第8話

 阿久津世紀あくつせいきが私の前に座って履歴書に目を通している。頭を動かしながら見ているので何処に視線があるのか対面からでもよく分かった。今は普通自動車免許取得のあたりを見ているようだ。あまり熱心に見ているので、もしかすると郵送された時には担当者がチェックしただけで、阿久津本人が書類を見るのは今初めてなのではないか、と疑わしくなってきた。次善の策は用意してあるので、仮に落とされたとしてもそれで調査が失敗するわけではないのだが、そんなさほど深刻ではない状況でも面接というものは人をナーヴァスにさせるようだった。

 電話で話し終えた女性が戻ってきて阿久津の隣に座る。「大丈夫だった?」と聞かれても無言でうなずくだけである。ふちのない眼鏡の中にかすかな笑みが見える。

「今、話を聞いていたんだけどね、カシオペアさん。ソリガチさんも大泉学園おおいずみがくえんで先生をしていたそうだよ。凄いよねえ」

 大泉学園駅近くの私立中学で非常勤で教育補助をしていた、と説明したのだが、阿久津の脳内でショートカットされてしまったようだ。もっとも、誰に説明してもいつもそのように間違えられるので、彼だけが悪いわけではない。ややこしい仕事をしていた私がいけないのだろう。それにも増して、「カシオペアさん」だ。まさか本名でもあるまいが、あまりに突飛とっぴな呼び名で突っ込みづらい。「も」ということは「カシオペアさん」も教師かあるいは教育関係者なのだろうか。グレイのスーツを着た自己主張の控えめそうな彼女が教育に携わっているというのはいかにもふさわしいと思われたが、いま阿久津と一緒に座っているのには違和感しかなかった。

「今お勤めのユニバーサル貿易というのは海外の雑貨を扱っている会社なんですか。これは凄いなあ」

 何も凄いことはないが、表向きはそういうことになっている。毒々しい色をしたただ甘いだけのキャンディと常温でもドロドロに溶けるただ甘いだけのチョコレートバーをそれぞれアメリカから輸入して都内のスーパーにおろすのがユニバーサル貿易の主な事業ということになっている。所長によれば、終戦直後にお菓子を輸入販売する目的で会社が設立され、時を経て実質的に調査会社に宗旨替しゅうしがえした今でも事業の目的を訂正するのはさぼっているだけなのだそうだが、今こうしてワークショップに参加しようとしている私としては所長のサボタージュに感謝したい気持ちだった。調査会社に働いているとなれば間違いなく不信をいだかれただろう。もしかすると、偽装のつもりで意図的にさぼっているのかもしれないが、それは考えすぎというものだった。

 今、私たちは白金台のオープンカフェにいた。曇り空で風が強く、屋外おくがいで話をするのは不向きな日なのかもしれなかった。うっかりすると指の隙間から飛ばされそうになっている書類を「カシオペアさん」に渡すと、阿久津はアサイーのスムージーをストローで大きな音を立ててあっという間に飲み干してしまった。驚きの吸引力、とキャッチフレーズをつけたくなる。真っ白な手のひらが打ち鳴らされて高い音が響き渡った。

「はい。これで決まりです。今までお話してきてあなたという人間をだいぶ理解できたように思います。わがACT2アクトツーにまたひとり素晴らしい人材をお迎えすることができて誠に嬉しい限りです」

