第9話

 嫌な夢をみた。内容はまるで覚えていないが、とにかく不快ふかいだったことだけは覚えている。おそらく彼女が出てきたのだろう。冷たい汗にまみれて目を覚ますときは決まってそうだ。忘れようとしてもそれはできず、かといってはっきりと思い出すこともできない。そんな不可触ふかしょくな存在として私の中に今も巣食すくい続けている。しかし、そんな考えは朝食代わりに食べたグレープフルーツの酸味でどこかに行ってしまった。それでも、スプーンでほじくられ尽くした黄色い半球はんきゅうに我が身を重ね合わせてしまったのは何故なのだろうか。

 結局、その日は外で調査をするのを諦め、自宅で細々こまごまとした書類作りを昼中続けた。そんな作業の片手間に、CSでヴィスコンティの『夏の嵐』をぼんやり観てしまっているうちに遅刻しかけているのに気づき、慌ててスーツに着替えて家を出た。今日は阿久津あくつのワークショップに参加する初日だった。さすがに遅れてはまずい。19時開始ということだったが、初参加の私だけは30分早く来るように、と担当者からのメールには書かれていた。いくつか事前に注意しておきたいことがあるのだというが、会場で何が行われるのかは書かれていなかった。妙なことをやらされなければいいが、と不安が胸からせりあがってくるのを感じた。何しろ私はサジッタなのだ。何があっても不思議ではない。

 乗り換えがスムーズにいったおかげである程度余裕をもって中野なかの駅に着くことができた。構内の自動販売機でドクターペッパーを買ってちびちび飲みながら改札を抜ける。そこまで好きな飲み物ではないがたまに無性むしょうに飲みたくなるのだ。もはや夏のものではない夕方の風に吹かれながら横断歩道を渡り、サンプラザ近くの7階建てのビルの入り口まで行く。そこの会議場でやるとだけ聞いていたが、掲示板に「401 ACT2アクトツー様 19:00~」とマジックで書かれていたので安心してエレベーターホールに向かう。かごの中で聞き覚えのある音楽が流れていたが、タイトルを思い出せないまま4階に着いたので、もやもやした気持ちになる。

 薄鼠色うすねずいろのカーペットが敷かれた廊下を歩いて401号室を目指す。ほこりのにおいがして喘息ぜんそくがある者としてはあまり長居ながいをしたくはないと思ったが、ここ何年かは呼吸がおかしくなることもないのでそこまで心配することはないのかもしれない。悪い空気よりもストレスの方が原因になりやすいのではないか、と素人判断で考えていた。突き当たりを左に曲がると目当ての401号室だった。予定の時刻よりもだいぶ早いのでまだ誰もいないが、部屋の中は照明で煌々こうこうと照らされ空調はゴウゴウと音を立てて全力で動いている。広さから考えて定員100名ほどもある大会議室と呼ばれるたぐいの部屋だと思われたが、中ほどに白いパーテーションが立てられ、仕切りの前にパイプ椅子いすが20脚余り整然と並べられていた。集客を期待して大きな部屋を予約したのに見込みが外れてしまい、空席が目立つのも嫌なので不要なスペースを仕切りで隠しているのだろうか、と思ったが、悪く解釈しすぎているかも知れず、実際のところは分からない。

「サジッタさん」

 何度も呼ばれていたらしいがそれまで気がつかなかった。振り向くと甘いマスクをした青年が立っていた。より正確を期すなら甘ったるいマスクと言うべきだった。顔の部品ひとつひとつは大きく目立っているがバランスを欠いていてハンサムとは言えない。ファーリー・グレンジャーに似ている、と思ったが、それを言ったところで伝わるはずもないので黙っていた。正岡まさおかなら分かってくれるかもしれない。

