第4話

 阿久津世紀あくつせいきは、現在コラムの連載を週刊誌で1つ月刊誌で2つ担当しているほかに、一般紙で週1回ニュースの解説を担当していて、本人の顔写真が表紙に載った著書も3か月おきに出版されている。また、ワイドショーや討論バラエティにもコメンテーターとして数多く出演し、東京だけでなく大阪と北海道でもレギュラー番組を抱えている、売れっ子の部類に入る評論家である。しかし、テレビや雑誌でよく見かけるとはいっても、そもそも彼がどのような素性の人間であるかを知る人はさほど多くないのではないか。


 話は35年前にさかのぼる。名古屋にある大手のアート系の専門学校に創作意欲に燃える6人の若者がいた。学校を順調に卒業すればテレビ、映画、音楽制作といった業界への道が待っていたのだが、彼らはそれに飽き足らず入学して間もない頃からさまざまな表現活動を精力的に行っていた。短編映画の撮影、路上でのゲリラライブ、小さなライブハウスを借り切ってのパフォーマンス、そのようなジャンルにとらわれない多岐にわたる活動を繰り返し、そのうちにファンもつくようになったのだが、学業期間が折り返しを過ぎ卒業も現実味を帯びてくると、もっと多くの人たちに自分たちの活動を見て欲しい、という欲望に駆られるようになった。とはいえ、インターネットのなかった時代でもあったので気軽に発表できる媒体もなく、いつの時代にもあてはまることとして若者たちにはカネがなく製作費用をやりくりする手立てもなかった。6人は行き詰まった。

 そこで登場したのが当時20歳になったばかりの阿久津世紀である。彼は6人とは違って愛知県内の私立大学に通っていたのだが、たまたま6人の中のリーダー格だった加瀬かせと面識があって、それで彼らの苦境を知ったらしい。加瀬に紹介されて阿久津と初めて会った時の印象をメンバーの一人でギターを得意にしていた小川おがわは「『オバケのQ太郎』のハカセそっくりだった」と語っている。要するに、小さく細い体の上に鉢の大きな頭が乗っかったいかにも秀才タイプに見える男だったということらしい。阿久津は加瀬以外とは初対面だったが全く物怖じすることなく、自分がいかに彼らの作品に惹かれているかを打ち明けたうえで、東京で活躍する業界の大物と気軽に語り合える仲であることや、誰もが知るヒット作の制作に関わり名前こそ出ていないが重要な役割を果たしていることを滔滔とうとうと語り、そして名古屋のテレビ局にもコネクションがあるからぜひ紹介させて欲しいし、スポンサーになってくれそうな人にも心当たりがある、と協力を持ちかけた。だいぶ後になって阿久津以外の6人はあまりにも話がうますぎたことに不審を抱くようになるのだが、その時点では願ってもないチャンスの到来に興奮するばかりで冷静に考える余裕もなく、阿久津の申し出に一も二もなく飛びついたのであった。こうして6人は7人になった。


 阿久津の申し出から1か月後に早くも地元のテレビ局から番組制作を手伝って欲しいという依頼が来た。日曜深夜の放送終了までの15分間を埋める必要があって、製作費は出せないが半年間は好きなようにやってくれて構わない、とプロデューサーから告げられたという。金の無さを補って余りある情熱と体力があった7人が短期間で作ったのが「あにまる・ふぁ~む」という番組である。彼らが自らブタやゾウやウサギといった着ぐるみを身に纏い、手作り感あふれる草原のセットの中でユーモラスな掛け合いを繰り広げる内容で、一見よくある幼児向けの教育番組のように思える。しかし、そこでの動物たちの会話ときたら風刺、性的なジョーク、内輪ネタを織り交ぜた放送コードスレスレのきわどいもので、現在でも動画サイトにアップロードされたものを見ることができるのだが、今よりも規制が緩かったとはいえよくもこれが通ったと思わざるを得ない。いや、正確に言えば通らなかった。深夜番組であるおかげで彼らのやりたい放題も見逃がされている部分もあったのだが、阿久津によると幸か不幸か回を追うごとに注目されるようになり、テレビ局に抗議が殺到して3か月で打ち切りが決まってしまったという。実際には抗議は3、4件あっただけで「殺到」というのは明らかに盛りすぎなのだが、阿久津の回想にはこのように事実をオーバーに脚色した点が珍しくない。局の偉い人の奥さんが夜中に目が覚めて番組をたまたま見かけて卒倒しかけたのが打ち切りの本当の原因らしい。