 どうやら私の入会が認められたようでそれは慶賀けいがすべきことだったが、目の前に座っている男が本当に阿久津世紀なのか、出会ってから20分を経過してもなお信じかねている気持ちの処理を上手くできずにいた。少し前に体質改善と美容療法に成功した体験談を著書にまとめて、宣伝のためなら全裸になることもいとわなかった「美しすぎる評論家」は今でも美の追求をやめてはいないようだった。明るい茶色の髪はボリュームたっぷりで細心さいしんの注意を払って無造作むぞうさに見えるようにセットされ、増毛したせいなのか狭くなった額を稲妻のように細く鋭い眉が斜め上に駆け上がっている。上下ともに睫毛まつげで濃くふちどられた眼は黒目がやたら大きく、あまりに高すぎて芸人がコントでよくつけている外国人用の付け鼻を装着しているのではないかと見間違えそうになるがそれはまさしく本物の鼻である。てらてらと光る厚い唇は常にアヒルのくちばしのように突き出され、永久脱毛に成功したおかげで無精髭ぶしょうひげなど影も形もない。そしてとにかく肌が白い。護島さんも色の白い人だが、彼女の場合は白さの中にも柔らかで明るい色味いろみがあるのに比べ、阿久津の肌はまさしく紙のように白い。空中に目鼻口が浮いていると見間違えるくらいの白さだ。ただ、この2人を比較することに内心非常に抵抗がありはするのだが。マグニの社長だった頃には「ファッションに気を使う奴は所詮ブランドの奴隷に過ぎない」と豪語して着たきり雀で通していた青年が、今やサヴィル・ローの老舗しにせ紳士服店に特注したという銀色に輝く高級スーツに身を包んでいるのだから人間は変われば変わるものである。私の眼にはアルミホイルにくるまれているようにしか見えないのだが、『裸の王様』のようにファッションセンスがない人間にはそう見えてしまうのだろう。他人がどのような服装をしていようが、よほど不潔ではない限り口出しをしないようにしているのだが、それにしても風下に座った私めがけて阿久津の香水の薫りが直撃するのはとても耐えがたかった。デパートの1階に足を踏み入れた時の100倍は軽く超える濃厚さに何度もみそうになる。

「おめでとう。ACT2へようこそ」

 握手をするために右手を差し出してきたが、何故か非常におどおどしているように見える。人前によく出ていても慣れないことはあるのだろうか、と思いながら、軽く腰を浮かせてから握り返す。手のひらはしっとりどころかじっとりと濡れていて、右手をぎたくなるのをなんとかこらえる。

「どうしたの? なんか変な顔をしているけど」

「いや、いつも雑誌やテレビで拝見させていただいて、分かっているつもりではいたんですが、こうやって実際にお目にかかると、本当にお美しい方なんだなあと」

 あからさまなお世辞を言いながら、濡れた手のひらをスラックスにこすりつけようとして、そうすると匂いが移ると気付いてしまい、やむを得ずただぶらぶらと揺らせておくことにする。

「ありがと。でも、これはまだ途中なんだ。完成までにはまだ遠いね」

「どうしてそこまでして美しくなろうと?」

「僕がそうしたかったからじゃない。そうするしかないんだ。人間として生まれた以上、美しく生きる義務がある。そして、美しく生きるためにはまず美しい外見を作らなければならないんだ」

 そう言うと、私をじっと見詰めてきたので、何故かひるんでしまう。

「君も素材はいいんだ。もっと美しくなる努力をすべきだね。あとでおすすめのサプリとコスメをメールで教えるから、すぐに使うといいよ」

 サプリはともかく、遂に私にもコスメティック・ルネッサンスが訪れてしまうのか。鶴田一郎つるたいちろうの絵を思い浮かべていると、阿久津は再び書類に目を落としていた。

「レポートも読ませてもらったけど、やっぱり実際に会ってみると、あなたから“変わりたい! 本当の自分はこんなもんじゃない!”という気持ちを凄く感じる。君が僕を必要としていて、僕も君を必要としている」

 そんな気持ちは全くないつもりなのだが、街でセミナーの勧誘にひっかかったり、見るからに善良そうだが正体不明の人に「幸せを祈らせてください」と頼まれることが今でもよくあるので、どうやら私はよほど自己を啓発されたがっているように他人からは見えるらしく、内心忸怩じくじたるものがある。しかしこの場ではそんな外見が役に立ったようなので、確かに世界には無駄なものなど何一つ存在しないのかもしれない。フェリーニの『道』を思い出す。

「僕が必要としているというのは分かりますが、阿久津さんが僕を必要としている、というのは?」

「君だけじゃなく僕も変わりたいんだよ。仲間が多くなればなるほどよりよい人間に生まれ変われる。だから君がACT2に参加を申し込んだことで、それだけでもう既に僕を救ってくれているんだよ」

 感銘を受けているかのような表情をつくろうのに苦労する。このカフェの近くには美術館があったはずだから、閉館までに間に合えば行ってみたいものだ、と先に希望を見出すしかない。

