第2話

 3階と4階の間の踊り場の隅にはいつも水がたまっていて、うっかり踏んでしまったことが何度かある。駿河台するがだい交差点の立ち食い蕎麦屋で昼食を済ませた私はニュー小川ビルの入口でそれを思い出して、いつもより気を付けて階段を上がった。思い返すと朝も危うくスラックスを濡らすところだった。

 一番上の5階には私が勤める事務所と空き部屋があるだけである。事務所で働くようになってからというもの、その空き部屋の前に大量の段ボール箱が積まれていたのだが、1週間前に何の前触れもなくきれいさっぱりなくなっていた。誰が持ち去ったのかも知らないし、そもそも箱の中身が何であったのかも知らない。

「ただいま戻りました」

 事務所の中に入ると私以外のメンバーが揃って机に向かっていた。昼休みに食事をることに何の問題もないはずなのに、自分だけが食べていたとなるとなんとなく気まずくなるのが不思議だ。少し慌てて入り口に一番近い自分の席につこうとすると白石しらいしさんに呼ばれた。

「所長が話があるみたい」

 部屋の中央に6つの事務机が3対向かい合わせになっていて、我々ヒラの所員はそこで作業をするのだが、中古の机で仕事をするのは所長の威厳に関わるとでもいうのか、一人だけ別に窓の前にマホガニーのデスクを置き、黒革仕立てのリクライニングチェアに座っている。もっとも1畳ほどの広さの机を所長は持て余していて、左半分がきれいに整理整頓されている一方で、右半分はぽっかりとスペースができていて、デスクの前まで来た私の目には、机の表面に走る幾条いくすじもの深い傷跡が見て取れた。サバイバルナイフで傷つけたのか、大型の肉食獣が引っ搔きでもしたのか、そんな妄想をしてしまうほどの惨状である。

 顔を挙げて私を見るなり厚ぼったいまぶたの奥で黒飴のような瞳にほのかな光が宿やどった。

「いい仕立てだ。本場の香りがする」

 今着ているストライプのスーツは東京駅近くのデパートの歳末大売出しに出かけて3着5万円で手に入れた国産のものなのだが、真実を告げるわけにもいかず、軽く頭を下げておいた。

「正岡さんは元気だったかね。長く会ってないが」

「ええ、実に矍鑠かくしゃくたるものでした」

 使い方が合っているのかも分からない表現をうっかり口にしてしまったので、内心冷や汗をかく。

「彼はどこに住んでいたかな。確か世田谷せたがやの、小田急おだきゅうが走っている」

うめおかです」

 所長が満足そうに頷く。急行も止まらない駅の名前を聞いて嬉しそうにする人を見るのは初めてだ。

「東京の西の方はすっかりご無沙汰でなあ。正岡くんはわざわざスコットランドから屋敷を取り寄せて、日本まで船で運んでそして建て直して住んでいるというから、ぜひ一度見てみたいとは思っているのだが」

 白石さんが「へえ」と感心するのが後ろで聞こえるが、私としては「正岡さん」が「正岡くん」に変化している方が気になる。それに屋敷の話は正岡自身から何度も聞かされて胸焼けしていることもある。現地から家を解体して運んだおかげで普通に家を新築するよりも予算のけたがひとつ違ってしまったくだりなどは、本人よりもうまく説明できる自信があるくらいだ。