「サジッタさんですよね」

 そうだった、ここでは私はサジッタだった。

「初めてお目にかかります。タンホイザー・ゲートの徳見とくみと申します。ACT2ではプロキオンを名乗らせてもらっています」

 名刺を渡された。タンホイザー・ゲートが阿久津の個人プロダクションであることは当然知っている。そして、目の前にいるこの青年が私がここまで来る原因となった、正岡の知り合いのご婦人の息子さんであることも知っていた。ワークショップだけでなくプロダクションにまで勤め出したところを見ると、阿久津は彼をだいぶ買っているようだ。一流大学を出て大手の広告代理店に勤めていたような優秀な人材とはなかなかめぐりあえないのだろう。彼への期待はプロキオンという名前でも分かった。こいぬ座の一等星を名乗らせたのは、ゆくゆくはおおいぬ座の一等星であるシリウス、太陽の次に明るい星の名前を襲名させたいからなのだろう。私がサジタリウスでなくサジッタになったのと同じ発想である。白金台しろがねだいで阿久津とカシオペアさんと会った後で、俄仕込にわかじこみで星座の勉強をしておいたのが生きたようだ。

 徳見くん―プロキオンくんと呼ぶべきだろうか―は私を見て少し戸惑っているようだった。まさか初見で正体を見抜かれるはずもないが、と思っていると、

「おしゃれなんですね」

 微笑まれたので彼の戸惑いの理由が分かった。今日の私は黒のスーツ、黒のワイシャツ、加えて黒のネクタイをつけていたので、それが異様に見えたのだろう。たまたま白いワイシャツにアイロンをかけそびれたのでやむなく黒を着てきただけなのだが、結果的には全身黒ずくめである。ワルを気取った変な奴が来た、くらいに思われているのかもしれない。

「今日はずっと家で仕事をしていたんでね」

 説明にも弁解にもなっていないことを思わず呟くと徳見くんは笑い声をあげたが、義理でしてくれているのは丸分かりだった。

「メールでお伝えした通り、ACT2についていくつかご説明差し上げたいことがありますので、とりあえず隣の部屋までいらしてもらえますか」

 401を出て、402まで行く。隣に比べるとだいぶ狭い部屋で、10名も入れば満杯になってしまいそうだった。こちらへ、と促されてテーブルの奥に腰かけた徳見くんの前に椅子に座る。20年近い昔に生活指導室に1度だけ呼ばれたことを思い出したが、優等生ではなかったものの不良にもなりきれなかった学生には縁遠えんどおい場所で、その時も担任の教師にお茶菓子を振る舞われて近況を尋ねられただけで、特に大した事件もないまま終わった。その先生と徳見くんがどこか似ているから思い出したのかもしれないが、あの時先生はどんな目的で私を呼び出したのだろう。

「では説明させていただきます」

 物思いにふける私をよそに徳見くんはてきぱきと段取りを進めていく。優秀さが全身からあふれ出していて、そんな息子を母親が心配するのも当然だと思われた。

「まずはACT2へのご参加に感謝を申し上げます。阿久津世紀あくつせいきとともにサジッタさんがよりよい人間に成長していくことを及ばずながら私も協力していきたいと考えています」

「それはどうもご丁寧ていねいにありがとうございます」

「当ワークショップの名前、ACT2というのは、みなさんが人生の第2幕を見事に演じ切ることを願ってその名がつけられました」

 もっともらしい理屈だが、おそらくアクツのワークショップだからアクトツーになっただけだろう。

「ACT2に参加されるにあたってはいくつか守っていただきたいルールがあります。まずは名前です。参加中は阿久津が名づけたスターリー・ネームで呼び合ってください。本名を名乗らないようにくれぐれもお気を付けください」

 あの妙な名前はスターリー・ネームというのか。

「罰則とかはあるんですか?」

「特にはありませんが、その時の阿久津の気分次第でペナルティが課されるおそれはあります」

 それなら気を付けた方がいいだろう。何を考えているのか分からない男のすることだ。

「次に、参加中のスマートフォンの持ち込みは禁止です。会場の入り口でいったん回収してお帰りの際に返却します」

「情報漏洩ろうえいを防ぐためですか?」

「それもありますが、一番の理由はイベント中に着メロを鳴らされると進行に支障をきたすからです。阿久津は場の一体感を乱されるのを何より嫌うのです」

「マナーモードにするだけではダメなんですか?」

「切り替えたつもりで鳴らしてしまうこともありますから。スマホそのものがなければ音が鳴るおそれもありません」

 言っていることに筋は通っていたが、渡したスマホの中身をチェックされるかも、という危惧を抱くのは当然だった。もっとも私のスマホにはパスワードがかかっていたし、大事なデータは残さないよう普段から心掛けていた。見られて困るのは白石しらいしさんから送られてきた画像くらいだった。