「自分を変えるために何をすればいいんでしょう」

「うんうん。やる気があるのはいいよ。でも焦ったらダメだ。変わろうと思った時点で君は既に変わり始めているんだからね。とりあえず一度来てみてよ。みんなに会えばすべて分かるから」

 正岡まさおかの知り合いのご婦人の息子さんともそこで会えるはずだ。

「何人くらい参加されているんですか?」

「登録しているのは全部で50人くらいだけど、毎回参加しているのは5、6人だね。でもみんな学校や仕事があるんだから来てくれるだけでありがたいよ」

 なるべく多くの人間が参加している方が注意を引かずに私としては助かったのだが、5、6人というのは微妙なところだった。

「分かりました。では一度お邪魔させていただきます」

「お邪魔だなんて。君はもう僕らの仲間なんだから」

 そう言うと阿久津は手を合わせて、むむむと唸りながらテーブルを見つめだした。またスムージーを注文するつもりなのかもしれない、と思ったらしい「カシオペアさん」がメニューが封入ふうにゅうされたアクリルフォームを取ろうかと迷っているのが見えたが、彼女が手を伸ばす前に阿久津がまた手を打ち鳴らした。

「そうだ。何かを忘れていると思ったら、名前だよ。君に名前を付けてあげなくちゃいけないんだった」

「そうです。それは必要です」

「カシオペアさん」が頷く。どうもワークショップにおいては重要なことらしい。

「名前、ですか」

「この世界の君にはソリガチタケシ、という名前があるけど、ACT2は別の世界だからまた別の名前が必要になるんだ。そして僕が名付け親になる」

出家しゅっけするみたいですね」

 自分の耳でも皮肉にしか聞こえなかったので、しまったと思ったが、阿久津も「カシオペアさん」も気にする様子がなくて助かった。軽口はつつしまないといけない。

「君に合ったいい名前をつけてあげないとなあ」

 阿久津は腕を組んで左を見る。視線を追うと厨房ちゅうぼうとおぼしき建物の外壁がいへきに緑と白の太い縞模様しまもようが斜めに走ったパラソルが大量に立てかけられていた。雨よりも日差しを防ぐためのものなので、この天気では不要なのだろう。いつの間にかテラスの客は私たちだけになっていて、ウェイターが時々片付けのためにテーブルの間をうほかは人の姿もなかった。

「難しいなあ。ヒントがないとだめみたいだ」

「そういう時もあります」

 額に手を当てる阿久津を「カシオペアさん」が優しく励ます。そんなに大事おおごとなのか。阿久津が手を差し出すと、彼女が私の履歴書をもう一度手渡した。阿吽の呼吸、ツーカーの仲というべきか。

「ソリガチさん、誕生日は11月25日ですか」

「はい。血液型はOです」

 どうでもいいことを訊かれるとどうでもいいことを付け足したくなるものだ。

「じゃあ僕には輸血できないね」

 余計な情報の見返りに曖昧あいまいな笑みを浮かべると阿久津はもう一度考え込んだ。風に曝されて体が冷えてきたのでコーヒーのお代わりを頼もうかと思っていると、ぱん、と何かが破裂する音が近くで鳴ったおかげで驚いて腰を少し浮かせてしまった。どうやら手を叩くのが癖らしいが、人騒がせな性格をしていると癖もそうなるものらしい。

「サジッタ」

 私の顔に向かってホワイトアスパラガスのような指が突きつけられる。長く伸びた爪には星空をえがいたネイルアートがほどこされていた。

「はい?」

「サジッタ。それが君の名前だ」

「矢座ですね。いい選択です」

 掘り出し物を見つけた客を称える骨董こっとうディーラーのように「カシオペアさん」が大きく頷く。2人は得意満面だが名づけられた私の方はさっぱりわけがわからない。

「やざ?」

「矢座。矢の星座だよ。ACT2の参加者はみんな星座にまつわる名前をつけているんだ」

「そんな星座があるんですか」

 それも驚きだったが、阿久津がこんなロマンチックな命名の仕方をするのも驚きだった。事前のイメージからすると番号でも振ってもっと機械的に振り分けそうなものだったが、さすがにそれだと囚人しゅうじんみたいで嫌がる人も多そうだ。

「ソリガチさんは射手座いてざでしょ。だから、素直にサジタリウスにしようかと思ったんだけど、最初からその名前は重たい気がしてね。かえってあなたのためにならない。でも、これから頑張ればすぐにサジタリウスになれると思うよ」

