Scene 04
庶民には無関係な代物
いったいなんだったのだと思わないでもない。なんのために階段から転げ落ちてきたのかも、なんのために絡んできたのかもよくわからないままに、謎の禅問答で翻弄したあげく、一抹の不安を勝手に植えつけ、まるで嵐のように去っていった。で、いったいなんだったのだと。
でも、シュガー玲というひとはそういうひと。自作自演の押しかけ劇団。押しかけられ、観劇させられ、参加させられ、
要するに、シュガーさんに対しては、常に、翻弄されるほうが悪いということになる。関わったが最後、あきらめることしか方法がないんだ。
とはいえ、
「ホント、空美さんのおっしゃるとおり、パンチが、シュガーさんは、きいて、とても、あの、ホントにでした、パンチが」
初対面だった飛鳥はさすがに悟りきれていない。ずっと目を白黒させながら感想のラビリンスに迷いこんでいる。
それにしても、
『シュガー玲』
いまさらながら、変わった戒名。
まぁ、彼女にかぎった話ではないのか。バステト・由里万里・由良雲母・
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★ 戒名 & 童名
【 かいみょう & どうみょう 】
幽体になると、まず役所で身分を登録することになる。紹介屋の付き添いのもとで書類を作成し、役所のスタッフによって巨大データベースへとインプットされるわけだけど、この書類上に『戒名』と『童名』という項目があり、必ず記入しなくてはならない。
『戒名』とは、幽体になってから使用される本名のこと。対して『童名』とは、産方のときに使用していた本名のこと。
私のように戒名と童名が一致している場合は簡単だ。その場で記入を済ませて提出すれば、たった1日で身分登録は完了する。ただ、改名するかどうかという質疑があって、仮に改名するとなれば2週間以内という猶予期間があたえられる。いったん書類を持ち帰りのうえ、戒名欄を埋めてからふたたび役所訪問しなくてはならない。
あと、しばらくの間は改名せずに生活するものの、何年か経ってから改名したくなった場合も手順はおなじ。役所を訪れて書類を受け取り、記入して提出すればいい。この際の猶予期間も2週間以内。
で、重要なのが改名後で、ひとたび改名すると、登録日から数えて4万4千日(約120年間)は再改名することが適わなくなる。これは、たとえどのような理由があろうとも──だ。だから、わずか2週間の猶予ながら、将来のこと、自分の性格のこと、すべてを包括的に鑑みたうえで届けなくてはならない。これをしくじると必ずや枕を涙で濡らすことになる。まぁ、あの世とおなじように、本名ではなく通称を利用することは可能だけど。もちろん公共の場では本名を求められることになるが、ごくごく日常的な場面においては特に縛りはない。
ちなみに、改名猶予期間である2週間をすぎてもまだ書類提出が為されない場合、まずは役所から提出最終日を記した
なので、改名の書類提出はお早めに。
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そういえば『円蛇』も改名なんだよなぁ。詳しくは知らないけれど、最もよく使っていた童名は『
私は、改名しようとする頭がなかった。だって、なにがなんだかわからないままの役所訪問で、いきなり書類を手わたされて、死んだ
『なんだか死相が出てるわね』
と微笑まれた。改名するかどうかなんて考えている暇がなかったんだ。
結果、私は童名をそのまま戒名にした。べつに変えるつもりはない。望月空美という名前に愛着があるというわけではなく、ただ改名後の段取りが面倒なだけ。知りあいの人数はたかが知れているけれど、それでも、いちいち報告しなくてはならないのかと思うと気が滅入るんだ。
このままで、望月空美のままでいい。
「空美さんのお知りあいはみなさんパンチがきいてらっしゃいますよね良い意味で。円蛇さまもオチバさんも雲母さんも、ひとそれぞれという観念を地で行っているかのように」
童名をそのまま戒名にした琴野飛鳥がしみじみと唸る。あなたもそのお知りあいのひとりですが──と思うだけにとどめておく。
「それにしてもさぁ」
油屋の建つ坂道をのぼりきると、コンクリートの道路は前方と右に枝分かれしていた。シュガーさんは前方の枝を選んだようだが、私たちはあとを追わずに右へと折れる。左右に錆びたシャッター街を望みながら、弱々しい蛍光灯がゆいいつの灯火となっている薄暗い道を直進。まっすぐに100mほど進み、ちょうどいま、突きあたりを左折したところ。
「アンセムってなんだろうね。飛鳥は聞いたことある?」
「アスカも初耳です。なんだか気になりますよね。シュガーさんの物言いは、なんといいますか、カテゴリーのことを指しているように聞こえました」
「うん。私にもそう聞こえた」
このあたりから軒並みのシャッターが開きつつある。紙屋・櫛屋・鋏屋・鉢屋・土瓶屋・表具屋・真珠屋・団扇屋──あの世とはまた異なるマニアックな店構え。しかし、都会の月ほどしかない蛍光灯の光量のせいで、どのお店も開店休業中に見える。三和土の向こう、畳の向こうは完全な暗黒で、人気もなく、ウィンドウショッピング特有のワクワク感を煽る気配もない。
それもそのはず、ここはまだ仙童フロントではない。浮浪霊や虜囚霊をも多く抱えこむ彩央フロント、その一部『彩央走廊』。あと10分ほど自転車を走らせなくては、あの落ち着いた華やかさを望むことはできない。
競歩ぐらいのスピードで自転車を走らせるのが私と飛鳥。この調子だと、仙童フロントへとたどり着くには10分では足りないだろう。
「アンセム。万里さんだったら知ってますかね?」
「たぶん知ってるだろうね。こんど聞いてみよう」
と──、
「アンセムって聞こえたよ? アンセムが欲しいの? でもアンセムを欲しがるような
何屋かもわからない暗黒の店内から、急に男があらわれた。あらわれるなり、私たちのまえに立ちふさがる。そして両腕を広げ、早口で声をかけてきた。
「どんなアンセムが欲しいの? でもふたりとも
まるで自動音声のように息継ぎもなく捲し立ててきたのは、少年だった。
「ホントだよ? ふたりとも庶民にしか見えないよ?」
グレーのインナーシャツに、やや燻したニュアンスのモスグリーンパーカーを羽織っている。そのしたには、
一見すると
「ホントにそっち方面のものを探してるの?」
肩を突く黒髪の、後頭部の一部をポニーテールに結っている。しっかりとは結っていない。あくまでも一部だけで、あとはざっくばらんに肩を突いている。
背丈は150㎝ほどで、女の子に見えなくもない。でも、
「僕の気のせいかな? そっち方面の人種なのかな? どうなのかな?」
声が男の子。キーは高めだけど、充分に声変わりしている。
……というか、だれ?
