ある調査員の日常-Researcher’s Tragicomedy-

ケンジ

第1話

 応接間に招かれて既に15分が経っていた。だが、主人の来る様子はなく、仕方なく私はソファにも座らずに手持ち無沙汰で部屋の様子を眺めることしかできずにいた。赤い絨毯は柔らかすぎて足を滑らせてしまいそうになる。毛足が長すぎるのだ。うっかり小銭でも落とそうものなら見つけるのにさぞかし苦労することだろう。

 何度目になるのか、部屋を見渡してみた。奥にあるチョコレート色の扉の向こうには書斎があって、そこに正岡まさおかもいるはずなのだが、私が来てからというもの何か変わった気配は感じられない。視線を転じると、向かいの窓から赤や黄の鮮やかな葉が8月下旬のに照らされているのが見える。正岡と最後に会った時に「今度は葉鶏頭はげいとうを植えたい」と言っていたから、たぶんあれがそうなのだろう。以前は剝き出しの地面の上に鉄製のロッカーとびかけた自転車が横倒しになっていただけの庭が様変わりしたものだ。

 両脇には硬そうな木材でできた本棚が並んでいる。背表紙に金色の文字がつづられた分厚ぶあつい本がぎっしりと詰まっていて、地震で倒れて下敷きになろうものなら間違いなく即死できることは請け合いだ。近頃私はそんなことをよく考えるようになった。

 振り返ると、廊下へとつながる扉の横に大きなバレリーナの絵が掛かっている。以前は小林清親こばやしきよちかの名所絵が掛けられていたのに代わって、ピルエット、片足立ちの少女が壁一面を覆いつくしている。ドガだろうか。

「本物だよ」

 いつ部屋に入ってきたのか、正岡が銀のトレイからティーカップをテーブルの上に置いていた。挨拶などという余計な言葉をかけないのがこの老人の癖らしいのだが、それが分かっていないと驚かされてしまう。他ならぬ私も飛び上がったことがある。

「知り合いがくれたものだが、僕の趣味ではなくてね。どうだい? 君がもらっていくかい?」

 築20年のアパートの1DKが名画で占領されている図を想像すると心が寒くなるばかりだ。黙ってソファーに腰を下ろして正岡と向き合った。

「ご無沙汰ぶさたしています」

 久しぶりに見る正岡の様子に変わりはなかった。以前より老け込んでいるわけでもなく、もちろん若返ってもいない。ワイシャツの上に臙脂えんじのベストを重ね着し、腕抜きをつけている外見はいかにもベテランの事務員のようだが、彼が人を使うのに慣れ、かつ人を使うのにけていることは言葉をかわせばすぐに分かる。

「君も変わりはないようだね」

 私の考えを知ってか知らずか話し出した。頭頂部で分けられた銀髪は耳にかかるほど長くなっている。

「今は何を調べているんだい?」

「先週まで市民団体からの依頼で新たに日本に配備されたアメリカ軍の新型輸送機について調べていました」

「ふうん。それは喜ばれなかったろうね」

 何を根拠にそう決め付けたのか分からないが、私の報告書を読んだ依頼者があまり満足していなかったのは確かだった。心を読まれているかのようで気分はよくない。

「この前は迷惑をかけたね」

 そう言うと正岡はわずかにうつむいた。つむじが桃色に染まっているのが見て取れた。血圧が高いのだろうか。

「いえ、この仕事をしていればトラブルは付き物ですから」

「僕が用心していれば避けられた事柄であることには変わりないよ。僕の責任さ。それでもまた依頼を引き受けてくれるという君には感謝しかないんだが」

「依頼を引き受けるかどうかはお話を伺ってから判断させていただきます」

 慌てて釘を刺した。抛っておくと老人のペースになってしまう。

「それは当然そうだとも。強制するつもりはないよ」

 笑って頬を掻く正岡の後ろで葉鶏頭が激しく揺れているのが見える。午後になって風が出てきたようだ。

「うーん、でもね、正直言いにくい話なんだけど、実は前回の仕事と関係があるんだよね。今回の件も」

「また小栗栖おぐるすを調べるんですか?」

「あいつはもういいよ。“物知り博士”が実は全然そうじゃなかった、というのは面白かったけど、この前調べた以上の話はもう出てこないだろう。その点は君を信頼している」

 一応褒められているようだが、「前回の仕事」と関係がある話ならば警戒しなくてはいけない。小栗栖敏太おぐるすびんたの調査は私にとってあまりいい思い出ではない。

阿久津世紀あくつせいきっているだろ?」

 正岡の口から思わぬ名前が出てきた。阿久津は評論家としてマスメディアにしばしば登場していて、世間でも広く名前を知られているが、正岡の言いたいのがそういったことではないと私には分かっていた。