 星占いを気にする性格でもないので、自分の星座を長いこと忘れていた私には、サジタリウスになりたい気持ちなど微塵みじんもなかったが、それ以上に星座を出世魚しゅっせうおみたいに扱っていいものなのか、という疑問が頭を占めていた。そこで唐突とうとつに気付く。

「じゃあ、カシオペアというのも」

「うんうん。彼女の名前も星座から取っているんだよ」

 よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりの晴れやかな笑顔で彼女が座ったまま一礼する。名前を与えられた喜びが表情に出ていて、喜べない自分が悪いような気がしてくる。

「でも、星座ってそんなに多くありませんよね。それ以上参加者が応募してきたら足りなくなりませんか」

 確か88か、それくらいしかないはずだ。

「うちは少数精鋭だからその心配はないよ」

 分かり切ったことを聞かれたみたいに勝ち誇った笑顔をされる。

「阿久津さんにも別の名前があるんですか?」

 にこっ、と音が聞こえそうなほどに分かりやすい笑みを浮かべた。ホワイトニングされた歯がアサイーの紫に染まっている。

「そうしたいのは山々なんだけどね。残念ながら僕は阿久津世紀でしかないんだ。それ以外の何者にもなれない。まあ、でも、どうせつけるならサン、ジュピター、それからゾディアック、この中のどれかかな」

 そんな名前の殺人鬼が昔アメリカにいましたね、と言おうとしてやめておいた。冗談でもなく本気で自らを太陽や木星になぞらえている人には到底通じそうもない。

「もしかして名前が気に入らなかったかな?」

「いえ、そんなことは」

 あだ名をつけられて一喜一憂する可愛げはとうの昔に私から離れてしまっていた。そもそも中学の体育館で午後の授業を潰して上映された『ネバーエンディング・ストーリー』を観てから「ロックバイター」としばらく呼ばれたくらいしかあだ名をつけられたことがない。あと、高校の時に「ソーリー」と呼ばれたくらいか。それから、大学の時に「ハンカチ」。なんだ、意外とあるじゃないか。記憶の扉、とも言えないせいぜい鍵穴くらいの隙間すきまから一生思い出すはずもなかった些事さじに行き会ってしまって戸惑うことしかできなかった。

 そんな私をよそに阿久津とカシオペアさん―もう事情が分かったからカッコは取ろう―が何やら話をしている。それから彼女は静かに席を立ってテラスから通りまで出ていった。少し猫背気味の灰色の後ろ姿が遠くなっていくのが見える。

「悪いけど、これからCXシーエックスまで行かなきゃいけない。生だから遅刻できないんだ」

 そう言うと妙に芝居がかった動きで席を立った。立ち上がるときも美しくあらねばならない、と考えているのかもしれない。CXというのが何なのかはもはや子供でも知っているので、業界用語としても耳新しくはない。白金台しろがねだいからお台場だいばまではタクシーで30分くらいかかったはずだ。時間から考えて夕方のニュースショーで何かコメントしなければならないのだろう。

「忙しい中会ってくださってありがとうございました」

 香水から解放された鼻が喜びのあまりくしゃみをしそうになるのをなんとかなだめすかす。

「お礼を言いたいのはこっちの方だよ。サジッタさんから何を学べるのか楽しみで仕方ない」

 ウェイターを呼んで代金をかんで支払い、造花ぞうかのピンクの薔薇ばらがあしらわれた緑のアーチを2人並んでくぐったところでちょうどカシオペアさんがタクシーを停めた。

「次回は来週の水曜の夜にあるから。詳細は担当が追って連絡すると思う」

「よろしくお願いします。ぜひ出席させていただきます」

「うんうん。それじゃあサジッタさん、またお会いしましょう」

「サジッタさんもお気をつけて」

 カシオペアさんが挨拶する後ろで、阿久津が短い脚を組んでなんとか優美ゆうびに見えるよう苦心して座っているのが見える。

 黒い個人タクシーを見送りながら、2人の中で自分はもう既に「サジッタ」になってしまっているんだな、と思わず大きく溜息をついてしまった。阿久津たちを追いかけるようにスピーカーを屋根に乗せた白いワンボックスカーが昔の東宝とうほう特撮映画とくさつえいがで使われていた勇壮ゆうそうな音楽を流しながら走っていくのを背にして、熱いコーヒーを飲み直すためもう一度カフェに戻ろうとしたが、とうとうくしゃみが止まらなくなって路上で一人じたばたと暴れてしまった。


