第5話
日曜の夕方に上りの電車に乗った私の心は奇妙に浮き立ち、人も
昼過ぎに私はジュンローに電話をかけて、阿久津の知り合いにアポを取るように頼んだ。前にある通り、世間に出回っている資料だけでも十分に調べ上げることはできるのだが、私の調査した結果を関係者に確認してもらって裏が取れるのならばそれに越したことはない。絵に描かれた龍の輝く瞳とは行かないまでも、カレールーの中のひとかけらのチョコレートになってくれれば十分だ。
するとジュンローが、せっかくだから久しぶりに会って飯でも食いませんか、俺が奢りますから、と言ってきた。ジュンローは実に扱いに困る男で、奢りだからといって軽々しく出かけるのも
ドアのガラスに「
「ソリガチさん、はろはろー」
この挨拶を耳にするのは久しぶりだが、場所柄をわきまえずに大声を出すのも相変わらずで、他の客の視線が集まるのを感じながら2人のいる席まで小走りで行き、ジュンローの真向かいに座る。
「なんでスーツなんスか?」
青地に白いドクロのマークが染め抜かれたニット帽をかぶった青年が挨拶も抜きにいきなり訊いてきた。瘦せこけた浅黒い顔に似合わない口髭を生やしていて、太い黒縁眼鏡の奥にはカミソリで裂いたような細い目が2つただあるだけだ。あなんもこの男とまだ付き合っているからここに来ているのだろうが、一体どこに惹かれたのだろうかといつも首を捻らざるを得ない。
「今日は日曜スよ」
「一応仕事の話で来ているわけだから。それより」
あなんの方に向かって軽く手を振り上げた。
「どうして一緒に?」
「いや、俺もどうかと思ったんスけど、こいつもソリガチさんに会いたいって言うから。マズかったスか?」
女の子が私に会いたいと言って来てくれたのなら文句を言うのも野暮だ。少し心配そうにしたあなんにむしろ嬉しいと本音を言って、生ビールを中ジョッキで注文した。帰ってからもう一度
「ちょっと聞いてくださいよ」
ちょっとどころかそれから1時間あまりジュンローはしゃべり通しだった。だから彼と食事をするのは考え物なのだが、それを分かっていながら
小泉潤郎と知り合ったのは私がまだフリーで調査をしていた頃のことで、リサーチに人手が必要になって、まだ大学生だったジュンローを臨時のアルバイトで雇ったのだが、初対面では自信ありげな口ぶりだったのにいざ実際の調査になるとイージーミスを繰り返していた彼がとうとう「もうやめたい」と泣きだしたのを
ジュンローはインターネットでプレイできるゲームに最近ハマっているという話だけをひたすらし続けた。そのゲームは「
「ほら、新作。見てみてー」
あなんがスマホを差し出してきた。彼女もジュンローの話を適当に受け流していたのだが、「そうだね」「ジュンくん凄い」と心のこもらない
「昔のアニメを観てたらやりたくなっちゃって」
あなんにはコスプレ趣味があって、着るだけでなく自分で衣装も作っているそうだ。以前にも何度かその手の写真を見せられているが、今日見せられたのはかなりおとなしいもので、髪はピンクではないし羽根を生やしてもいない。20代半ばになってもまだ何処か顔に幼さの残る彼女が制服を着るとコスプレにつきまとう不自然さもなしにその辺を歩いている女子高校生に見えてしまうのだが、これでも普段は
「ジュンくんが今度引っ越すから、そろそろ一緒に暮らそうって言ってくれてるんだけど、まだうちを離れたくないから、どうしようかなあって思ってて」
ジュンローとあなんが付き合いだしてもうすぐ2年半になるだろうか。毎年夏と冬に開催されるマンガの大型イベントにコスプレをして何度か参加していたあなんが、素人カメラマンに囲まれていたところに、ジュンローが取材と称して話しかけたのが交際のきっかけだったという。最初はかわいいと思って近づいたら話しているうちに中身はもっとかわいいと思ってメロメロになった、と付き合い始めの頃にジュンローにのろけられて
「僕に会いたがってるってジュンローが言ってたけど、何か用事でもあった? 調べものなら何かできるかもしれないけど」
「あー、話したいことがあった気もしたけど忘れちゃったみたい」
気まずかったのか、セミロングの栗色の髪に白い指が滑りこんでいったのが見えた。
「でも私、ソリガチさんが好きだから、何もなくても会いたかったんだけど」
「好きって、どの辺が?」
「顔」
そう言って首を
「すんません。ソルティドッグおかわり」
ジュンローが肩で息をしながら通りがかった店員にタンブラーを差し出していた。スマホで確認すると彼がしゃべりだしてもう1時間半近くになっていた。それだけの時間猛烈に話し続ければ体力を使い果たすのも当然だ。
「もういいのかい?」
皮肉めいた響きを隠しきれない私の問いかけに返事もできないジュンローの顔をあなんがおしぼりで拭ってあげている。さっきそれでテーブルにこぼれたレモンサワーを拭いていたのは見なかったことにしておく。やがて青年は蚊の鳴くようなか細い声で話し出した。
「阿久津さんスよね」
