箱庭の涅槃

 




「で。ヒヨコちゃんはこれから、どこへ、なにをしに?」


「仙童フロントへ、エルジーライトを買いに、です。あと、できれば蘇命酒も……」


「1割!」


 シュガーさん、急に艶かしい声を張った。驚いてわずかに仰け反る飛鳥。


「は、はい?」


「気をつけなさい。蘇命酒と呼ばれる商品の9割が紛い物」


「そ、そうなんですか!?」


「本物は本物で、わざとPMCRを引き起こす劇薬なんだけどね?」


「え!?」


 思わず私も反応。それを見て、してやったりといわんばかりににやりとするシュガーさん。でもすぐに笑みを薄めると、


「わざとアレルギー反応を起こさせ、ラストするぎりぎりまで慟力を押しさげ、その反動でもって完全回復を図りましょうというのが蘇命酒の正体」


 さすがというか、プロの口調で説明。


「喩えは変だけど、筋力アップのトレーニングシステムに似ているかしら。わざと筋繊維を傷めつけ、その回復効果としてより強固な筋力を手に入れる。似ているといえば似ている」


「はぁ」


「そもそも、蘇命酒は薬じゃないのよ。正しくは、P4 ── Proto Phobia Portable Patch という名の


「プ……?」


 飛鳥とともども、自転車のハンドルを握りしめたまま混乱のフリーズ。


 薬じゃない?


 P4?


 プロトフォビアポータブルパッチ?


 アンセム?


 情報漏洩の回転率サイクルが速いはずのこの世、そこで紹介屋をしている私の耳に、矢継ぎ早に「はじめまして」のワードが並んだ。いっぽうの飛鳥も同様の様子。瓜ふたつのポーズで固まるばかりの未熟なふたりを察してか、


「んっフフフ。あなたたちにとっては知らなくてよいことだったかしら。でも、プロの紹介屋としては知っておくに越したことがない」


 稀に見る葛藤ね──毒色の唇に冷笑を象らせるシュガーさん。しかし、すぐに撤収させると、めずらしく真顔になった。とたん、少しだけぴりッとした空気。


「いずれにせよ、仙童フロントのような小綺麗な街では売られていない代物。老太フロントの裏で売りさばかれるような代物。この意味、わかるわね?」


 より深みを増した彼女の説明に、固唾を飲みこめない代わり、私の瞬きがリズム感をなくした。


「いちおう忠告したわよ。あとはあなたたち次第」


「はぁ……」


「それと、エルジーライトの効果は使用者の感度による。その日のコンディションにもよる。なぜならば、あの世の医薬品のように、ウイルスを相手にするわけでも生命維持活動を助成するわけでもないのだから。倫力の源である慟力にわずかながらの安定感を担保するにすぎず、つまりはのようなもの」


「うらない?」


「今日の運勢を耳にして、鵜呑みにするひともいれば無下に捉えるひともいて、鵜呑みにする日もあれば無下に捉える日もあった。それとおなじ。幽体にとっての薬とは普くそういうものなのよ」


 わかるようなわからないような……彼女の謂いをうまく解釈できなかった。すでに瞼は固まっている。


 情けない私をよそに、おぁぁ──例のように唸って飛鳥が継いだ。


「なるほど……なるほどです! 例えば、空美さんが天秤座のO型でアスカが双子座のB型だということをアスカは参考程度に気にかけている。でも空美さんまで気にかけているとはかぎらない。なにしろ、ひとそれぞれですもんね。それに、アスカだってすごく気にかける日もあればまったく気にかけない日もある。その日のコンディションに左右されるわけです。で、要するに占いというのはそういうもので、この世の薬というのはそういうものである──と」


 ひとの個人情報を勝手に暴露し、淡々としながらもゾディアーク少女が捲し立てる。どうやらそういう分野では勘が働くらしい。


「個人の感度とその日のコンディション──なるほどであります!」


 アイドルらしく右手でガッツポーズをつくってみせると、


「……このヒヨコちゃんは少しだけ翔べるようね」


 やおらに腕を組み、シュガーさんがぼそっと感心。


「まさに稀に見る奇蹟だわ」


 幽体にとっての薬とは占いのようなもの──違和感だらけの比喩表現なので、私はまだ完全に解釈しきれていない。半ばあきらめたように黙りこくっていると、なにはともあれと前置きしてシュガーさんがつづけた。