 美術館を出るとすっかり日が暮れていた。幾重いくえにも重なった雲の切れ間から今日最後のの光がまばゆく輝くのが見える。中国の陶磁器とうじきについて私は何も知らなかったが、物も言わず身じろぎもせずに置かれている静物を見ているうちに自分がサジッタになったことも阿久津の香水も遠い過去の出来事のように思われて、いくらか心が落ち着いていった。

 山手線やまのてせんの駅は美術館からそれほど遠く離れていなかったので、とりあえずそこまで出ようと歩き出そうとして、白石しらいしさんから着信があったのに気づいた。展覧会を見ている間マナーモードにしていて気付かなかったのだ。

「すみません。さっきは出られなくて」

 白石さんはすぐに出てくれた。彼女は基本的に毎日事務所まで行って所長の世話をしているから、今から帰宅するところだったかもしれない。

「今日向こうと初対面だったんだよね。どうだった?」

「まだなんとも言えませんね。でも来週ワークショップに参加することになりました」

「順調じゃない。そのまま頑張って」

「ところで何か用事でもあったんですか」

 私の言葉にはっとしたらしい。スマホの向こうでエクスクラメーションマークが出たのが分かる。

「そうそう。ソリガチくんって明日の予定どうなってる?」

 別に阿久津の調査のみにかかりきりというわけではなく、いくつかの仕事を同時進行で抱えていた。明日は法務局まで行って関東一円で事業を展開中の新小岩しんこいわに本校がある学校法人が都内に所有しているいくつかの不動産に関する登記の手続きをするのに立ち会うことになっていた。何の資格もない私がいたところで邪魔になるだけだと思うのだが、眼を病んでいるのかいつも涙目の理事長に頼まれたのと、立ち会うだけで金が貰えるのを断るのは大馬鹿だと所長に怒られたので引き受けたのだった。大馬鹿というフレーズが面白くて怒られても嫌な気持ちにはならなかった。

「じゃあ、会社まで出てこられるよね」

 法務局は九段くだんにあるから、小川町おがわまちの事務所までは歩いて行ける距離だ。

「蛍光灯を替えてくれないかな。所長が留守だから明日やっちゃいたいんだけど、私もトシだから高いところが怖くて」

 所長の机の上の明かりが時々チカチカ点滅していたのは私も気になっていたのでそれは構わないのだが、白石さんが一の位を四捨五入すると50歳になってからやたらと自分はおばさんだからと強調するようになったのはよくないことだとひそかに思っていた。外見はともかく中身は中学生の頃からそのまま変わっていないような人なのだから、もっと堂々としてればいいのに、と彼女の気も知らずに勝手なことを考えていた。森高千里もりたかちさとの歌のようにはいかないのだろうか。

「どうせならLEDエルイーディーに替えてみたらどうですか?」

「一度所長に相談したんだけど嫌がられちゃって」

 老人らしいというべきか、所長には身の回りの変化をたとえそれが些細ささいなものであっても断固として拒否する癖があった。この手の食わず嫌いで白石さんの手をわずらわせているのだからしょうがない爺さんなのだが、彼女はへこたれることなく世話を甲斐甲斐かいがいしく続けていた。