「そうだ、先程情報漏洩のお話が出ましたが、このワークショップの内容をSNSエスエヌエスで公表することは固く禁じられています。サジッタさんはブログとかやられてますか?」

 やっていないが、仮にやっていたとしても正直には答えなかっただろう。阿久津がチェックするに決まっている。

「それともうひとつ重要な規則があります。ACT2の参加者同士が連絡先を交換すること、そしてワークショップ以外のプライヴェートで交流することは禁じられていますので、その点はどうかご了承ください。」

「それはどういうことです?」

 思いがけない決まり事を告げられて声が上ずる。

「ACT2はあくまで阿久津世紀あっての集団なのです。阿久津を抜きにして集まるのは適切ではないのです」

「でも、せっかく知り合ったんだから、もっと仲良くなりたいと思うんじゃないですか?」

「ですから阿久津と一緒にみんなで仲良くなればいいんです。そのために月に1度ワークショップの終了後に阿久津を囲んで交歓会こうかんかいを開くことにしています。もちろん費用は阿久津が負担いたしますのでご安心ください」

 理由はいくつか考えられた。自分のいないところでこそこそ集まられて悪口を言われたくないという小心さ。あるいはマグニの設立メンバーの不信を買って社長を辞めざるを得なくなった苦い経験に由来する他者への猜疑心さいぎしん。いずれにしても参加者を目の届く場所に置いておきさえすれば自分の思い通りにできるはずだと思い込んでいる、とんだビッグ・ブラザー気取りであることに違いはなかった。誰も明言していないので断定はできないが、阿久津たちが最初に注目されたブラックな人形劇「あにまる・ふぁ~む」のモトネタはおそらくオーウェルの『動物農場』だろう、と報告書を作成しながら考えたのをふと思い出したところで、徳見くんが見るからに気まずそうにしているのに気が付いた。

「このルールを言うと、みなさん嫌な顔をされるので実のところ私もつらいんです。中には参加を取りやめてしまった人もいました」

「確かに驚きましたけど、阿久津さんの主宰しゅさいされるグループならこれくらいのことは有り得ますよ。むしろやる気が出てきたくらいです」

 それはお世辞ではなかった。強制収容所みたいなルールで他人を縛ろうとする人間に対する敵愾心てきがいしんが柄でもなく私の中で芽生えつつあった。やってやろうじゃないか、と心が燃え出したところで、さっきエレベーターの中で流れていた音楽が、ボズ・スキャッグスの<スロー・ダンサー>だったことに突然気が付いた。何度となく聞いた曲だが、ヴォーカルがなかったからすぐに気づけなかったのだ。一瞬だけ燃えた心はすぐに鎮火ちんかされた。

「そうなんですか。いや、そう言っていただけると有難いです」

 胸のつかえがとれて思わず顔がほころんでいたのをやる気の表れだと勘違いしたらしい徳見くんが嬉しそうにしていた。なんだか申し訳ない。

「それでは最後になりますが、ACT2への参加にあたってはお手数ですが入会費および受講料を支払っていただくことになっています。サジッタさんが本日これから一度ワークショップを体験してみて、正式に参加したいと思われたのなら、次回お越しになられるときにこの書類に必要事項を記入したうえで私の方までお届けください」

 何枚かの書類を手渡された。契約書や銀行の振込用紙をざっと見たところおかしな点はないようだったが、合計で20万円あまりを支払わなければならないようだった。「でもお高いんでしょ?」という声がまた聞こえてきたが、これを支払うのは私ではなく正岡である。ご婦人のお悩み解決と老人の暇潰しの対価として妥当だとうな金額なのか、私には判断しかねた。