「産方の頭痛薬のようにエルジーライトを使わないことね。この世の薬とあの世の薬、そもそも概念が異なるのだから」


 そして、こうも言う。


「日々の充実を超える万能薬はないと肝に銘じなさい。幽体はすでに涅槃の住人。みなが等しく、安らぎを悟れる菩薩であるべきよ」


 あぁ、また出た。


 


 いまいちピンとこない単語。


『望月空美の充実の話をしているの』

『ダメよ? 充実をしない幽体では』


 イルマ姉さんもテトさんも、なにも根性論を諭そうとしたわけではないのだと思う。根拠はないけれど、そう思う。あたかも道理であるかのような物言いだったし、あたかも摂理であるかのような物言いでもあった。だからか、


『仕事を放棄したところで、まともに生きられた幽体はおらん』

『我々は摂理の奴隷かも知れないのだ』


 九十九さんの言葉にも円蛇さまの言葉にも、因縁的にリンクしているような気がする。そして、不思議と、


『ここは、用のないヤツには用のない場所さ』

『この奥にはなにもない。ろくなものはない』


 あのふたりの言葉にも。


「充実」という概念を通して、すべてがリンクしあっている。根拠はないけれど、そう思う。そう感じる。


 事実、目のまえにいる飛鳥も、シュガーさんも、まるで充実感の権化であるかのように生き生きとしている。すくなくとも、私の手に届かないほどのエネルギーは身にまとっている。だから、彼女たちがラストする様子をイメージできない。虜囚霊になる姿を、イメージできなくて当然であるかのようにイメージできない。それは、テトさんや円蛇さまも同様に。


 むしろ、廃人となった望月空美のほうがはるかにイメージしやすい。自分自身のことなのに、たやすく、危うい未来をイメージできてしまう。漠然とではあるけれど、いともたやすく。


 いったいどうすればいいの?


『日々の充実を超える万能薬はない』


 みんな抽象すぎるんだよ。なにをどうすれば充実へとつながるのか……いや、そもそも、どういう状態を指して「充実」と述べているのか、それは必要条件なのか、あるいは十分条件なのか、具体的な部分が、実際的な部分が、実践的な部分が完全に欠落している。


 飛鳥を見ていたって、シュガーさんを見ていたって、見ているだけではわからない。充実していることはわかるけれど、なにをどうすればふたりのようになれるのか、肝心なところがさっぱりわからない。詳しく説明してくれなきゃ、私にはわからない。


 個人情報はあっさりと漏れるくせに、欲しい情報にかぎって強固なパスワードがかけられている。


 いや……欲しがるようなものではないのかな?


『欲しがるものほど、いつか必ず捨てるもの』


 雲母さんがつぶやいてたっけ。ひとり暮らしをはじめるとき、家具の搬入を担ってくれた女性。お手製だという謎の重機を駆使して、軽やかに仕事を終えてみせた。寡黙で、飄々としていて、とても冷静な雲母さん。彼女が、搬入中にぼそっとこぼしたのがこの台詞。


『欲しがらない。欲しがらない。欲しがらない』


 呪いのようにぼそぼそとひとりごちるものだから、そのときは、ちょっと怖いひとだと思ってた。いまでも、なにを考えているのかよくわからないときがある。もちろん、優しいひとだし、なにしろあの万里さんの相棒なのだし、決して悪いひとではない。ユニークなひと。


 いま、私が欲しがっているものは、いつか必ず捨てることになるという程度のものなのだろうか。逆に、私が永遠に保ちつづけるであろうものは、欲しがるに値しないところにひそんでいるのだろうか。必要なときが来ればおのずと手にしているはずだ──と。


