第6話

「はい。山崎やまざきさんとは親しくさせてもらっています」

 護島ごとうさんはそれだけ言うと、私の顔も見ずに手元の書類にペンを走らせた。昨日のあなんの言葉に嘘はなかったのだ。しかし、鼻先にシャッターを勢いよく下ろすかのような口調で言われては、話を続けるのも躊躇ためらわれた。2人はどういう関係なのか、私についてどんな話をしたのか、聞いてみたいところだったが、あなたには関係ないでしょう、ともう一度シャッターを下ろされるのも嫌なので、黙って彼女の前髪の生え際に同じ間隔で並んでいる小さなヘアピンを眺めることしかできなかった。ひいでた額には小さな赤い点々があって、ちょっとした肌荒れでも目立ってしまうから、色白というのもいいことばかりではない、と心をさまよわせていると

「どうぞ」

 下を向いたままだしぬけに書類を手渡してきたので泡を喰ってしまう。彼女のものと既に手にしていた私と森永もりながさんの2枚、計3枚をひとまとめにして白石しらいしさんに手渡す。区役所に所員の健康保険に関する書類を提出しなければならないのだそうだ。

「はい、ごくろうさま」

 ねぎらわれると同時に机の上に置きっぱなしにしていた私のスマホから<ボンド・ストリート>が結構な音量で流れ始めたので急いで自分の席に戻る。「にぎやかな歌ねえ」と白石さんが笑い、護島さんの冷たい視線が背中に突き刺さるのを感じつつ、小走りで部屋の外に出て電話に出る。

 5分後、会話を終えて室内に戻り、手入れをした爪が真珠色に光っているのを満足そうに見ていた所長の元へ行く。

正岡まさおかさんから連絡があって今から報告に来て欲しいとのことでした」

「急だな」

「本当なら関係者に裏を取ってから行くつもりだったんですけど、待ちきれないらしくて」

「相変わらずせっかちな奴だ」

 所長が外に漏らすのがもったいないと言わんばかりに口の中だけで笑い声をあげた。

「知りたいと言うなら知らせてやったらいい。ついでに身の上話でも聞いてやりなさい」

 正岡の個人的な事情などに興味はなかったが、とりあえず所長の許可も出たので午後から世田谷せたがやまで出かけてそのまま会社には戻らず自宅に直接帰ることにした。今日こそはずっとさぼっていた机の中にためこんだ紙切れの整理をしようと思っていたのだが、それはまた後回しだ。引き出しをスムーズに開けられるのはいつになるのか、と思っていたら、目の前にティッシュでくるまれた明らかに市販のものではない楕円だえんに近いいびつなドーナツが2つ置かれた。

「出かける前に食べていって」

 こんな具合に白石さんは手作りの料理を我々によく振る舞ってくれる。他人に食べさせるのが楽しいというのがありありと伝わってくるので味は別問題としても食べていると胸の中が温かくなってくる。正月明けに御茶ノ水おちゃのみず駅のホームで津田沼つだぬま行きの黄色い電車に乗り込む白石さんとご主人、それに中学生くらいの2人の男の子を見かけたが、3人ともみんな丸々と太っていて彼女が家族に惜しみなく愛情を注いでいるのがよく分かった。このご時世では目の敵にされがちだが、あのような肥満ならそう悪いものでもないだろう。じかに左手で受け取ったドーナツを口の中に詰め込みながら右手だけでキーボードを叩き続ける森永さんの情緒の無さに感心しつつ、背後の折りたたみテーブルの上に置かれたポットから紙コップにお湯を注いでインスタントコーヒーを作る。席に戻ってドーナツをひとつ平らげてから残りも手に取ったところで、ふと穴の中から天井をのぞいてみた。変わったものは何も見えない。そのまま室内を見渡してみたが、別に歪んで見えたりはしない。馬鹿なことを、と自分に呆れて今度こそ口にしようとしたら、

「ソリガチくん、こぼしてるよ」

 と白石さんに注意された。見てみると、輪っかからこぼれたクズが膝の上に散らばっていた。慌てて払いのけようとしたが、部屋を汚すなと怒りっぽい同僚の女の子に叱られると思い直して、ドーナツをくるんでいたティッシュを手に取ってその中にクズを集めてから丸めて机の上に置いた。今あった出来事は自分のあずかり知らぬことと言わんばかりに素知らぬ顔をしようとしたが、何やってるの、と白石さんに笑われたので、こちらも笑ってごまかすしかなかった。そんな私を護島さんは進化し損ねて滅びゆく宿命の生き物を見るかのような憐みの目で見ていた。全く本当に馬鹿なことを。