「うちのビルは古いし、業者に頼まなきゃいけないんでしょうけど、どうせなら今やっておいた方がいいと思いますよ」

 そうねえ、と白石さんが迷っているので駄目を押すことにする。

「なんだったら僕の方から話しますよ。所長だってすぐに慣れますから」

「分かった。じゃあ明日は来なくていいから、来週の月曜に所長と話してみて。でもソリガチくんがそんなにやる気を出すなんて珍しいね。何かあった?」

 事務所の運営に積極的に口を出したのは確かにあまりないことだったが、普段の私はどれほどグウタラだと思われているのだろうか。少し落ち込む。

「ところで、前から気になっていたんだけど」

 もう話題が変わったらしい。気持ちが落ちたせいか展開についていくのが難しい。

護島ごとうさんってソリガチくんのこと好きだと思うんだよね」

 耳から飛び込んできた何らかの飛翔体ひしょうたいに脳を吹き飛ばされたかと思った。一体何を言い出すんだこの人。

「私にはそうとしか思えないんだよね」

「いきなりわけのわからないことを言わないでください」

「わけわからなくないよ。だって、護島さん、ソリガチくんにだけ態度が違うもの」

 私だけの思い込みではなかったのか、と安堵感が少しだけ芽生える。

「白石さんにもそう見えますか?」

「見える見える。明らかに違う」

「でも、態度が違うといっても、悪い意味で態度が違うんだと思うんです。当たりがきついというか嫌われているというか」

「だから、好きだからその裏返しできつくなってるんじゃないかって思うのよ。ほら、昔よくいたじゃない。好きな子ほどいじめる子が」

「そんな、小学生じゃないんですから」

 そんなメンタリティーのままで今まで生きてきたとしたら護島さんは結構危ない人である。

「とにかく、私の勘ではそれが真実ということになっているから。だまされたと思って一度デートにでも誘ってみたら?」

「でも、もしかしたら本当に嫌われている可能性だってあるんじゃないですか? 誘ったりしたらもっと嫌われるんじゃないですか?」

「それはそうかもね」

 あっさり認めないで欲しい。今までの話は何だったのか。

「ならできませんよ。これ以上気まずくなるなんてとても耐えられません」

「まあまあ。ソリガチくんもそろそろお嫁さんを貰わなきゃいけないんじゃない? 私としては護島さんはあなたにピッタリなんじゃないかなあと思っちゃったのよ。今彼女は当然いないんでしょ?」

 ずいぶん長く恋人がいないのは事実だが、「当然」というのはどういう意味なのか。腹立たしい。

「もう帰って晩御飯を作らなきゃいけないから切るよ。護島さんと仲良くしてね」

 私の感情をみだすだけ搔き乱しておいて、白石さんは電話を切った。阿久津と話すよりもはるかに疲れてしまった。来週の月曜に護島さんと会うのが余計につらくなる。それは私が勝手につらくなっただけで、彼女は何も悪くないのだが。

 駅まで出てまだ少し早いが晩飯ばんめしを食べて家に帰り着くための体力をつけることにした。グラタン、ドリア、ピザ。チーズ系の食べ物を体が求めている。頭がイタリアンになったところでスマホが鳴った。メールの着信音はシンプルなチャイムである。タイトルはないが白石さんからだった。

「プレゼント」

 とだけ書かれている。「プレゼント」は音符おんぷマークではさまれていて、オセロのルールなら素敵なハーモニーが流れ出しそうなところだ。何のことやら、と不審に思っていると画像が添付てんぷされているのに気づいた。まさか危険なものを送ってくるはずもないが怖々こわごわと開けてみる。

 画面一杯に護島さんの姿が映っていた。おそらく白石さんにいきなりられたのだろう。事務所の自分の席に座ったまま、断りたい気持ちを懸命に押し殺してなんとか柔らかい表情を作ろうとしているのが分かる。まっすぐな視線を発する眼は眩しそうに細められているが、彼女は嬉しいことがあると笑う代わりにそんな眼をする。素直に笑えばいいと思うのだが、何を我慢しているのか眼だけをわずかに変化させるのだ。特に観察していたわけではないが、それに気づいたのは調査員のさがというものなのだろう。

 歩道に立ち止まったまましばらく画面を見つめていた。白石さんのお節介せっかいにも困ったもので、もし私がこの写真を持っていると護島さんが知ったらどうなるか、想像したくもなかった。ならば削除するのか、というと何故かそうしたくもなかった。少し考えてから画像を保存してフォルダーに移しておいた。簡単には見られはしないだろう、という甘い判断ともし見つかったら直ちにいさぎよ自決じけつすればいい、という重い決意のなせるわざだった。事務所の窓から身を投げればすぐに片のつくことだ。ただ神田かんだ警察署のおまわりさんたちに迷惑をかけるかと思うとそれだけは心苦しい。

 画像を移し終わってすぐ、白石さんからまたメールが来た。

「待ち受けにした?」

 もちろん返信はしなかった。するわけがなかった。

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