「まあ、そんなわけだから、正岡くんからの依頼は引き受けたらいい」

 今までの話にどんな「そんなわけ」があったのかさっぱり分からない。思わず胸の中のわだかまりを吐き出してしまった。

「私も調査をするつもりだったのですが、なにぶん正岡さんに関しては、前回の件で事務所にも迷惑をかけてしまったこともありますから」

 所長が丸く膨れた右掌みぎてを2回軽く振ったので、言葉を続けることができなかった。

「何度も言うようだが、それはもう気にしなくていい。過ぎた話にとらわれるのは百害あって一利もない。それに」

 ラグビーボールのような形の老体が深く沈んでリクライニングチェアが軋む。ブラインドをすりぬけたの光に照らされた私の髪が少しずつ熱を持ち始めていた。

「僕は今回の依頼が君に直接来た、というのが大事だと思っている。僕を介さずに、だ。正岡さんは君を気に入っているんだ」

 それはあまり有難くない話だとは思ったが、所長の締まりのない口元に浮かんだ笑みを見ると、皮肉を言うのははばかられた。それにまた「正岡さん」だ。

「では早速取り掛かることにします」

「後はおいおい正岡さんと相談しながらやりなさい。いちいち僕に報告することはない」

 所長が手元の書類を揃えだしたので、もう話は終わったのかと思って席に戻りかけると、

「ああ、そうそう。正岡さんの依頼も大事だが、君が今やっている仕事もきちんとやってくれないと困るぞ」

「それはもちろん。ちゃんとやります」

 背中に声をかけられたせいで若干食い気味で返事をしてしまった。

「わがユニバーサル貿易の経営はそれほど順調というわけでもないからな。各員一層奮励努力かくいんいっそうふんれいどりょくせよ、だ」

 甲高い声に鼓膜こまくを震わされるせいか、所長の言葉は他の人よりも長く頭に残るような気がする。

 ようやく緊張を解いて自分の椅子に腰掛けたが、2年以上勤めていても「ユニバーサル貿易」という名前にはいまだに慣れない。名前こそ大仰おおぎょうだが、やっていることは地味な調べものばかりである。普遍をうたいながら日本国外を対象とした仕事を手掛けたことは数えるほどしかない。名前負けもいいところで、社名を名乗って笑われるのも珍しくないが、最近はそんなことがあると少々腹が立つようになってきた。愛社精神が芽生えつつあるのだろうか。

 ノートを開いて仕事を始めるふりをしながら、どうでもいいことを考え続ける。さっき所長は経営が厳しいと言っていたが、それならさっさとこの事務所を引き払えばいいのだ。都心にオフィスを維持するだけでも馬鹿にならない費用と労力がかかるはずで、高齢の所長にとって相当な負担になっていることは確かである。それに加えて我々の仕事は必ずしもオフィスが要るわけではない。業務連絡は電話かメールで事足りるし、事務所にはそなけのPCパソコンはおろかファクシミリもコピー機もないので、作業をするのは自宅の方がむしろ適しているくらいで、この場所には存在意義がほとんどないと言ってもいい。白石さんとともにいちいち根拠を挙げてオフィスを処分すべきではないのか、と説得しようとしたのだが、

「ここが無くなったら寂しいじゃないか」

 との一言でやむなく引き下がったのは半年前のことである。引き払うことで事務所にかかっていた費用が浮いてわれわれ所員のふところに回るのではないか、という邪心が私の動機にあったことは否定できず、そんなせこい理由でよわい80を超えた老人に無理強いをすることは躊躇ためらわれた、というのが正直な感想である。もしくは私の邪心が中途半端だったとも言える。ただ、私と違って白石さんは所長の健康を本当に心配していたようで、「寂しい」と言われたことにショックを受けて、

「これからはなるべく所員みんなで集まるようにしましょう」

 と、毎週月曜日は所長を含めた全ての所員が事務所に来てフルタイムで仕事をするように提案し、所長も喜んでそれを採用したので、その時までは事前に連絡したうえで都合のいい時間に事務所まで行けば十分だったのが週に一度拘束される羽目になったのだから、とんだ藪蛇やぶへびというか自業自得と言うほかない。

 そして、今日は月曜である。事務所の中には現在のユニバーサル貿易の構成員、全部で5人が勢揃いしていた。所長は私との話で全精力を使い果たしたのか、黒革の椅子の中で居眠りを始め、月曜出勤のアイディアを出した白石さんは私の席から一番遠い対角線上にある席で蛍光ペンでコピーにチェックを入れている。わが事務所で唯一の非調査員である彼女の仕事は事務所のスケジュール管理および諸雑用と簡単な経理の担当である。簡単な、というのは本式の経理は所長が自ら厳重に管理しているからで、ユニバーサル貿易のカネの動きは私のようなヒラ所員には窺い知ることができない。どうも不気味なことで、頭脳の働きも定かではないように見える老人ひとりにまかせておいていいものだろうか、と白石さんに訊いたことがあるのだが、「所長さんは昔簿記ぼきをやっていたそうよ」と微妙にずれた答えが返ってきただけだった。