 今日は怒られなかっただけまだマシなんだ、と自分を慰めているうちに電車はうめおか駅に着いた。改札を出て残暑の中を15分ほど歩くと例のスコットランドからやってきた屋敷の青い屋根が見えてきた。これも正岡のこだわりなのか、屋敷の外壁は全てツタで覆われていて、風に吹かれるたび緑が揺れて、それ自体が息づいているかのように見える。門から庭に入り玄関に向かう途中で土の香りが強く感じられた。午前中に庭仕事をしていたのだろうか。

 応接間にこの前と変わった様子は見られず、視界の隅に否応なしに飛び込んでくるドガの大きな絵を見て、暗闇の中で飛び跳ねるあなんの姿が脳裏によみがえった。もしかすると子供の頃にクラシックバレエを習っていたのかもしれない。

 前回ほど待たされることもなく、正岡がやってきた。相変わらず事務員みたいな格好をしている。まだ完成していませんが、と念を押したうえで報告書を手渡すと貪るように読み始めた。ふんふん、ほうほう、と声を出しながら15分かけて全てに目を通してから氷が溶けて味が薄くなったアイスコーヒーをおもむろに飲み干し、面白かったんだけどさあ、と話し出した。

「これを読んでも阿久津あくつって人が何をやっていたのかよく分からないよ」

「僕の力不足です」

「いやいや。何をやっていたのか分からないことを分からせてくれたんだから、君はよくやってくれたと思うよ」

 持って回った言い方だが評価されているのだろうか。

小泉こいずみくんのつてで関係者から話を聞ければ何か分かるかもしれませんが」

「そういえばさ」

 正岡が私の方を見て微笑んだ。相変わらず人の話を聞かないうえに、何かたくらんでいそうな嫌な笑いだ。

「これを読みながら君が説明してくれるのを聞いていたんだけど、昨日小泉くんとガールフレンドの山崎さん? 3人でカラオケに行ったんだって?」

「ええ。行きましたけど」

「君は何を歌ったの?」

「それって言わなきゃいけませんか?」

 どうでもいいことを聞かないでくれ、という表情をしながら言ったつもりだが、正岡はどこ吹くかぜで気にする様子もない。

「別に言いたくなければ言わなくていいけど純粋に興味があるんだよ。もちろん無理には聞かないけどね」

 そう言われると話をしないのが子供じみて感じられてくる。余計な話をした私が悪いのだと観念した。

「グループサウンズです」

GSジーエス? また古いねえ。小泉くんたち、分からなかったんじゃないの?」

 実際、ジュンローもあなんもキョトンとしていたのを思い出して顔が赤くなるのを感じた。それを見たのか正岡はさらにしつこく訊いてくる。

「ねえ、どんな歌、誰の歌を歌ったんだい?」

「ヴィレッジ・シンガーズの“バラ色の雲”とザ・ゴールデン・カップスの“愛する君に”です」

「知らないねえ」

 そこでいきなり興味を失って正岡は報告書に視線を戻した。さっきとは違う意味で顔が赤くなってくる。「話を振っておいて途中で飽きるざい」を刑法に追加するよう国会議員は努力すべきではないだろうか。「持ち歌が少ないざい」が追加されたら私は執行猶予のつかない実刑判決を受けてしまうだろうが。私の妄想とは関係なく、正岡は報告書に添付された阿久津の著書のリストに目を通していた。

「これ全部読んだの?」

「ええ」

「1週間で100冊って凄いじゃない。速読でもやってるの?」

 別に凄くはないし速読もやってはいない。阿久津の本に書かれている内容は、読者への甘い言葉、過去の武勇伝、もっともらしいが根拠のない理屈、世間への悪口、それだけしかないからだ。読んだところで全くためにならないと見極めがつけば100冊だって1万冊だって読むのはたやすい、というのは言い過ぎだが、正岡が思っているほど難しくはないのは確かである。感心するのは勝手なのであえて説明はしない。

