まさに稀に見る奇蹟

 




 ワンピースの、白いナーススーツを着ている。パンツの類は穿いておらず、その代わりに白い網タイツを着用、赤紫色のパンプスへとつづく。現代日本の医療現場ではあまりお目にかからなくなったコーディネートで、むしろコスプレと表現したほうが腑に落ちるかも知れない。


 ただ、ナースキャップはかぶっていない。この部分だけは現代医療現場の風情に近いだろうか。確かに、衛生的ではないとの理由から、あの世のほとんどの病院ではナースキャップが廃止されているのだそう。もちろん、このひとがあの世の医療事情を踏襲するとはとうてい思えないけれど。


 転げ落ちてから10秒が経つが、大の字になったまま微動だにしない。艶かしい瞳に底知れぬ天を望ませたまま。


 霊的なまでに色白の女性だ。小麦色の飛鳥とはオセロほどもの差がある。半袖から伸びる腕も、ナーススーツの裾と網タイツの間に垣間見られる太ももも、顔も、どこも白い。メイクだけの恩恵ではなく、もとからこうなのだろう。でも、病的な印象は受けない。たぶん、彼女のややふくよかな体型がそう思わせるのかも知れない。太っているわけではないが、さすがにスレンダーであるとはいえず、むしろヘルシーなグラマー。記憶が確かなら、あの世のグラビアアイドルにこんな体型の女性がいた気がする。ぽっちゃり系──とかいうジャンルで活躍するアイドルだったか。


 パウダリーな白さを誇るこの女性、いまだ起きあがる気配がない。もしや脳震盪かと思うほど。ないけど、脳。


「あの」


 たまらず、声をかけたのは飛鳥だった。


「大丈夫ですか?」


 私は、心配の声をかけない。だって、このひとはだから。


「お怪我は?」


 すると、


「んっフフフ」


 大の字の喉から、溜めのある含み笑い。そして、


「彩央走廊に仰臥するという稀に見る奇蹟を堪能していただけのこと。あぁ、それにしても、このエリアには摂理の香りが充満しているわね。埃と錆と油の香り」


 ねっとりとした艶っぽい声でこう囁いた。


泥濘ぬかるみに咲いた蓮の香り」

「汚れますよ」


 語尾を待たず、ついたしなめてしまった。だって、ホント、いつものことなんだもん。


「んっフフフ。汚れる。なるほど一理あるわね。あぁ、それにしても、こんな素敵な 涅槃ニルヴァーナ で空美と会うだなんて、まさに稀に見る奇蹟」


「マサーニマーレニミルキセーキ」と変な抑揚をつけながらようやく身体を起こすこのナースを、私はよく知っている。


 看護屋かんごや、シュガーれい


 何度もいうけれど、幽体は病に罹らない。一部のPMCRによって鈍重な疲労感に苛まれることはあるものの、薬や整体に頼る必要はなく、休息を入れればおのずと回復していく。逆に、アップルシンドロームに陥った場合には、もう回復させる手立てがない。医者も匙を投げる絶望的な状態。


 だからか、この世には大々的な医療機関が存在しない。病院も薬局も皆無に等しく、せいぜい倫力回復の民間療法が都市伝説のように漂流している程度。


 原則、この世には医者なんて必要ないんだ。


 ただし、それはあくまでも原則論。実際には、必要なケースがまったくないわけではなかった。


『リルーズ』という現象があるからだ。




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★ リルーズ

【 Reloose 】


 倫体の一部、もしくは、全体が損傷する現象をそう呼ぶ。主に、欠如・湾曲・折損・切断などの状態を指し、もちろん痛みこそ感じないものの、これを放置すればいずれ生活に支障が出る。


 とはいえ、頻繁に起こる現象ではない。生体のように、砂利道で転んだりナイフで切ったからといって、ただちに折れたり断たれたりすることはない。幽体の身体はやはり精神の塊、スライムのようなものなのであり、だからカッターナイフを突き刺したところで欠損することはないわけだ。


 じゃあ、なぜ損傷現象リルーズが起こるのかといえば、じつはまだ論理的解明が為されていない。いちおう「慟力こころの振幅につけこめば、稀にヴィジョンが変容することがある」との見解はあるものの、それも結果論にすぎず、とてもシステムの解明におよぶものではない。


『容は想に随う』


 そう解釈したのは、確か、幽協互恵部ごけいぶの部長である持蓮じれんだったか。要するに、イメージ (想) が倫体 (容) を変化させるのかも知れない──と。例えば、腕が折れたことを瞬発的に強くイメージすれば、まったくそのように腕が変化するのではないか──と。


 以前に紹介した「火箸と水膨れの実例」を思えば、なるほどと思う。なにしろ幽体はメンタルの塊なのだし、生体以上に、想が容に重大な影響をあたえることもあるのかも知れない。


