第8話
電話で話し終えた女性が戻ってきて阿久津の隣に座る。「大丈夫だった?」と聞かれても無言で
「今、話を聞いていたんだけどね、カシオペアさん。ソリガチさんも
大泉学園駅近くの私立中学で非常勤で教育補助をしていた、と説明したのだが、阿久津の脳内でショートカットされてしまったようだ。もっとも、誰に説明してもいつもそのように間違えられるので、彼だけが悪いわけではない。ややこしい仕事をしていた私がいけないのだろう。それにも増して、「カシオペアさん」だ。まさか本名でもあるまいが、あまりに
「今お勤めのユニバーサル貿易というのは海外の雑貨を扱っている会社なんですか。これは凄いなあ」
何も凄いことはないが、表向きはそういうことになっている。毒々しい色をしたただ甘いだけのキャンディと常温でもドロドロに溶けるただ甘いだけのチョコレートバーをそれぞれアメリカから輸入して都内のスーパーに
今、私たちは白金台のオープンカフェにいた。曇り空で風が強く、
「はい。これで決まりです。今までお話してきてあなたという人間をだいぶ理解できたように思います。わが
どうやら私の入会が認められたようでそれは
「おめでとう。ACT2へようこそ」
握手をするために右手を差し出してきたが、何故か非常におどおどしているように見える。人前によく出ていても慣れないことはあるのだろうか、と思いながら、軽く腰を浮かせてから握り返す。手のひらはしっとりどころかじっとりと濡れていて、右手を
「どうしたの? なんか変な顔をしているけど」
「いや、いつも雑誌やテレビで拝見させていただいて、分かっているつもりではいたんですが、こうやって実際にお目にかかると、本当にお美しい方なんだなあと」
あからさまなお世辞を言いながら、濡れた手のひらをスラックスにこすりつけようとして、そうすると匂いが移ると気付いてしまい、やむを得ずただぶらぶらと揺らせておくことにする。
「ありがと。でも、これはまだ途中なんだ。完成までにはまだ遠いね」
「どうしてそこまでして美しくなろうと?」
「僕がそうしたかったからじゃない。そうするしかないんだ。人間として生まれた以上、美しく生きる義務がある。そして、美しく生きるためにはまず美しい外見を作らなければならないんだ」
そう言うと、私をじっと見詰めてきたので、何故か
「君も素材はいいんだ。もっと美しくなる努力をすべきだね。あとでおすすめのサプリとコスメをメールで教えるから、すぐに使うといいよ」
サプリはともかく、遂に私にもコスメティック・ルネッサンスが訪れてしまうのか。
「レポートも読ませてもらったけど、やっぱり実際に会ってみると、あなたから“変わりたい! 本当の自分はこんなもんじゃない!”という気持ちを凄く感じる。君が僕を必要としていて、僕も君を必要としている」
そんな気持ちは全くないつもりなのだが、街でセミナーの勧誘にひっかかったり、見るからに善良そうだが正体不明の人に「幸せを祈らせてください」と頼まれることが今でもよくあるので、どうやら私はよほど自己を啓発されたがっているように他人からは見えるらしく、内心
「僕が必要としているというのは分かりますが、阿久津さんが僕を必要としている、というのは?」
「君だけじゃなく僕も変わりたいんだよ。仲間が多くなればなるほどよりよい人間に生まれ変われる。だから君がACT2に参加を申し込んだことで、それだけでもう既に僕を救ってくれているんだよ」
感銘を受けているかのような表情を
「自分を変えるために何をすればいいんでしょう」
「うんうん。やる気があるのはいいよ。でも焦ったらダメだ。変わろうと思った時点で君は既に変わり始めているんだからね。とりあえず一度来てみてよ。みんなに会えばすべて分かるから」
「何人くらい参加されているんですか?」
「登録しているのは全部で50人くらいだけど、毎回参加しているのは5、6人だね。でもみんな学校や仕事があるんだから来てくれるだけでありがたいよ」
なるべく多くの人間が参加している方が注意を引かずに私としては助かったのだが、5、6人というのは微妙なところだった。
「分かりました。では一度お邪魔させていただきます」
「お邪魔だなんて。君はもう僕らの仲間なんだから」
そう言うと阿久津は手を合わせて、むむむと唸りながらテーブルを見つめだした。またスムージーを注文するつもりなのかもしれない、と思ったらしい「カシオペアさん」がメニューが
「そうだ。何かを忘れていると思ったら、名前だよ。君に名前を付けてあげなくちゃいけないんだった」
「そうです。それは必要です」
「カシオペアさん」が頷く。どうもワークショップにおいては重要なことらしい。
「名前、ですか」