「私が呼ぶまでこちらでお待ちください」

 徳見くんが腕時計を見てから部屋を出ていき、私一人が残された。スマホを見てみると18時45分になっていた。そろそろ他の参加者も来場している頃だろう。15分くらいならなんとかなる、とさっき渡された書類に再び目を通しつつ待つことにする。そのうち隣の部屋からテーブルが動かされる音と何人かの話し声が聞こえてきた。19時をまわったあたりで、「よろしくおねがいします」と大勢が一斉に挨拶した後で阿久津の声が聞こえてきた。白金台で聞いたばかりの声だ。時々楽しそうなさざめきが聞こえてくる中、それから15分経っても私は一人で待たされていた。さすがに契約書を見るのも嫌になって、水道橋すいどうばし駅近くのかばん屋で買った時から新品のはずなのに既に使い込まれた感じのあった黒のビジネスバッグに入っているジム・トンプソンの小説の続きでも読もうかと思ったが、読み耽っているところで呼びに来られたらいかにも間が悪く、それにまだ出だしを読んだだけだがしっかり読みたい本だと思っていたので、目をつぶってうつむいたまま待つことにした。若者が叫びをあげた後でわずかに笑い声が上がった。どうやらお調子者がいるらしい。

 30分を過ぎると目をつぶるのにも疲れてきた。もしかすると、これは私の積極性を試すテストなのかもしれない。消えたチーズを探しに行ったネズミは生き残ったが、ただ待っていただけのネズミは死んでしまった、という話をやる気に満ち溢れたビジネスマンから聞かされたことは何度かあった。ポジティブ一本槍の阿久津も好みそうな話であったが、はりつけになりながら人生の明るい面を見ようとしたブライアンたちには共感できても、齧歯類げっしるいが一匹死のうが生き残ろうが興味のない私はやはり自分からは動かないことにした。それに言われたことを守れるかを試すテストの可能性だってある。

 35分を過ぎたところで、隣の部屋のドアが開き誰かが走ってくるのが聞こえた。勢いよくドアが開いて徳見くんが現れた。

「すみません。本当にすみません。話が盛り上がっちゃってどうしてもタイミングがとれなくて」

 どうやらテストではなくただの不手際らしかったが、徳見くんの全身から申し訳ない気持ちが阿久津の香水と同じくらいに強く漂ってきたので、気にしなくて大丈夫、と鷹揚おうように頷いてから立ち上がった。泣きじゃくる孫をあやす祖父はこんな気持ちなのだろうかと思ったが、私はまだ父親にもなっていなかった。

「こちらでお待ちください」

 401のドアの前まで来るとそう言われた。ここからまた30分待たされたりして、と冗談を言おうとしたが徳見くんが気にすると悪いのでやめておいた。部屋の中に戻ろうとする徳見くんに電源を切ったスマホを差し出すと、怪訝けげんな顔をしてからすぐに気が付いて「確かに」と両手で受け取ってから部屋に入っていった。さっき私に説明したばかりのルールを忘れるくらい動転している青年には同情の念しかいてこない。一歩下がってクリーム色の扉を上から下まで眺め終わるのと同時にノブが回され、「どうぞ」と左目だけを出した徳見くんに招かれた。

 大会議室に入るとドアのすぐ横にバッグを置いてからホワイトボードの前に立っている阿久津に近づく。今日は真っ赤なベレー帽をかぶっていて、本人の意図としては芸術家らしく見せたいのだろうが、私には外人部隊に入るのを断られた放蕩息子ほうとうむすこにしか見えなかった。

「おお。黒いねえ」

 1時間前の徳見くんの反応といい、どうも今日はインパクトのある格好をしてきてしまったようだ。ホワイトボードには「シンクロニシティ」「イメージの転換」と書かれた横でちびくろさんぼの虎のように矢印が輪を書いて互いの尻を追いかけている図があった。たとえ待たされずに呼ばれていたとしても大した話は聞けなかったものと思われた。

「今日からみなさんの仲間になるサジッタさんです」

 手を振って挨拶を促される。この年齢になって転校生の気分を味わうとは夢にも思わなかった。

「えー、サジッタです。どうぞよろしくお願いします」

 拍手がまばらに響いた。見ると20個ほどある座席は半分しか埋まっておらず、つまり今日の参加者は10名程度ということになる。20歳そこそこにしか見えない若者や顔中にひげを生やした熟年男性、それに一番前の真ん中にカシオペアさんの顔も見える。共通項きょうつうこうを持たない実にまとまりのない集団という印象を受けたが、それに私が参加したことでさらに混沌こんとんとしてしまったようだった。