「あ、あの、どちら様でしょうか?」
私の気持ちを察したかのように、大きな目を殊更に大きくして飛鳥が尋ねる。しかし、その語尾を簡単に遮って、
「それはこっちの台詞だよ? 君たちみたいな庶民っぽいひとがアンセムを口にしてるんだから不思議だね? さぁ、君たちのほうこそどちら様なのかな?」
抑揚もつけずに少年が捲し立てた。
癖なのか、頭をゆらゆらと左右に揺らがせながらしゃべっている。口調も淡々としていて、なんだかマイペースな印象。まぁ、他人に気をつかう性格だったら急に進路をふさぐような真似はしないだろう。だから、たぶんマイペース。
「あの世とおんなじだね? 庶民の女の子がサイクリングしながらパチンコの話はしないよね? 僕の思いこみかな?」
「パチンコ、は、確かに、やりませんでした、けど」
勇敢なのか天然なのか、小首を傾げながら飛鳥が応じる。応じなくていいのに。
すると、少年ははじめて間をあけて思索。そして、合点がいったかのように、あぁ──と気の抜けた声。
「いや、そっちのパチンコじゃなくてね? 鉄砲のことだよ?」
「
なんだかキナ臭くなってきた。チンピラに絡まれた気分……産方で絡まれたことはないけど。だって、私のような世代にとって、チンピラはもはや都市伝説だったから。
いよいよ怪しくなり、ただでさえ人見知りの私、ここぞとばかりに警戒心が高まる。このまま相手をしつづけていいものかどうかと逡巡。ところが、やはり天然なのか、正直に説明をはじめたのが飛鳥だった。確か彼女、自分で自分のことを人見知りだと言ってなかったっけ?
「じつは、今日、はじめて耳にしたんですよアンセムって。だから、なんなんだろうねって話していたので……」
「ははぁ、そういうことだね? なるほどだね?」
話していたのです──の語尾が完全に遮られた。
おもむろにパーカーのポケットへと両手を突っこむ謎の少年。1歩だけこちらに近づき、お辞儀をするように上半身を傾けた。それから、私と飛鳥の顔を交互に見比べる。
値踏みされているような不快な気分。
「でもね?」
奥二重の、切れ長の瞳。わずかに勾配をつけてあがる眉尻と相俟って
「だとしたら、そういう話はしないことだね? 庶民には無関係な代物だからね?
観相は12歳ぐらいか。でも、すくなくとも小学生が語る内容ではない。口振りは幼いけれど、まるで裏社会にでも通じているかのようで怖い。
「ホントだよ? 大変な目にあっちゃうよ?」
「そういう代物、なんですね?」
「だってアンチソーシャルアイテムだからね?」
「アン……?」
「Anti - Social Item ──略してみるといいよ?」
Anti - Social Item ?
略す?
「……
思わずそう口にすると、おぁぁ──右から唸り声。
「なるほどです。要するに反社会的な道具とでも言えばいいんですかね?」
「ほらね? 庶民には無関係な代物だよね?」
飛鳥の問いに少年が答えた、その直後のことだった。
「そこまでだ、
背後から低い声が投げかけられた。
急展開の連続に、こらえきれなくなった私は発作的にふりかえる。
「無関係と言いながら律儀に教えるな」
ぼそぼそとつぶやくような口調なのに、なぜか耳に通る声。低いのに高い声。サラスヴァティ・ヴィーナを思わせる、異界の声。
あぁ、この声、好き。
「くだらない世界に引きこむな」
「あ」
私も、飛鳥も、晶片小僧と呼ばれたこの少年も、いちように驚きの反応。
背後に立っていたのは、
「空美、こいつの相手はしなくていい」
「き、雲母、さん……!」
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