 打ち切りが決まって急遽最終回を作ることになったのだが、そこで彼ら7人はいたずら心を出したというべきか自暴自棄になったというべきか、最終回ではなんと動物たちが日本刀やチェーンソーで殺し合いを繰り広げたあげくに全滅し、ラストでは原っぱにバラバラになった血まみれの死体―もちろん抜け殻になった着ぐるみに血糊をぶちまけたものである―が転がっている、というスプラッター映画さながらの凄惨な風景が残されているだけだった。その後彼らがテレビ局の重役や局から強硬な抗議を受けた専門学校の教師たちから説教されたのは言うまでもない。他の生徒の就職にも関わってくるから学校としても無視はできなかったのだろう。とはいえ、今までにない大きな舞台でやりたいことをやれた、という充実感の方が彼らにとって大きかったようだ。


 それからしばらくの間、充実の後の虚脱感に襲われていた彼らを番組のプロデューサーが呼び出した。また叱られるのか、と緊張して出かけていくと、それどころか今度は1時間のスペシャル番組を作って欲しいと頼まれた。聞けばテレビ局でも上層部が怒っている反面、現場の方では「若いのに度胸がある」と意気込みを買う人が多く、さらには名古屋まで営業に来ていた在京の人気タレントが偶然最終回を観て驚愕し、「名古屋で凄いものを見た」と全国ネットのラジオ番組で紹介したおかげで、テレビ局まで東京から取材が来たのだという。そういった反響を受けてもう一度彼らにチャンスを与えてみよう、という話になったとのことだった。

 若者たちにとっては嬉しい話である一方で難しい話でもあった。15分の番組はなんとか誤魔化し誤魔化しやってみたが、1時間の番組ともなればもはや彼ら7人だけでやれるものではなく金も労力も大いに必要になる。それに彼らはまだ学生の身であり卒業制作も控えている。生半可な気持ちではできるものではない、とメンバーたちはその場での返事を避けた。阿久津ひとりだけはすっかり乗り気になり、「こんないい話めったにないんだぜ」と他の6人に向かってわめき散らしたが、彼らの躊躇いを吹き飛ばすことはできなかった。

 それから1週間も経たないうちに阿久津が専門学校までやってきた。今までになかったことに他の6人が驚いていると、阿久津は「会社を作ろう」とさらに驚くべきことを言ってきた。そうすればもはや素人ではなくプロとして仕事をやれるのだと。そして、最後にして最大の驚きはそのために阿久津は大学を辞めてきた、ということだった。見た目通り頭でっかちで損得勘定にシビアな阿久津の思いもよらない行動に、そこまで覚悟があったのか、と他の6人は胸を打たれた。ひとりだけに無茶をさせられない、と友情と義侠心に駆られた彼らは全員で阿久津とともに行動することを決め、卒業を諦めることにしたのだが、阿久津が大学に通ったのは入学してからほんの数日だけで、単位不足で留年を繰り返して除籍間近だったことをこれもやはりだいぶ後になって知ったメンバーは皆「だまされた」という思いを禁じ得なかったという。


 会社の名前は「マグニ」になった。『荒野の七人』、“Magnificent Seven”からとったもので、彼らが生まれる前に作られた映画に特別に思い入れがあったというわけではなく、単純に7人で作る会社だったからこの社名になっただけのことらしい。社長には阿久津が就任することになった。「最初に会社を作ろうと言い出した手前、いざという時に自分が責任を取れる立場になった方がいい」と阿久津が自分から言い出して、他の6人もそれを了承した。それまで創作活動しかしてこなかった若者たちには会社の設立など途方もなく難しく思えたのだが、阿久津が連れてきた法律のプロを称する男たちによって、いとも簡単に手続きは完了した。それまで上下関係のなかった彼らの間に形の上であっても身分の違いが生じたことで、7人の間に後々微妙な影を落とすこととなるのだが、ひとまずは依頼された1時間番組の制作を第一に考えなければならなかった。