「それだけ? 他に何か話したいことは? せっかくだからアピールしておこうよ」

 そんなことを言われても特に何もない。調査のためにワークショップに入ったのだからアピールなどせずに目立たずに済ませたいのだ。

「話したいことがないなら踊ったら? 一発芸、モノマネとか。何か持ちネタはないの?」

 話がないなら芸だってあるはずもない。阿久津の声にからかいが含まれているところを見ると、私がとても芸とも言えない代物しろものを無理に披露しようとして場がしらけるのを期待しているのが分かった。おそらくこの参加者たちの中にも無茶振むちゃぶりにこたえようとして地獄を見た人もいるのではないか。気分がHBエイチビーの鉛筆のようにとがっていく。

「そういう気の利いたことができたのなら、ここに来ることもなかったんですけどね」

 苦し紛れにそう言うと、参加者たちの表情が少し明るくなったのが見えた。私の話に共感しているらしい。ここにいるのはみな自己表現が苦手な人なのだ。さっきは見えなかった共通項が私の目の前にあった。

「一言でいいからさ、何か面白いことを言ってよ。最初が大事だからね。ここにいるみんなのハートを鷲掴わしづかみにしようよ」

「前もって言ってくれていれば、隣の部屋で30分も一人でいましたから、その間に何か考えておいたんですけど。すみません。何も出てきません」

 皮肉っぽい言い方にならないよう気を付けて、それはどうにか上手く行ったらしい。私への同情と主宰者への反発が入り混じった空気が伝わってくる。さすがに阿久津もそれを察したようで、

「うんうん。じゃあ、今日のところはそれくらいでいいや。自己紹介はおいおいしてくれればいいから」

 席に座るよう言われた。金色のペイズリー柄のスーツを着た主宰者に間近まぢかで動かれると目がチカチカしてつらかったので、ようやく離れられて安心する。最後列の3つ並んで空いているところの真ん中の席に座る。誰とも隣り合わないから気楽だが、こいつ仲良くする気ないんじゃないか、と他の参加者から思われても無理はなかった。実際仲良くする気はないのだから仕方ないのだが。右端のネイビーブルーの薄手のパーカーを着た小太りとまではいかないが丸っこい女の子と目が合ったが、すぐに視線をらされてしまった。前を見ると阿久津はテーブルの向こうに腰かけてから、手を叩いてから話を再び始めようとしていた。

「じゃあ話を戻すよ。君たちに限らず、世間一般のみんなが大いに勘違いしていることなんだけど、反省には何の意味もないどころか、むしろ害悪でしかないんだ。過去を振り返る、失敗をかえりみる。そうすることで精神はマイナス方向に転がって行ってしまうんだ。一度反省したら3日は戻ってこられない。ミスカトニック大学の研究によると、現代人のほとんどが反省によって人生の3分の1を無駄にしているそうだよ。これは絶対に良くない。今すぐやめるべきだ。僕は言いたい。人はみなストライカーとして生きるべきなのだと。シュートを外して“あれは惜しかった”と悔やんでいるようなやつはフィールドで生きていけない。“次だ! 次こそは決める!”と前を向いていかなきゃダメなんだ。現に僕がカンプ・ノウで見たバルサの選手たちは」

 実によくしゃべるものだと驚くが、手にしたボトルから取り出したマルチビタミンの錠剤をボリボリかじりながらしゃべっているのに言葉に詰まる様子が全くなかったことにもっと驚かされる。サプリメントをピーナッツと同じ調子で食べていいものかどうなのかは知らない。それはともかく、阿久津の話の方といえば、私が読み込んだ100冊もの著書と同じで、無内容もいいところだった。真剣に聞くだけ無駄なので、聞いた端から記憶から削除していく。コンピューターならぬ私のメモリーにも容量の限界はあるのだ。大半の参加者もその点は心得ているようで、耳を傾けている風でいてどこか弛緩しかんした空気が漂っていた。最前列中央に座ったカシオペアさんだけは一言も聞き漏らさぬようにメモをとっていたが、それは私がとやかく言える事柄ではなかった。たまに参加者に向けて質問が飛んでくるので油断は禁物だったが、阿久津は目の前に実在する参加者を相手にしているというより自分の頭の中で作り上げた理想の参加者に向かって話をしているように見えた。主宰者がそんな風では場が白けてしまうのは当然とも言えたが、その空気が一変したのは「名探偵ガブリエル」の話題が出た時のことだった。阿久津が関係したことになっている伝説の作品を参加者のほとんどは見ているのだろう。真剣に聞こうとする態度が最後列さいこうれつからも感じられた。