 カタカタカタ、と音がやけに響くのは、隣の席で額の広い痩せた男がノートパソコンのキーボードを一心不乱に叩いているからだ。森永もりながさんのことを私はほとんど知らない。度を越したと言いたくなるほどに無口で、声を聞いたことすら数えるくらいしかない。彼について知っているのは、私より長くこの事務所に勤めていること、前頭部が広く禿げ上がっているせいで実年齢よりも老けているように見えること、キャラクターに似合わないメタリックレッドのノートパソコンを使っていること、横浜の方から京浜東北線けいひんとうほくせんで通勤していること、去年の大掃除で天井から落ちてきた拳ほどもある埃のかたまりをアスベストと勘違いして気の毒なくらい脅えていたこと、それだけである。最初彼を年上だと思って「森永さん」と呼んでいたのだが、実はまだ30にもなっていない、と後で知ったものの、いい歳をして体育会系みたいに年上風を吹かせるのも嫌なので呼び方は変えていない。言葉こそ出さないが、こちらから頼めばちゃんと手伝いをしてくれるし、一緒にいて嫌な雰囲気でもないので、私としては不満はない。同僚でありながら彼とはメールのやりとりもしたことはないのだが、無口の反動でやたら饒舌じょうぜつな文章を書かれても嫌なので今後もそんな機会に恵まれなければいいと思う。できれば絵文字も使って欲しくない。そんな勝手な思い込みをするくらいに私は森永さんには好意を持っている。

 そして、残る一人が問題で、と考えたところで、

「ソリガチくん、みんなの予定を書いておいて」

 白石さんにメモ帳と真新しいマーカーを渡された。入口の脇に置かれたホワイトボードは1階の予備校からもらってきたもので、そこに所長以下全員のスケジュールを書くのは何故か私の役目になっていた。スケジュールを書き出す意味も何故なのかよく分からないが、全くの無駄とも言い切れないから、やれと言われればやるだけの話である。えーと、と声を出しつつメモを確認しながらボードにマーカーを走らせる。新品の癖に早くもインクがかすれ気味なのに苛立ちながら、長谷川、白石、森永、反勝そりがち、とそれぞれの予定を書いたところで彼女の声がした。

「ちょっといいですか」

 ああ、また怒られるのか、と反射的に思ってしまった。本人はそのつもりはないのだろうが、普段からナチュラルに怒っているように聞こえるのだ。それを言うと本格的に怒られるから絶対に言わないが。

 振り返るとはしばみ色のふたつの瞳が私をきつく見据みすえていた。やや太めの眉がひそめられ眉間に赤みがさしているので、彼女の怒りが本物だと分かった。いつもの月曜の例に漏れず、今日も護島ごとうさんに怒られてしまうようだ。

「うん、一体何?」

 来たる災難を最小限に抑えるべくできるだけにこやかに答えたつもりだが、それが余計に彼女の感情を害したらしく、瞳の中で渦がゆっくりと回りはじめたのが見える。

「前から言おうと思っていたんですけど」

 自分の言葉で感情を鎮めるどころか、かえって高ぶってしまったのが伝わってきた。自分からそして他人からもエネルギーを引き出すことができるのは実に効率的で、その行き場が私であることを除いては実に素晴らしい。彼女を怒らせないように気を配ってきたつもりだが、今週はいったいどんなミスをしてしまったのか。

「私の名前、間違えてます」

 告げられたのは実に意外な言葉だった。いや、そんなはずは、とホワイトボードを見る。「護島」と既に書かれているが、両方とも小学校で習う漢字である。間違えるわけがない。そう困惑していると、

「あら本当」

 白石さんが歩いてきて、ボードを指さした。

「ここ。こうじゃなくて、こう」

「護」だけを消してまた書き直した。それでもどこが違うのか分からない。

「ここはマタじゃないと。ソリガチくんでも間違えることがあるのねえ」

 やっと分かった。つまり、私は「護」のつくりの“又”を“夂”と間違えて書いてしまっていたのだ。これは護島さんが怒るのは当然だ。しかし、弁解するわけではないが、小学生の頃に「護」を漢字ドリルで何度も書いてきたし、テストでそれで一度もバツを食らった覚えはない。こんな単純ミスを見逃がしてきた教師や両親をはじめとした私の周囲の人々にも責任はあるのではないか。そんな風に責任転嫁してしまったり、結局しっかり弁解してしまっている自分の卑怯さにも嫌気がさした。とりあえず何をおいても彼女に謝らなければならない。

「いや、気づかなかったとはいえ大変失礼なことをしてしまって申し訳ない」

 護島さんは答えない。鋭い視線を下に落としていて、リノリウムを貫いて階下したの洋書専門の古本屋まで行ってしまいそうだ。加えて彼女の怒りは空気を通じて私へと伝導されてくる。何も反応が返ってこない気まずさに耐えかねた私は最悪の手段をとってしまった。最悪なのは分かっていてもそれしかやりようがなかったのだ。仮に戦場におもむくことがあればそうやって確実に無様ぶざまな死を遂げる自信がある、と自慢にもならない自慢をする。