 結局、摂理が決めることなのだから──と。




 摂理……。




「修羅のような顔をしている」


 地を這うような声に囁かれ、私ははッと我にかえった。


「そういうときがある。空美にはそういうときがあるのよ」


 あぁ怖い怖い──と言いながら身体を抱え、凍えたようなジェスチャーを見せるシュガーさん。そして、


「可哀想に。ヒヨコちゃんも怯えているわ。ヒヨコを怯えさせるのは的屋テキヤだけになさい」


「平塚八幡宮では凶暴化しましたけどね」


「おめでとうその情報処理能力!」


「おめでとうその洞察力!」


 まさに稀に見る奇蹟ね──軽薄に感心し、そのまま腕を組んだ。


「フィットしていないのね?」


「え?」


 毒の微笑みを色濃くすると、


「もしも世界がふたつあれば、選んだほうで幸せにしていられたかしら。いいえ。世界が何億とあったところで、空美がフィットすることは永遠にないでしょう」


「な、ぜ……ですか?」


 怖々としている私の問いに、んっフフフとこぼした。


「世界がひとを選ばないからよ。世界は世界として泰然とそこにあるだけ。来る者を拒まず、去る者を追わず、選ばず、捧げず、救わず、放たず、罰せず。世界とひとは、決して相思相愛とはいかないの。産方のあなたもそうだったのでは?」


 確かに、籠の鳥を籠の鳥のままに放置しつづけた。


「だれもフィットしていない。テトも、オチバも、円蛇さまも」


「そ、そうなんですか……?」


 そうは見えない。のびのびとように見える。フィットしないなんて違和感を抱えながら生きているようには、とても見えない。


「小夜もそう。アダムも、イルマ姉さんもそうね。まだ年端もいかない卯名うなとて例外ではない」


 遠くで、風の音が聞こえる。彩央走廊の闇、そのずっと奥で、低く、発電機ジェネレーターのように、風の音が唸っている。塔を思わせる、まるで不吉な唸り声。


「あの世は空美を選ばなかった。捧げず、救わなかったでしょう。そして、この世も空美を選ばなかった。放たず、罰しないでしょう。それが世界というものよ。世界とはそういうもの」


 いや、本当に風の音だろうか。


「ゆえに、人間ひとは永遠の適応障害」


 観測しなくては、わからない。


「空美は素直ね」


 いや、がいる。


「フィットしないこの世に思いを馳せている」


 シュレディンガーの猫が、唸ってる。


「この、箱庭の涅槃に」


 匣のなかで、


「箱庭の、涅槃……」


 風のように。


「さぁ!」


 急に声をあげ、ぱんッと柏手を打つシュガーさん。驚いて肩をすくめる私と飛鳥。


「いよいよムダ話が過ぎたようね。ここには用がないのよ。もう帰ってもいいかしら?」


「おぁぁ……呼び止め、ましたっけ?」


 肩をすくませたまま飛鳥が狼狽えると、シュガーさんは少しだけ間をあけて、


「……惜しい」


 ぼそっと評価。


「方向性は合っている。でもキレがない。ヒヨコちゃん、それでは沼にハマっていくだけよ」


「蓮の花にはなれますけどね」


 しかたがないので間の手を入れる。すると、この奇矯なナースは待ってましたといわんばかりに、


「尊敬とは苦労することを苦労させるものだわ!」


 案の定、琅々と祝福。


「尊敬なさいヒヨコちゃん。この偉大なる望月空美センパイを衷心より敬うのですヒヨコちゃん!」


「は、は、はい」


 そうして彼女は、


「よもやこの局面で泥濘ぬかるみのくだりを持ってくるとは。さすがの空美ね」


 時代劇のエピローグのようにふくみを持たせて声を張ると、


「まさに……まさに稀に見る奇蹟!」


 びしッと右手の親指を立て、満足そうな毒色の笑みを浮かべたまま広い背中を見せた。


 猫はすでに噤んでいる。代わりに、


「お、おぁぁ……」


 遠ざかりゆくナース服に向けて飛鳥が絶句を棚引かせた。気持ちはわかる。




 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る