 彼ら7人にはみんなアニメや特撮が好き、という共通点があった。中学高校になってもその手のジャンルを愛好する人は少なく、自分一人の趣味としてひそかに楽しんできたのが、専門学校に入って同好の士を見つけて大いに盛り上がったのが、阿久津以外の6人が結束したきっかけになっている。それで1時間の特撮番組を作ろう、という話になった。アニメーションも学校にいた頃に短時間のものを作ったことがあるが、1時間もの作品を仕上げるのはいろいろな面で無理がある、と彼ら自身にも分かっていて、それに比べれば特撮のヒーロー物ならハードルが少しは低かった。メンバーの中でも一番の特撮マニアである熊野くまのは高校の文化祭で着ぐるみの怪獣が暴れまわる映画を制作し、浪人生の時分には東京で巨大ヒーロー物の撮影現場で下働きをした経験もあって、いくらかノウハウを知っているつもりだった。テレビ局に企画も認められて、マグニの初仕事はスタートした。


 「戦国戦隊せんごくせんたいサンエイケツ」が放送されたのは、それから1年3か月後のことだった。実際には10か月でほぼ完成したのだが、依頼した時点から半年後の放送を計算していたプロデューサーに「枠に空きがない」と難色を示され、さらに出来上がった作品の尺が足りなかったこともあって、危うくお蔵入りになるのを辛うじて放送にこぎつけたのである。マグニの7人は制作の中で自らの実力の無さをとことん痛感させられていた。低予算とスタッフ不足からストーリーを担当した加瀬は何度も脚本の書き直しを余儀なくされ、撮影をめぐって阿久津と演出を担当する恵比寿えびすが衝突し一時は喧嘩別れ寸前にまでなり、特殊技術担当の熊野が現場で倒れ病院に搬送されるなど、地獄を見ることになった。しかしながら、専門学校の同級生やテレビ局のスタッフさらには熊野の知り合いの特撮関係者の助けもあって、クオリティはひとまず満足すべき水準に達した。その一方で、作品の出来上がりにこだわったせいで制作予算は大幅に超過し、マグニには多額の借金が残されたが、音楽を担当していた小川が副社長に就任して資金繰りに奔走したこともあって、それでも可能な限り低く抑えられたものだった。番組自体は日本滅亡をもくろむ悪の組織BBQにウツケレッド、サルブルー、タヌキイエローの3人のヒーローが立ち向かうストーリーが高く評価されるとともに、必殺技の「ホトトギスアタック」「天下餅ストーム」の演出効果は目を見張るもので、目の肥えた特撮マニアの度肝を抜くものだった。ハリウッドからも絶賛された、というのは阿久津しか語っていないことなので真偽はかなり怪しいが、苦労の甲斐あってマグニがクリエイターとして認められる存在になったことは確かである。


 その後しばらくマグニは「サンエイケツ」の制作で背負った借金を返済するために、外部から発注された仕事をこなしていくことになった。7人揃ってではなくメンバー個人で仕事を引き受けることも多くなり、加瀬が名古屋で留守を守る一方で、恵比寿と熊野は東京まで映画やドラマの撮影の手伝いに行き、絵心のある三輪みわがやはり東京でアニメ制作に参加し、「サンエイケツ」でサルブルーを演じたさかいにはルックスの良さを買われ役者としてのオファーが相次いだ。ひとまず経営に専念することにした小川は新たなスポンサー探しに苦心していたが、阿久津といえば突然1か月ほど渡米して老舗しにせのレコード会社と提携しようとして結局断念したり、食品開発に乗り出して宇宙食を販売しようとしてこれもやはり断念したり、会社を助けようとしているのか気儘きままに振る舞っているだけなのか、判断に困る行動ばかりをとっていた。