「阿久津は小栗栖とよく一緒に仕事をしていました。テレビで共演したり雑誌で対談をしたり」

 したがって、小栗栖の調査をしていると、仕事仲間である阿久津についても調べる必要が出てきて、余計な手間を取らされた記憶がある。

「君の報告書に名前が何度も出てきたから覚えがあったんだよ。だから偶然だなあと思って」

「小栗栖と同じように阿久津の仕事ぶりも調べろということですか?」

「あれとはちょっと違う。実は、僕の知り合いのご婦人が困っていらしてね」

 それから正岡のとりとめのない話が始まったが、要約すると以下のような事情らしい。正岡の知り合いのご婦人なる女性には一人息子がいて、彼が一流大学を卒業してから大手の広告代理店に入社したまではよかったのだが、つい先日代理店を理由も言わずに突然辞めてしまったのだという。

「そして今、彼は阿久津のプロダクションに入りながら、ワークショップにも参加しているそうだよ」

「あの人、ワークショップなんかやっているんですか?」

「そういうことも含めて君に調べてほしいんだよ。ご婦人は息子がカルト教団に入信したかのような嘆きようだ。とても見てはおれない」

 話を聞いた限りでは、小栗栖の調査とは確かに少し毛色が違うようだ。よせばいいのに、と思いつつも興味が湧いてくるのをおさえられなかった。職業病というべきか、野次馬根性というべきか。

「確かに阿久津の筋の悪さは少し調べただけでも感じられました」

「まっとうな人間でないのは確かだよ。あの小栗栖と長い間つきあっていた奴だもの」

 そして、阿久津は業界での小栗栖の評判が悪くなるとすぐに付き合いを絶っている。小栗栖がご当地アイドルグループをプロデュースしようとして阿久津に金の無心をしたのが絶交の理由だとも聞いたが、阿久津本人は「小栗栖さんとはいい友達です」と今でも言い続けているという。微生物びせいぶつ食物連鎖しょくもつれんさのほうがまだしも清々すがすがしく思える。

「もし調べるとしたら、資料に当たるだけでなく、実際にワークショップに参加する必要がありますね」

「だろうね。それが一番分かりやすい。たなごころすように分かりやすい」

「もしかしたら、息子さんにとってワークショップが広告代理店よりもいい場所かもしれませんけどね」

 正岡が声を上げて笑った。小柄な体から豪傑みたいな声を出すので驚くと同時に戸惑う。

「それならそれでいいよ。大会社に勤めていれば安心という時代でもないんだから。ご婦人にも納得してもらうさ」

 正岡がカップを手に取って、既にぬるくなっているであろう紅茶を一息で飲み干した。とりあえず結論ありきの調査でないことに安心したが、すぐに既に調査を引き受ける気になっている自分に気付いて、暗澹あんたんとした気分になる。また厄介事を背負うことになりはしないか。

「君は相変わらず古い映画を観て古い音楽を聴いているのかい」

 いきなり話題が切り替わった。もう仕事の話は終わりということだろうか。この老人が基本的に自分のしたい話しかしないというのは前回の仕事で分かっていたことだが、それにしても唐突であることに変わりはない。

「別に古いものしか観ないわけじゃないですよ。最近のも観てます」

「昔に親しむというのは今の世の中では裏切り行為だよ。犯罪だね」

 少しはこちらの話も聞いて欲しい。

「レトロやリバイバルのブームもありますよ」

「ブームになった過去は、今現在に認められた過去はもはや過去じゃない。過去というのは忘れられて思い出されもしないものだよ。君はそれをわざわざ掘り起こしているんだ」

 たかだか趣味に過ぎないものからひとの生き方を勝手に決めつけられても困るしかないが、老人はたまにこのような大袈裟おおげさな言動をとることがあって、そうした振る舞いをみると過去に俳優でもやっていたのではないか、という気がしてくる。

「正岡さんの前で趣味の話なんかするもんじゃないですね」

「いやいや、僕は感心しているんだよ。このご時世に奇特な心掛けだとね」

 そう、だからだね、と言葉を続けて、

「僕は君の物事の見方が好きなんだ。まるでドーナツの穴から世の中をのぞきこんだような、甘く歪んだものの見方がね」

 調査報告を生業なりわいとする者がゆがんだ物事の見方をするのはダメだろう、と思いながら、私はなおも続く正岡のおしゃべりを受け流しながら、阿久津の調査の段取りを頭の中で組み立て始めていた。一応所長にも話をしておかなければなるまい。小栗栖の調査では迷惑をかけてしまっている。

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