「この後は潜入捜査になるわけだね」

「そんな大袈裟おおげさなものではありませんが、実際にワークショップに参加していろいろ調べてきます」

「君は専ら資料にあたっているから、いつも実地で調べるわけではないんでしょ」

「それはその通りです。でも、“しない”のと“できない”とでは全く違いますから、どうぞご安心を」

 正岡が足を組み替える。

「いいね。珍しく君のプロとしての矜持きょうじが感じられる言葉が聞けて安心したよ」

 人をめるときに必ずからかいをブレンドするのはこの老人の癖なのだろうか。

「ご婦人のお悩みは別にしても阿久津というのはいよいよ興味深いね。小栗栖おぐるすよりも闇が深そうだ」

 老人は実に楽しげである。テレビに出てはいても実はお茶の間に大して影響力があるわけでもない評論家の何がそんなに興味をかきたてるのか、と思っているとテレパシーでもあるのか返事をされた。

「僕はもうおちんちんがピクリともしなくなってしまってねえ」

 一体何を言い出すんだ爺さん、という表情をした私を見て正岡は、そう来るのは分かっていたよ、と相手の次の次の次の手まで読み切ったチェスの名人のように自信ありげに頷いた。そんな風に気取ったところで話が下劣げれつ極まりないのは何ら変わらない。

「歯が悪いから肉も食えない。朝は3時に目が覚めてしまう。家族はいない。金はあっても集めたいものがあるわけじゃない。そうなると、不思議と人間にしか興味が無くなる。世の中のみんながどのように動いているのか、それだけが気になるのさ」

 そう言った正岡は年相応にあるいはそれ以上に老けて見えたが、おそらく本当は人間にも世の中にも興味などなく、無理に興味があるふりをしているのではないだろうか。いずれにしても、私が今の正岡の年齢に達するまであと40年もの月日を要し、それほどの懸隔けんかくを埋めるほど深く同情を寄せるのは偽善ではないかと感じられてならなかった。

「それにしても面白いねえ、このマグニってところは。この人たちの生き方には勢いがあっていいよ」

 打ち明け話のせいで漂い出した暗い雰囲気を振り払うように正岡が大きく声を張り上げた。

「作品をごらんになったことは?」

「ないけど、才能だけはある貧しい若者たちが一から何かを作り上げていく物語はみんな大好きじゃない。明治維新めいじいしんもそう、トキワ荘もそう」

「漫画をお読みになるとは知りませんでした」

「確か君は読まないんだったね。でも僕も読むのは手塚治虫てづかおさむ唐沢からさわなをきだけだよ」

 手塚は私でももちろん知っているが、唐沢という名前にも聞き覚えがある。確かどこかの新聞の夕刊で4コマ漫画を連載していたのではなかったか。

「そういう若者たちの伝説みたいなやつで、僕が一番好きなのはなんといってもヌーベルヴァーグだよ。ちょうど20歳くらいで観たから、すっかり熱を上げてしまったものさ。特にカメラワークが斬新で感激したよ」

「ラウル・クタールやアンリ・ドカですか」

 正岡の目の中に光が走ったのを見て自分の失策に気が付いた。この老人に趣味の話をしてはいけないことをうっかり忘れてしまっていた。

「なんだ。君はその辺の映画にも詳しいのか。それならもっと早く言ってくれればよかったんだよ」

 それから夕方まで思い出話に付き合わされる羽目になった。はからずも所長の言ったとおりになったわけだが、昨日のジュンローといい、2日続けて一体何の罰なのだろう。自分から話題を振るのにりた私は、クロード・シャブロルの遺作を観た話くらいしかしなかったが、性欲も食欲も失ったと嘆いていた老人の気が紛れたのであれば、善行ぜんこうを積んだと言っていいのかもしれない。

 正岡とジュンローを一緒に会わせたら、おしゃべり同士が相討ちになって私の気も休まるのかもしれないが、蟲毒こどくのように生き残った方が世界最悪のおしゃべりになる可能性もあるので、やはり会わせない方がいい。駅へ戻る道でそんな取り留めのない考えにとらわれていたせいか、帰りは逆方向の電車に乗ってしまっただけでなく居眠りまでしてしまい、相模大野さがみおおのから引き返さなくてはならなくなった。家に着いた頃には料理を作る気力もなくなっていて、電子ジャーの中で固くなりかけていたご飯と依頼人からお礼に貰ったちりめん山椒ざんしょうだけで晩飯を済ませながら、PCで都内のシネコンのスケジュールをチェックしているうちに、まだ早いと思って自重していた阿久津のワークショップへの参加をついついメールで申し込んでしまったのは、体だけでなく頭まで疲れ切ってしまっていたせいなのかもしれなかった。

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