「ガブリエルが難事件なんじけんに遭遇していろいろと調べて推理もしていくんだけど、どうしても分からなくなって行き詰まった時に、必ず天を見上げてこう言うよね。“神よ”って。その言葉のおかげで解決のヒントが見つかるというのが、毎回の決まり事なんだけど、あの“神よ”というのは実は僕の実体験から来ている。ここからは丁寧にゆっくりしゃべっていきます。僕の父親は愛知あいち土建屋どけんやをやっていたんだけど、とことん現実主義者で、見えないものや触れないものを一切信用しない人でした。息子の僕から見てもバイタリティあふれる人で、業界でも有名人だったんだけど、その反面人を人とも思わないところがあって、知り合いや友人と喧嘩ばかりして周りは敵だらけという困った人でした。家族にもそれは同じで、僕もマグニを立ち上げたときに勘当されて、二度と家の敷居をまたぐな、と怒鳴られました。その時は恨みましたが今にして思えばあの言葉があったからここまで頑張れたのだと思っています。マグニの社長として忙しくしていた時、確か“指輪綺譚ゆびわきたん”の準備中だったと思うけど、駿河湾するがわんをのぞむ小さな町の病院から電話があって、“お父様があまり長く持たない”と言われて嫌々行くことにしました。恵比寿えびすくんとさかいくんに“行った方がいい”と言われたような気もする。言い忘れていたけど、母は僕が高校生の時に亡くなっているので、身寄りは一人息子の僕だけでした。行ってみると、小さな病室で父は寝たきりになっていて、元気だった頃の父親しか知らない僕はとてもショックを受けました。あれだけ金も力もあった人がどうしてこんな寂しく最後を迎えなければならないんだろう、そう思うとあれだけ嫌いだった父がかわいそうになって涙が止まりませんでした。僕が着いた次の日の夕方に、ようやく目を覚ました父が僕を見るなりこう言いました。“洗礼せんれいを受けたい”と。宗教を馬鹿にしていた父が、しかもキリスト教とはえんもゆかりもなかったはずなのにそんなことを言うなんて、と本当に驚きましたが、生きているうちの最後の願いを無視するわけにはいかなくて、急いで引き受けてくれる教会を探したら、浜松はままつの神父さんが引き受けてくれるということで、深夜ではありましたが駆けつけてもらって、なんとか洗礼をしてもらうことができました。そのすぐ後に父は亡くなりましたが、痛みも苦しみもないおだやかな死に方でした。臨終りんじゅうの際、父の口がわずかに動くのを僕は見ました。体力がなくて声にはならなかったのでしょう、でも父は確かにこう言っていたのです。“神よ”と」

 会議室の中は静まり返り、誰かが鼻をすすっているのがよく聞こえた。

「そうです。ガブリエルの口癖は父の今際いまわの言葉から来ているんです。生きている間は僕の仕事を理解してくれなかった父ですが、僕が手掛ける作品の中で永遠に生き続けて欲しい。そんな思いを込めたつもりです。それが僕ができる唯一の親孝行だった、と今でも信じています」

 阿久津が目を光らせて天井を見上げると、参加者から拍手が自然に起こっていた。この話は著書の中でもたびたび語られているので私も知っていたが、同じ内容でも本で読むのと目の前で話されるのとではこちらの受け取り方がまるで違っていた。阿久津が「名探偵ガブリエル」に関わっていなかったのはほぼ確実で、この前会って話をした堺からもそう聞いている。堺から聞いた話といえば、彼にはお姉さんがいるから他に身寄りがないということはないし、「戦国戦隊せんごくせんたいサンエイケツ」を作るために実家から多額の借金をしているはずなので、今聞いた話に整合性がないことは明らかだった。しかし、そうは言っても、全くの嘘をかなりの熱を込めて長々と話せるものだろうか、と心の中に迷いが生じていた。事前に調べていた私ですらそうなのだから、他の参加者はみなすっかり信じ込んで感動しきっている。右端の女の子が目をうるませてパーカーのそでで口元を覆っているのが見えた。このエピソードについて堺からもう一度話を聞いて確認したかったが、アフガニスタンで危険にひんしている彼に迷惑をかけるわけにもいかなかった。話の真偽はともかく、多くの人の心を動かす話術わじゅつは大したものだと言わざるを得ず、今目の前にいる全身きんきらきんの動くミラーボールのような男が容易ならざる相手であることを認めるよるほかになかった。