 そんな厳しい状況の中でも彼らは自らの企画を実現することを忘れてはいなかった。下積みを経なかった彼らは良くも悪くもアマチュアっぽさ、素人臭さが抜けず、いわゆるお約束に安住するのを嫌って掟破りを仕掛け、観客の予想を裏切る展開を常に用意する、そんな作風を支持する熱心なファンが徐々に数を増しつつあった。この時期にマグニが自ら企画製作した作品として、粘土人形がアニメーションで文字通りドロドロの愛憎劇を繰り広げる「愛していると言ってクレイ!!」、地元の偉人の生涯をミュージカルとして描いた「SAKICHI・その愛」、幻の名古屋五輪が開催されたパラレルワールドを描いたSF映画「オリンピア1988」などが主に挙げられる。また、三輪が監督を務めたマグニ初の長編アニメ「いんたーすてらー☆おーばーどらいぶ」は言葉をしゃべるおんぼろ宇宙船に乗った少女が母親を探すために宇宙の果てまで旅をする物語を緻密な科学考証のもとに描いたハードSFとして、オリジナルビデオ作品としては異例の売り上げを記録し、それで得た予想外の収入で、「サンエイケツ」で背負った借金をようやく返し終えたという。


 そんな具合で、会社の運営に少し余裕を持てるようになった時期に、東京のテレビ局から来たオファーによってマグニに大きな変化が訪れる。例によって東京で雇われ仕事をしていた熊野が持ってきた話で、知り合いのプロデューサーから『指輪物語ゆびわものがたり』を1クールのドラマにしたいのだが大手のプロダクションからは皆断られて困っているのだという。ファンタジーの名作中の名作を日本で翻案ほんあんするのは快挙と言えるが、長大な作品を1時間のドラマ12本にまとめるのは暴挙と言うべきで、断るのが当然なのだがマグニのメンバーがそういった仕事こそやってみたくなる厄介な性分の持ち主の集まりだったおかげでうかうかと引き受けてしまったのだった。しかし、企画が進行していくうちに名古屋を離れて東京のスタジオで長期間撮影をしなければならないということが分かってきて、これに猛反対したのが阿久津だった。東京と大阪、二つの巨大な文化圏に立ち向かってこれまでやってきたのに、今更東京で仕事をするのは自分らしさを失うことだ、そもそも東京の連中はこちらを下に見ている、と持ち前の弁舌で論じ立てた。これに対して「それでもやってみたい」と主張したのが恵比寿で、それまで「自分にはこの仕事しかないから」と自己主張をあまりしなかった彼が強硬な態度を見せたことに阿久津を含めた他のメンバーは驚き、とうとう「ダメなら会社を辞める」とまで言い出した恵比寿の気迫に呑まれるかたちで、マグニは東京でのドラマ制作に乗り出すことになった。

 いくつもの紆余曲折を経た末に『指輪物語』を和風に翻案した「指輪綺譚ゆびわきたん」全12話がテレビで深夜に放映されたのはそれから2年後になるが、原作の骨子だけを残して美少女や巨大ロボットといったオリジナル要素をふんだんに取り入れつつ映像美を追求した賛否両論を呼ぶ作品となった。それまでのマグニでは、7人全員の話しあいで企画が進行しながらも、最終的には社長である阿久津が決定権を持つという制作の流れだったのだが、今回に限っては滑り出しから完成まで恵比寿が一貫して主導するかたちになり、番組にプロデューサーとして名を連ねた阿久津が「これはマグニではなく恵比寿くん個人の作品」と言ったのは、それがたとえ皮肉であったとしても事実認識としておおむね正確なものであった。


 阿久津と恵比寿は「指輪綺譚」の制作が本格的に始まったあたりからお互い口も利かぬようになり、それは放送が終了した後も変わらなかった。他のメンバーには恵比寿が阿久津を嫌うようになった理由がよく分かっていた。東京で仕事を多くこなしているうちに恵比寿は阿久津が信用できなくなってしまったのだ。ツーカーの仲だと言っていた大物プロデューサーに「うちの阿久津がいつもお世話になっています」と挨拶をしたら彼はアクツセイキの名前すら知らず、何度も面白おかしく語っていた有名作品の制作秘話を真に受けて食事の席で披露したらまるで根も葉もない話だと実際にその作品に参加した人に笑われたこともあったという。「恥かいちゃいましたよ」と恵比寿がぼやいているのを加瀬と三輪は耳にしている。もっとも、恵比寿以外の他のメンバーもみな阿久津の嘘やハッタリには薄々気づきながらも「ずっと一緒にやってきた仲間だから」と大目に見ていたのだが、仕事の上でも何度か出まかせを言われてスケジュールに支障をきたしたことで根っからの仕事人間の恵比寿はとうとう我慢ができなくなったようだった。