「それにしても、パソコンやスマホばっかりいじっているからこんなミスをするのかな。やっぱり自分で字を書かないとダメなんだね」

 ははは、と唇から笑いが漏れると同時に彼女の瞳が再び私へと向けられた。渦は速さを増しおのずから光を放ちだしている。ああ、やっぱりね、と自嘲じちょうの念が胸を満たす。

「まったく。字もちゃんと書けないんですか」

 そう言い捨てて長い黒髪を揺らして護島さんは、私の二つ隣、森永さんの隣の席へと憤然ふんぜんと戻っていく。ああ、やっぱりね、ともう一度胸の中で呟く。どうしても気まずくなるとすぐにジョークや茶化しや薄ら笑いで逃げてしまう。それはよくない、と注意してくれた人、叱ってくれた人はいたのだが、結局こうやって同じことを繰り返している。そんな自分が嫌になるのにもう飽きている。

 「護島」と今度は間違いのないよう細心の注意を払ってホワイトボードに書くと席に戻り、思わずため息をつきながら腰を下ろす。森永さんのキーボードを叩くペースは全く変わらない。少しは気を使ってくれてもいいのに、と手前勝手なことを思ったが、もしかすると心の中で「ソリガチさんドンマイ!」くらいは応援してくれているのかもしれない。そう思っていた方が幸せなので、そういうことにしておく。

 それにしても、護島さんには本当によく怒られる。服装の乱れ、仕事の態度、書類の不備、電話の応対、掃除の仕方、歩き方、髪型、顔つき、何から何まで注意される。しかもその理由がことごとく私の落ち度なので逆ギレすることもできない。4月に事務所に入ったばかりの女の子―そう呼ぶとまた怒られそうだが―に言われ放題なのが情けない限りだ。ただ、怒られるのは仕方ないとしても、おかしなことを言うようだが、彼女は私を敵視しているとしか思えない。何より他のみんなにはちゃんと挨拶をするのに、何故か私だけ無視するのだ。あの無口な森永さんにも挨拶をしているのに、私にはしない。事務所に来た時点で彼女の私への好感度はマイナスからスタートしていたようで、まことに不可解である。いい年齢になっても、いやいい年齢になったからこそなのか、同僚に挨拶をスルーされるのは精神的にダメージを負うので、一刻も早く解決したいのだが、苗字を間違えるような人間は挨拶をされなくてもしょうがない。仲良くなりたい、とは言わないが、せめて普通に挨拶ができるようになりたい。アフリカマイマイだってもう少し立派な悩みを抱えていそうなものだが、私はいたって真剣である。

「あら、いけない」

 白石さんが立ち上がって私の席へとやってきた。

「大事なのを抜かしてた。これも書いておいて」

 再びメモを渡される。怒られたばかりなので、ホワイトボードまでの3メートル足らずがとても遠く感じられる。メモを見ると、所長が木曜日の19時から西新宿の都庁近くの会議場で開かれる動物愛護にまつわるシンポジウムで開会の辞を述べることになっているという。今リクライニングチェアの中で崩れるように眠りこけている老人にそんな大役を果たせるとも思えないが、何故か所長はイベントに招かれることが多く、先週も白山はくさんの東洋大学で行われたタガログ語普及のつどいにゲストとして参加していた。どんなイベントでも参加するので、顔が広いというよりも節操がないように感じられてしまう。

 マーカーを走らせていると背後に何か迫りくる気配があった。振り向く間もなく、護島さんがイレイザーを手に取って、私が書いたばかりの「動物愛護」を消して、ローヒールの音も高く足早に席へと戻っていく。後ろ姿しか見えないが、華奢きゃしゃな身体にまとった黒いブレザーが重たげに感じる。

 何が起こったのか、一瞬わけがわからなかったが、またしても「護」を間違えて書いてしまったことにすぐに気付いた。今度は自分の名前を間違えられなかったわけだが、私が注意を守らなかったせいで彼女の怒りに再び火がついたのだろう。

 白石さんは「やっちゃったね」と言いたげに苦笑いし、森永さんはキーボードで快調にビートを刻み、所長はいびきをかき出した。机に向かって何かの契約書のつづりを1ページずつ丁寧にめくっている護島さんに謝るタイミングを逸した私は「動物愛護」と力ない筆跡で書き直しながら、今度の土日に体調を崩せば来週は事務所に来なくて済むかも、と精神年齢の低下に拍車をかける一方だった。「護」を間違えて覚えた頃から何も成長していないのかもしれない。

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