「この世界の君にはソリガチタケシ、という名前があるけど、ACT2は別の世界だからまた別の名前が必要になるんだ。そして僕が名付け親になる」
「
自分の耳でも皮肉にしか聞こえなかったので、しまったと思ったが、阿久津も「カシオペアさん」も気にする様子がなくて助かった。軽口は
「君に合ったいい名前をつけてあげないとなあ」
阿久津は腕を組んで左を見る。視線を追うと
「難しいなあ。ヒントがないとだめみたいだ」
「そういう時もあります」
額に手を当てる阿久津を「カシオペアさん」が優しく励ます。そんなに
「ソリガチさん、誕生日は11月25日ですか」
「はい。血液型はOです」
どうでもいいことを訊かれるとどうでもいいことを付け足したくなるものだ。
「じゃあ僕には輸血できないね」
余計な情報の見返りに
「サジッタ」
私の顔に向かってホワイトアスパラガスのような指が突きつけられる。長く伸びた爪には星空を
「はい?」
「サジッタ。それが君の名前だ」
「矢座ですね。いい選択です」
掘り出し物を見つけた客を称える
「やざ?」
「矢座。矢の星座だよ。ACT2の参加者はみんな星座にまつわる名前をつけているんだ」
「そんな星座があるんですか」
それも驚きだったが、阿久津がこんなロマンチックな命名の仕方をするのも驚きだった。事前のイメージからすると番号でも振ってもっと機械的に振り分けそうなものだったが、さすがにそれだと
「ソリガチさんは
星占いを気にする性格でもないので、自分の星座を長いこと忘れていた私には、サジタリウスになりたい気持ちなど
「じゃあ、カシオペアというのも」
「うんうん。彼女の名前も星座から取っているんだよ」
よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりの晴れやかな笑顔で彼女が座ったまま一礼する。名前を与えられた喜びが表情に出ていて、喜べない自分が悪いような気がしてくる。
「でも、星座ってそんなに多くありませんよね。それ以上参加者が応募してきたら足りなくなりませんか」
確か88か、それくらいしかないはずだ。
「うちは少数精鋭だからその心配はないよ」
分かり切ったことを聞かれたみたいに勝ち誇った笑顔をされる。
「阿久津さんにも別の名前があるんですか?」
にこっ、と音が聞こえそうなほどに分かりやすい笑みを浮かべた。ホワイトニングされた歯がアサイーの紫に染まっている。
「そうしたいのは山々なんだけどね。残念ながら僕は阿久津世紀でしかないんだ。それ以外の何者にもなれない。まあ、でも、どうせつけるならサン、ジュピター、それからゾディアック、この中のどれかかな」
そんな名前の殺人鬼が昔アメリカにいましたね、と言おうとしてやめておいた。冗談でもなく本気で自らを太陽や木星になぞらえている人には到底通じそうもない。
「もしかして名前が気に入らなかったかな?」
「いえ、そんなことは」
あだ名をつけられて一喜一憂する可愛げはとうの昔に私から離れてしまっていた。そもそも中学の体育館で午後の授業を潰して上映された『ネバーエンディング・ストーリー』を観てから「ロックバイター」としばらく呼ばれたくらいしかあだ名をつけられたことがない。あと、高校の時に「ソーリー」と呼ばれたくらいか。それから、大学の時に「ハンカチ」。なんだ、意外とあるじゃないか。記憶の扉、とも言えないせいぜい鍵穴くらいの
そんな私をよそに阿久津とカシオペアさん―もう事情が分かったからカッコは取ろう―が何やら話をしている。それから彼女は静かに席を立ってテラスから通りまで出ていった。少し猫背気味の灰色の後ろ姿が遠くなっていくのが見える。
「悪いけど、これから
そう言うと妙に芝居がかった動きで席を立った。立ち上がるときも美しくあらねばならない、と考えているのかもしれない。CXというのが何なのかはもはや子供でも知っているので、業界用語としても耳新しくはない。
「忙しい中会ってくださってありがとうございました」
香水から解放された鼻が喜びのあまりくしゃみをしそうになるのをなんとかなだめすかす。
「お礼を言いたいのはこっちの方だよ。サジッタさんから何を学べるのか楽しみで仕方ない」
ウェイターを呼んで代金を
「次回は来週の水曜の夜にあるから。詳細は担当が追って連絡すると思う」
「よろしくお願いします。ぜひ出席させていただきます」
「うんうん。それじゃあサジッタさん、またお会いしましょう」
「サジッタさんもお気をつけて」
カシオペアさんが挨拶する後ろで、阿久津が短い脚を組んでなんとか
黒い個人タクシーを見送りながら、2人の中で自分はもう既に「サジッタ」になってしまっているんだな、と思わず大きく溜息をついてしまった。阿久津たちを追いかけるようにスピーカーを屋根に乗せた白いワンボックスカーが昔の