 ともかく、稀に、なんらかの拍子に腕が折れ、身体の一部分が欠け、あるいは断ち切れることがある。私は未経験だけど、かつて街中で「小指が取れた」と首を傾げている幽体を目撃したことがあって粟立つ思いだった。


 縫合すればいいじゃんと考えるかも知れない。だけど、もはや幽体には自己修復能力が備わっていない。膿も出なければ瘡蓋もできず、ひいては癒着しない。縫合したところで、くっつくわけではないんだ。糸によって暫定的に損傷部位が連結しているにすぎない。


 ちなみに、ごく稀に、頭と胴体が分離することもあるらしい。歴史上においてその実例は微々たるものだけれど、一説によれば、こうなると強制的にアップルシンドロームが発生するのだとか。


 事実、


しかばねの如くこやせる者、あはれ』


 実例を記した古文書が考古部こうこぶの資料館に眠っていると聞く。


 ……ヤだな、そんなの。

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 この世には、リルーズした倫体の修復にかかるプロフェッショナルがいる。どのようにして修復するのか、その方法を私は知らないが、いずれにしても貴重な専門職として君臨している。


 それが『看護屋』。


 また、彼らは消耗した倫力を素早く回復させることもできる。これに関してはすでに私も経験ずみ。はじめてグリーンを虜囚霊に変えてしまったとき、万里さんの機転によって助けられた。彼女の依頼を受けてわざわざ馥郁19號にまで足を運び、ほとんど失神状態にある私を看てくれたひとこそ、他でもない、シュガー玲さんだったんだ。


『空美は乙女を喪ったのよ。お赤飯を炊いておくべきだったかしら。んっフフフ……』


『乙女を喪う』──なんのことなのか詳しくは知らないけれど、看護屋の専門用語らしい。


「おぁぁ! あなたが大世界ずいいちを誇る看護屋のシュガー玲さんでありますか! お噂がカネガネなのでお会いできてまことに光栄であります!」


 噂をすればナントヤラに邂逅し、自転車レアを跳び箱がわりにしてぴょんぴょんと弾む飛鳥。対して、斜にかまえ、油屋への階段を凝視するシュガーさん。しばしの間、そうやって圧力のある横顔を私たちに見せつけていたものだが、おもむろに右手で髪をかきあげると、艶かしい瞳を少女に睨ませ、


「んっフフフ。初心うぶな子ね。はじめてパンジー畑を目のあたりにした刺激的なバンビちゃんのよう。冷淡なこの世には貴重な存在かも知れないわね。まったく……稀に見る奇蹟だわ」


 琅々と祝福。


 彼女はいつもこんなひと。ハリウッド女優の単独インタビューを和訳したかのような、住んでいる宇宙せかいが違っているかのような話し方をする。声の質もねっとりと糸を引くような円やかさで、だからか句読点を感じさせない。しかも、決して不測の事態に動じず、常に不敵な笑みを絶やさず、泰然自若としている。異次元のクール。


「で? バンビちゃんのお名前は?」


「あ、飛鳥です! 琴野飛鳥ともうします!」


「飛ぶ鳥? 明日の香り? それとも、亜細亜と須弥山しゅみせんの架け橋?」


「しゅみ……と、飛ぶ、ヤツ、です」


「あら。バンビちゃんじゃなくてヒヨコちゃんのほうだったのねぇおめでとう!」


「あ、ざす」


 彼女はいつもこんなひと。


 いつも笑みを絶やさないひと。なのに目が笑っていない。笑っていない代わりにどっしりと座っている。切れ長の眦は緩やかに垂れているものの、念入りに引かれたまっ黒なアイラインと、大巻耳おおおなもみの棘をほうふつさせる長い睫毛は常に天を目指していて、奥二重の厚い瞼、そして絵に描いたような三白眼も手伝って太々しい印象。確か、狼の目がこんな感じだったと記憶している。


 鼻は、梁も翼も小さく、丸く、低い。典型的な日本人の鼻。でも、唇は南米人のように分厚い。さらには、クリムゾンカラーのルージュで丹念に縁取ってもいる。まさに「毒色」と言っても過言ではなく、だから不敵な笑みに見えるのかも。


 ふくよかな丸顔なのに、愛嬌の欠片もない。


「ヒヨコちゃんのお仕事はなに?」


「空美さんとおなじ紹介屋です!」


「対応は?」


「空美さんとおなじ……」


「まぁ御愁傷さま!」


 聞き捨てならないお悔やみの言葉を述べながら、ショートボブの黒髪をかきあげる。きちんと顎のラインで揃え、ワンカールの膨らみをほどこしたショートボブ。バングスも、眉のうえでまっすぐに揃えられてあって、まるでパーティグッズのウィッグのようにも見える。


 純白の肌と純白のナース服──これで血糊でも加えればもはや立派なハロウィンだ。観相30代前半の大人っぽい見た目なのに、150㎝ぐらいの背丈なのに、草いきれを思わせるが壮大な胃もたれを誘う。だから私は、シュガーさんと対したときには、In This Moment『Big Bad Wolf』を脳裏にピックアップして力づくで腑に落とすようにしている。