まだ息が荒いが、あんなに話した後でも用件を覚えていたことに少し驚く。それなら体力のあるうちに話をすればよかったと思うのだが、そこに考えが至らないのが私のよく知るジュンロー持ち前の
「頼んだ件はいけそう?」
「それは問題ないス。忙しい人だからすぐというわけにはいかないかも知れないスけど」
別に急ぐ話でもないからそれならそれで構わなかった。仕事ができない男ではないので任せて心配はないはずだが、そこでジュンローも過去に阿久津と仕事をしたことがあったのを思い出したので、その時の印象を聞いてみることにした。
「いや、俺なんか全然ペーペーもいいとこスから。あの人は雲の上の人スよ」
「そんなに凄い人なんだ、阿久津さんって」
「オーラが凄いんスよ。近寄りがたいというか近寄りたくないというか」
ようやく息が整ってきたのはよかったが、その言い方だと阿久津が他人から嫌われているようで語弊がある。ジュンローとだけ話しているのでほったらかしにされたあなんが心配になったが、
「私もその人知ってる。美しすぎて逮捕されたんでしょ?」
さすがに捕まってはいないが、一人でも楽しそうにしているので気にしなくても大丈夫だろう。話に戻る。
「オーラは分かったけど、近くで仕事を見ていて、ここが凄い! って思ったところはなかった?」
そう言われるとジュンローは考え込んでしまった。いつも反応の速い青年にしては珍しい。
「どこが凄いかはうまく言えないんスけど、とにかく凄いんスよ。凄いとしか言いようがないス」
「仕事の手が早いとか、アドバイスがためになったとか、そういうことはなかった?」
「ないスね」
「じゃあ、嫌な役目を進んで引き受けたとか、みんなのやる気が出るように気配りをしたとか、そういうことはしていなかった?」
「それは全くなかったス」
だんだん怖くなってきた。凄いから凄い、理由はないけど凄い、ではもはや宗教だ。
「ジュンローはマグニのファンだったよね?」
「それはもう。“ガブ”より“キタン”派スね。一番好きなのは“サンエイケツ”スけど」
つまり、マグニの作品では「名探偵ガブリエル」よりも「
「それでさ、阿久津さんがマグニにいた頃に何をやってたか分かる?」
「何って、あの人は社長だったじゃないスか」
「いや、具体的に何をやっていたかが知りたいんだよ。僕もあれこれ調べたけど、阿久津さんが作品にどんな形で
またジュンローは黙り込んでしまった。困らせたいわけではないので私としても心苦しい。しばらくして、そう言われてみると、とやっと絞り出すように呟いた。
「俺にもよく分かんないスねえ。でも、阿久津さんが“あの頃の俺は凄かった”って自分でよく言ってるし、仲間の
完全に迷宮入りである。アリアドネも助けてくれそうにない。
「
「俺もマグニのこと聞きたくてウズウズしてるんスけど、タイミングが合わなくてなかなか切り出せないんスよ」
ならば自分で話を聞いてみるしかないのだろう。問い詰めるようなかたちになってしまったのをジュンローに詫びて、私はウーロン茶のおかわりとじゃがバタチーズを頼んだ。どの店員も黒のTシャツにエプロンを着用しているので、店名の意味がいよいよ理解不能である。
「阿久津さん。あの人は絶対に凄い人なんスけど、どこが凄いのかよく分かんないスね」
まだ頭を切り替えることができていないジュンローの言葉を耳にしたあなんが、テーブルに
「ほんと。わけわかんない」
それから30分後に「居食屋 か~でぃがんず」を後にした私たち3人は、高円寺の駅前まで戻って終電近くまでカラオケをすることになった。ジュンローは早歩きでさっさと先に行ってしまったが、あなんは金の鈴が鳴るような笑い声をあげながら街灯があってもまだ薄暗い夜道でくるくる回ったり路肩に片足で飛び乗ったりしている。普通の人なら酔っていると判断するところだが、この
「ソリガチさーん」
突然私めがけて走ってきたあなんが勢い余って頭からぶつかってきた。かすかに漂う花の香りはフレグランスかそれとも彼女自身のものなのか。
「危ないなあもう」
「僕のせいみたいに言わないでくれ。
濃い緑と紫のボーダーのワンピースを見てそう言ったのだが、意味が通じなかったようで、あなんはビーグル犬のような眼でこちらを見上げている。分かりづらいジョークを言った私が悪い。
「あ、思い出した」
2歩、3歩と前方に大きく跳ねてからあなんが私の方を振り返った。
「ソリガチさんはゴトウさんと同じところで働いてるんだね」
「誰だって?」
「ゴトウさんも、ユニバーサル貿易だった? そこで働いてるって、この前分かってビックリしちゃった」
そこまで言われて、あなんの言う「ゴトウさん」が何者かやっと分かった。
「ゴトウさんって、うちの会社で調査員をやっている
「そうそう。護島さんきれいだから、友達になれて私嬉しくって」
そう言うと、あなんは右足を軸に180度ターンして恋人であるジュンローのもとへと駆けていった。
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