っているのは私と阿久津、それに落とし物がないかを確認しているらしい徳見くんだけになっていた。
「阿久津さんがユル・ブリンナーで彼がスティーブ・マックイーンというわけですか?」
私の言葉に阿久津が不思議そうな表情をした。「?」と顔に浮かんできそうなほどだ。
「今なんて?」
「いや、ですから、『
最初の言い方では意味がとりづらかったのかと思って、次は間違いのないように言ったつもりだったが、まだ分かっていない。その姿は
「なんだかよく分からないけどなんだか面白いことを言ってるみたいだねえ」
そして、今や阿久津も事態の
「片付け終わりました」
徳見くんが暗くなった会議室から出てきた。阿久津はいったん部下の青年を見てからもう一度私を見ると、
「じゃあ、また次頑張ってね」
通りがかった人が困っているように見えたから義務としてわざわざ付き合ってあげていたとでもいう風に
「お忘れですよ」
と私にスマホを手渡して一礼してから再び阿久津を追いかけていった。2人がいなくなってから、大きく息をついた。まったく、初回から
エレベーターではなく階段で下まで降りながら、マグニだけでなく今自らが経営しているプロダクションである「タンホイザー・ゲート」の名前の由来も阿久津は知らないのではないか、と思ったが、もちろん本人に
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