美術館を出るとすっかり日が暮れていた。
「すみません。さっきは出られなくて」
白石さんはすぐに出てくれた。彼女は基本的に毎日事務所まで行って所長の世話をしているから、今から帰宅するところだったかもしれない。
「今日向こうと初対面だったんだよね。どうだった?」
「まだなんとも言えませんね。でも来週ワークショップに参加することになりました」
「順調じゃない。そのまま頑張って」
「ところで何か用事でもあったんですか」
私の言葉にはっとしたらしい。スマホの向こうでエクスクラメーションマークが出たのが分かる。
「そうそう。ソリガチくんって明日の予定どうなってる?」
別に阿久津の調査のみにかかりきりというわけではなく、いくつかの仕事を同時進行で抱えていた。明日は法務局まで行って関東一円で事業を展開中の
「じゃあ、会社まで出てこられるよね」
法務局は
「蛍光灯を替えてくれないかな。所長が留守だから明日やっちゃいたいんだけど、私もトシだから高いところが怖くて」
所長の机の上の明かりが時々チカチカ点滅していたのは私も気になっていたのでそれは構わないのだが、白石さんが一の位を四捨五入すると50歳になってからやたらと自分はおばさんだからと強調するようになったのはよくないことだとひそかに思っていた。外見はともかく中身は中学生の頃からそのまま変わっていないような人なのだから、もっと堂々としてればいいのに、と彼女の気も知らずに勝手なことを考えていた。
「どうせなら
「一度所長に相談したんだけど嫌がられちゃって」
老人らしいというべきか、所長には身の回りの変化をたとえそれが
「うちのビルは古いし、業者に頼まなきゃいけないんでしょうけど、どうせなら今やっておいた方がいいと思いますよ」
そうねえ、と白石さんが迷っているので駄目を押すことにする。
「なんだったら僕の方から話しますよ。所長だってすぐに慣れますから」
「分かった。じゃあ明日は来なくていいから、来週の月曜に所長と話してみて。でもソリガチくんがそんなにやる気を出すなんて珍しいね。何かあった?」
事務所の運営に積極的に口を出したのは確かにあまりないことだったが、普段の私はどれほどグウタラだと思われているのだろうか。少し落ち込む。
「ところで、前から気になっていたんだけど」
もう話題が変わったらしい。気持ちが落ちたせいか展開についていくのが難しい。
「
耳から飛び込んできた何らかの
「私にはそうとしか思えないんだよね」
「いきなりわけのわからないことを言わないでください」
「わけわからなくないよ。だって、護島さん、ソリガチくんにだけ態度が違うもの」
私だけの思い込みではなかったのか、と安堵感が少しだけ芽生える。
「白石さんにもそう見えますか?」
「見える見える。明らかに違う」
「でも、態度が違うといっても、悪い意味で態度が違うんだと思うんです。当たりがきついというか嫌われているというか」
「だから、好きだからその裏返しできつくなってるんじゃないかって思うのよ。ほら、昔よくいたじゃない。好きな子ほどいじめる子が」
「そんな、小学生じゃないんですから」
そんなメンタリティーのままで今まで生きてきたとしたら護島さんは結構危ない人である。
「とにかく、私の勘ではそれが真実ということになっているから。
「でも、もしかしたら本当に嫌われている可能性だってあるんじゃないですか? 誘ったりしたらもっと嫌われるんじゃないですか?」
「それはそうかもね」
あっさり認めないで欲しい。今までの話は何だったのか。
「ならできませんよ。これ以上気まずくなるなんてとても耐えられません」
「まあまあ。ソリガチくんもそろそろお嫁さんを貰わなきゃいけないんじゃない? 私としては護島さんはあなたにピッタリなんじゃないかなあと思っちゃったのよ。今彼女は当然いないんでしょ?」
ずいぶん長く恋人がいないのは事実だが、「当然」というのはどういう意味なのか。腹立たしい。
「もう帰って晩御飯を作らなきゃいけないから切るよ。護島さんと仲良くしてね」
私の感情を
駅まで出てまだ少し早いが
「プレゼント」
とだけ書かれている。「プレゼント」は
画面一杯に護島さんの姿が映っていた。おそらく白石さんにいきなり
歩道に立ち止まったまましばらく画面を見つめていた。白石さんのお
画像を移し終わってすぐ、白石さんからまたメールが来た。
「待ち受けにした?」
もちろん返信はしなかった。するわけがなかった。
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