 そんな状況の中、東京のテレビ局に加瀬が提出していた企画が通ったことでマグニの淀んだ雰囲気は一変する。15年以上プライムタイムで放映されていた人気グルメバラエティが終了した後にドラマの枠を新設し、マンガや小説の原作に頼らないオリジナルの作品を放映しようと各プロダクションに企画を提出させてコンペを行った結果、加瀬の企画が通ったのだという。勝手なことを、と話を聞かされていなかった阿久津は激怒したのだが、そもそも阿久津と恵比寿が喧嘩していたおかげで7人全員で話をすることもできなかったのだから、怒るのはお門違いでもあった。もっとも、企画の採用には、お笑い番組の罰ゲームで芸人顔負けのリアクションを見せて人気が出ていた堺を主演で起用することと、恵比寿をメインの演出で参加させること、以上二つの条件が課されていて、それを聞いた阿久津は会議の場から無言で去っていったという。

 「名探偵ガブリエル」は推理小説の長年のファンである加瀬の念願の企画で、今までにない本格的なミステリーにしようと意気込んでいたのだが、企画が進行するうちにだんだんと前衛的になってきて、孤島の屋敷での密室殺人、仮面の怪盗の追跡、ハードボイルド、安楽椅子探偵、心理サスペンス、艶笑劇えんしょうげき、スラプスティック、ポリティカルスリラー、お涙頂戴、タイムスリップ、悪魔祓いなどと連続ドラマでありながら回によってまったく作風の異なるまとまりのないものになってしまい、後年「ガブリエル」生みの親として紹介されることも多い加瀬は「あれは俺のやりたかったことと違う」とむしろ困惑しているようである。加瀬の意図から外れてしまったのは、恵比寿が演出にこだわりぬいたこともその一因で、テレビ局の若いプロデューサーはそれを抑えるどころか逆にけしかける側に回り、最初の2話でシリーズ全体の予算を使い切ってしまったあたりにいかに計算を度外視していたかが窺える。そして最終回での恵比寿の演出は暴走の域にまで達し、堺扮するガブリエルがこのドラマの世界はすべて作り物だという「トリック」を看破し、真犯人は神であると告発すると、スタジオを飛び出し渋谷しぶやの街を走り抜けた後、ハチ公前交差点の雑踏の中で突然の死を遂げる様子が激しく揺れるハンディカメラで収められそのまま終了している。もちろん事前の許可を取らないゲリラ撮影である。こんな無茶をやったにもかかわらず視聴率はまるでふるわなかったのだが、一部の評論家が放送終了後から熱烈に支持しはじめ、視聴率が低かったことも「分かる人には分かる」、時間や予算をオーバーした杜撰ずさんな管理も「細部まで手を抜かずに作りこんだ」といった具合に前向きな捉え方に転換され、やがて若者向けの雑誌で特集が組まれるほどにまでなり、10年以上経過した今ではカルト作品としての地位を確立している。


 「ガブリエル」の放送終了から半年後、恵比寿はマグニを退社し、それと前後して阿久津も社長を退くとともに会社を去っている。恵比寿はすぐに東京に移り住み、「ガブリエル」で一緒に組んだプロデューサーと新たなプロダクションを起こし映画作りに乗り出したので、元の仲間たちも寂しくはあったがその再出発を前向きに受け止められたのだが、阿久津に関しては事情が違っていた。「指輪綺譚」の制作はおざなりでも手伝っていた阿久津だったが、「ガブリエル」への参加は完全に拒絶し、既に乗り出しつつあった当時技術革新が目覚ましかったコンピューターグラフィックスに目をつけた企画、全編CGのSF映画作りにのめりこんでいった。「マスター・ブラスター」と仮のタイトルがつけられたその映画は、伝説の光線銃ブラスター使いが宇宙を放浪する壮大な物語で、売れっ子のイラストレーターがデザインしたキャラクターが先行して公開されて期待を高めていた。しかし、実際のところ製作は遅々として進まず、ストーリーを担当する加瀬は脚本の手直しを何度も要求されていたが、阿久津の話が会うたびに違うのだから注文に応えるのは無理な話だった。CGのクオリティも劇場での公開に耐え得るレベルに達しないまま、「構想が膨らんできたから三部作にする」「日本より先に全米で公開する」などと阿久津の放言は止まらなかった。それだけでなく予算も膨らむ一方で、使い道の分からない多額の金が会社から消えていった。会社をこころみない阿久津に代わって実質的に経営を任されていた小川は阿久津の金遣いに関してそれまで大目に見てきてひそかに辻褄つじつまを合わせてもいたのだが、マグニの経営を圧迫するレベルになってはもはや見過ごすわけにはいかなかった。小川から事情を打ち明けられた阿久津と恵比寿を除いた設立メンバー一同は阿久津に社長を辞めてもらうよう説得することにしたのだが、その空気を察知したのか、阿久津は先回りして会社まで辞めてしまった。「マスター・ブラスター」の制作はよそで続ける、と阿久津は言っていたようだが、その後続報は聞かれないままである。