「可哀想に。空美を尊敬しているのね?」


「かわ……は、はい」


「稀に見る奇蹟だわ」


 腰の左右に手をあて、首を左右に振りながら、この奇矯な看護屋は、ふぅ──とため息を吐く。本人をまえにしてよく憐れめるものだ。


「天の川銀河とアンドロメダ銀河が 融合フュージョン するほどの稀に見る奇蹟だわ!」


「いいかげんにしてもらっていいですか」


 たまらず、私は沈黙を破った。


 何度でもいおう。シュガー玲という女性はいつもこんなひと。気位が高く、冷淡で、シニカルで、それなのに──なぜか憎めない人。


「よくそんなふうに言えますよね」


「あら。ヒヨコちゃんに誤解をあたえる表現だったかしら?」


 斜にかまえたまま、不敵な笑みを浮かべたまま、毒を漂わせたままなのに、なぜか憎めない。


「ごめんなさい空美。なるほど。こう表現すべきだったわね。渋谷の道玄坂で東京都知事が途方に暮れているのを目撃するほどの稀に見る……」


「そういうことじゃないんですよ」


 軽めにツッコミを入れると、とたん、シュガーさんは目を細め、わずかに顔を傾けた。ん?──とでも言いたそうな戯けた笑みに豹変。そしてたっぷりと間をあける。


 コメディを演じているように見えるんだ。


 身にまとう衣服も然り、毒色のメイクも然り、たたずまいも然り、所作も然り、ねっとりとした話し方も然り、笑っていない笑みも然りで、発せられるすべての要素が自作自演のコメディのよう。容姿の世間的不利を逆手に取った芸道のよう。のよう。


 彼女がどのような産方を歩んできたのか、私は知らない。現職とおなじく看護士をしていたと聞いたことはある。起因は溺死──と聞いたこともある。でも、詳細までは知らない。現在の、このエンターテインメント性とどうリンクしているのか、それとも幽体になってから身につけた性質なのか、そこのところの詳細を私は知らない。もちろん興味はあるけれど、あまりにもプライベートなことだからとても干渉できない。万里さんや飛鳥の産方みたいに、偶然にでも耳にする日はくるのだろうか。


「そういうことじゃない。そうね。そういうことじゃない」


 わずかに顎をあげ、相変わらず自作自演の上から目線をこさえると、


「あなたは賢い子よ、空美」


 他人事のように軽々と感心してみせる。そして、


「まるで泥濘に咲いた蓮のように賢い子」


「埃と錆と油の香り……でしたっけね?」


「おめでとうその記憶力!」


 左手を腰にあて、右手で髪をかきあげながら琅々と祝福。


 やっぱり興味は尽きない。なぜになってしまったのか、そのきっかけを。


 でも、


「そして完全にヒヨコちゃんを等閑にしているというこの惨状」


「あ、いえ、おかまいなく」


「まったく……稀に見る奇蹟だわ!」


 シュガーさんは他者を寄せつけない。それは聞かない約束よ?──自作自演のコメディなふる舞いでそう悟らせる。


 私も、肖りたいと思わないでもない。


 幽体は、生体よりも噂話が好きな傾向にある。内緒話、いわゆる「ここだけの話」の漏洩率もかなり高いのだそう。事実、たった3年の幽体人生なのに、すでに私はテトさんや万里さんや飛鳥の起因情報を手に入れている。昨日は昨日で、宮城セツの情報を仔細に入手した。とてもプライベートなことなのに──そう考えると、産方にはありえないほどのスピードだと思う。


 学術的なことは知らないけれど、一説によれば、であるというのがその最たる理由だと囁かれている。永遠の生命を持つがゆえに「一期一会」のような礼節的観念が薄くなりやすく、他者に対する配慮や慎みに欠けやすくなる──のだそう。世間知らずな私のこと、真偽のほどは定かではないけれど、なるほど、すくなくとも話好きな活動霊は多いような気がする。なんとなし、生体よりも井戸端会議が好きな印象。


 第三者ひとの仕事の成果を勝手にホーネットへと載せる、幽協の個人情報モラルの稀薄さも一因ではないかと思ったりするのだけれど。あれは不満だ。余計なお世話すぎる。


 なにはともあれ、第三者のプライバシーが勝手に漏れやすいこの世の性質上、どうしても身を守る術が必要で、だから私はシュガーさんの処世術に肖りたくもなる。他者を寄せつけない、その処世術に。


「あの、ホントにおかまいなく」


「そういわれると逆にかまいたくなるのが涅槃の摂理というものなのよヒヨコちゃん?」


「おぁぁ……勉強、に、なりま、す」


「決して忘れないことよ。涅槃の摂理は常にヒヨコちゃんとともにあるということを」


 まぁ、どだい無理な話だけれど。




 

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