「なんだか湿っぽくなっちゃったね。今日はこの辺にしてまた次回頑張ろうか」

 参加者たちは何も言われないうちから椅子とパーテーションを片付け始めた。おそらく会議室を使用する前の状態に戻してから帰る取り決めになっているのだろう。私も手伝うことにする。パイプ椅子を折りたたんで横の壁に重ねて立てかけているうちに、男性陣が後ろに寄せられていたテーブルを前方まで運んでいて、こうなると私のやることはもうないようだった。カーペットの上に落ちていた紙屑かみくずをごみ箱に捨ててから、ドアの横に置いてあったバッグを手に取り帰ろうと廊下に足を踏み出すと、

「初めてだったけどどうだった?」

 と背後から猫撫ねこなごえささやかれた。阿久津が笑みを浮かべていたが、近づかれた途端にラベンダーの香りが鼻腔びくうに押しかけてきて、危うくタイムスリップしそうになる。

「どう? 緊張した?」

「おかげさまでそれほどあがることもありませんでした」

 そう言うと阿久津は頬をふくらませてから下の方を見た。私が緊張しなかったのが不服なのか、と思ったが、そんな彼の左肩に緑色に光るものが見えた。甲虫こうちゅうかたどった生々しいほどにリアルなデザインのブローチだが、この人ならどんなアクセサリーをつけても不思議ではない、と妙に納得していると、ブローチは肩口から首元へとじりじり前進していた。本物じゃないか、と驚いて手を伸ばしてそっと追い払おうとすると、阿久津がわっと驚いて2mほど飛び退いてしまい、結局そのおかげで虫は何処かへ飛んで行った。

「何なに。いきなり何。僕にさわらないでよ。きもいなあ」

 思春期の女子みたいな嫌がり方をされたこっちの方が「きもい」と言いたくなったが、

「いや、カナブンが肩に止まってたんですよ」

 そう言うと、阿久津は、うえええ、と舌を出してその場で地団太じだんだを踏んだ。私の知り合いに虫が苦手で見るだけでべそをかいていた女の子がいたのだが、そんな彼女も多摩たまの少し奥まった土地で一人暮らしするようになると、わずか半年でゴキブリを見つけても物も言わずにタウンページで一撃で仕留めるタフネスを身につけていたので、阿久津もしばらく田舎の方で暮らしたらいいのではないか、と思った。