 それから3年後、ひそかに変名で手掛けていたアニメのノベライズの発売日に名古屋駅前の大きな書店まで足を運んだ加瀬は、レジ近くの特設台に阿久津の著書が平積みになっているのに驚いて思わず購入してしまった。驚いたあまり、自分の本をチェックするのを忘れていたことにはその日寝る直前まで気が付かなかったという。

 本のタイトルは「テレビを見れば神になる!」。その内容はテレビ番組制作の裏側をジョークと暴露話と体験談を交えて説明しつつ、テレビをただ見るのではなくほんの少しだけ阿久津が独自に開発したメソッドにのっとって見るようにすれば、IQも上がりお肌のノリも良くなりクラスや会社の人気者になっていいことずくめである、というものだった。加瀬が何人かの社員に聞いてみたところ誰も本の出版について連絡を受けていないということだった。

 本を読んだ5人になってしまった設立メンバーは皆「よくやるよ」と溜息を漏らした。本に巻かれたオビには「“名探偵ガブリエル”を作った伝説のプロダクションの社長が語る!」と書かれているが、阿久津は「ガブリエル」に参加していないので、噓とは言えなくても誤解を誘う書き方である。本文中でも阿久津は「ガブリエル」の制作秘話をまことしやかに語るなど、「ガブリエル」の人気を最大限に利用していて、事情を知る者としては複雑な感慨にとらわれても仕方のないことだった。「この本は売れるのだろうか」と加瀬たちは心配したが、その後阿久津の処女作はロングセラーとなり、雑誌にも好意的な書評が並び、性格に多少難はあっても一人でやれるだけの実力はあったのだろう、とそれまでの行き違いを措いてマグニの面々はかつての友人の評論家デビューを素直に祝福した。しかしさらにその後、マグニの新作に原作を提供することになった文壇きってのダンディとして知られる小説家から、阿久津には腕利きの編集者がついていて、処女作の出版にあたってかなり強力な根回しがされていた、と会議の場で聞かされて、一通りの話し合いが終わった後でメンバーは皆「よくやるよ」ともう一度溜息を漏らしたという。阿久津は何も変わってはいないようだった。


 以上が、阿久津が評論家になるまでのいきさつである。

 その後の阿久津の活動についてごく簡単にまとめると、テレビやラジオでは程々に面白いコメントをする一方で、自ら主催するトークイベントでは毒を吐いて人気作家やヒット作をこきおろして、マグニの元社長という肩書も手伝って業界のご意見番として一部では恐れられている。また、そのトークイベントがきっかけで小栗栖敏太おぐるすびんたとコンビを組むようになり、二人揃って毒舌で世相を斬るイベントを定期的に開催して多数の観客を集めていた。著書は共著を含めると100冊を超え、4年前には、食生活の改善、全身脱毛、エステ通いなどに自ら挑んだ経験をまとめた「ラクして罪なほど美しくなる方法」を出版し、体を張った甲斐もあって著書はベストセラーになり、「美しすぎる評論家」「美おやじ」と呼ばれてテレビでもひっぱりだこになった。

 そして、最近ではワークショップを主宰し、その公式サイトのトップにはクリエイター志望の若者や仕事をしながらでも表現活動に携わりたい社会人をアシストしたい、とウエーブのかかった前髪を額に垂らした上半身裸の阿久津が薔薇をくわえている姿をとらえたモノクロの写真が大きく掲載されている。

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