「なんだかお待たせしちゃったみたいで、悪いことをしたねえ」

 曲がったベレー帽を直しながら、ACT2の主宰者は息を整えようとしていた。私も殊更に今の出来事を掘り返しはしない。

「いえいえ。こちらから出向けばよかったんです」

「プロくんがねえ、もっとしっかりしてくれないと困るんだよねえ」

 プロくんというのは、プロキオン、つまり徳見くんのことで、部下に罪をなすりつけようとしているようだが、この場合は主宰者に責任があるのではないか。

「プロキオンさんは優秀な方だと思いますよ」

「うんうん。それはそうなんだけど。何しろ東大とうだいだからねえ。優秀でなきゃおかしいくらいだよ」

 横を通り抜けていく髭面ひげづらの男に、お疲れ、と呼びかけてから、

「彼には将来的に僕の右腕になってもらいたいからね。一緒に大きな仕事をしたいんだ」

 会議室に残っているのは私と阿久津、それに落とし物がないかを確認しているらしい徳見くんだけになっていた。

「阿久津さんがユル・ブリンナーで彼がスティーブ・マックイーンというわけですか?」

 私の言葉に阿久津が不思議そうな表情をした。「?」と顔に浮かんできそうなほどだ。

「今なんて?」

「いや、ですから、『荒野こうや七人しちにん』のユル・ブリンナーとマックイーンですよ」

 最初の言い方では意味がとりづらかったのかと思って、次は間違いのないように言ったつもりだったが、まだ分かっていない。その姿は蓄音機ちくおんきの前で首をかしげるテリアけんを思い出させたが、この犬は飼い主が自己流のトリミングをしたせいで逆にみすぼらしく見えてしまっていた。そこで思わずあっ、と叫びそうになった。もしかすると、阿久津は『荒野の七人』を観ていないのではないか、と思い当たったのである。かつて働いていた会社の名前の由来を社長だった人間が知らないわけがないと思い込んであんなことを言ってしまったのだが、マグニと名付けた人間が他の6人の中にいる可能性も大いにあるのだ。考えれば分かるはずのことだったが、まさか社長が知らないとは予想をえる出来事だったのは確かだ。阿久津が1本の映画を観ていなかったことは別に大事ではない。映画を多く観ようが本を多く読もうが偉くもなんともないことは私もよく知っている。私が阿久津の無知を露顕ろけんさせ、なおかつ阿久津の知識の欠如けつじょを知ってしまったこと、それこそが問題なのだ。

「なんだかよく分からないけどなんだか面白いことを言ってるみたいだねえ」

 そして、今や阿久津も事態の様相ようそうを正確にとらえているようだった。うわべはフレンドリーなままでも、私をのぞきこむ阿久津の眼はとても冷ややかになっていた。瞳の色が青みがかっているのはカラーコンタクトを入れているせいだろうか。温度の急降下にまともに反応すれば事態が悪化するのは目に見えていたから、とぼけた顔をして黙って微笑んでおくことにした。どんな言葉を発しても彼をあおる効果しか持たないだろう。2人の中年が無言で視線を交わす構図は見映みばえの良くないものだったろうが、それは部屋の電気が不意に消えたことで終わりを迎えた。

「片付け終わりました」

 徳見くんが暗くなった会議室から出てきた。阿久津はいったん部下の青年を見てからもう一度私を見ると、

「じゃあ、また次頑張ってね」

 通りがかった人が困っているように見えたから義務としてわざわざ付き合ってあげていたとでもいう風にない口をきいて、エレベーターの方へ向かっていった。いつにない上司の態度に目を丸くした徳見くんはその後を追いかけようとして立ち止まり、

「お忘れですよ」

 と私にスマホを手渡して一礼してから再び阿久津を追いかけていった。2人がいなくなってから、大きく息をついた。まったく、初回から厄介事やっかいごとを引き起こすなんてどうかしている。それでも、阿久津のプライドが高かったのではなく高すぎたのが私に幸いしたようだった。プライドの高い人間は自尊心じそんしんを傷つけられれば直ちにやり返すだけなのだが、プライドの高すぎる人間は自分が傷ついたことすら認めたくないのだ。そして、相手に反撃することは自分が傷ついたと認めることにほかならない、彼にとって許されない行為なのだ。この場合において、反撃ではなく冷笑れいしょうあるいは黙殺もくさつこそが彼が相手にる最もふさわしい対応だと言えた。阿久津の態度が変わったのもそういうことなのだろう。ただし、それで私が救われたわけではもちろんなかった。彼のプライドを傷つけないような手段を講じて、何らかの形でいずれ仕返ししてくることは間違いなかった。自業自得とはいえ、面倒なことになったものである。

 エレベーターではなく階段で下まで降りながら、マグニだけでなく今自らが経営しているプロダクションである「タンホイザー・ゲート」の名前の由来も阿久津は知らないのではないか、と思ったが、もちろん本人にただすつもりはなかったし、阿久津も二度と私に弱みを見せないように気を付けてくるはずだった。徳見くんと2人で『ブレードランナー』の上映会でもするといい。階段を降り切って1階のロビーに出ると誰の姿もなく、管理人室の入り口から漏れた明かりが床に長く伸びている。部屋からは野球の中継らしい音も聞こえてきた。エレベーターで降りていればもう一度<スロー・ダンサー>が聴けたのに、とそこで気付いたが、今更乗り直すわけにもいかなかった。

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