サラスヴァティ・ヴィーナ

 




 大世界の闇よりも濃厚な漆黒のブルゾン、その全面に、蝋色──黒に近い灰色の再帰反射リフレクターインクで江戸切子の糸菊繋ぎが描かれてある。精緻で複雑なグリッターの紋様がほのかな蛍光灯の光に反射していて、まるで蜘蛛の巣のよう。


「こいつは、底辺の住人」


 ブルゾンの内側には、これまた漆黒のTシャツを着ている。鳩尾のあたりに6つの白い髑髏が頬を寄せあい、その頭上に大きな紅い文字で『K!ller』のロゴが。


「頼まれてもいないのに」


 漆黒のフレアラインパンツを穿いている。脚線を拾わないワイド裾のシルエットを持つパンツで、素材はウールだろうか、厚みのある硬い質感。それから、


「ホーネットの深部を覗きこむ輩」


 漆黒のウェッジソールパンプスへとつづく。アンクルストラップタイプの軽快カジュアルなプロポーションながら、スエードならではの密度といい、5㎝はあるだろう厚底ソールといい、その倍はあるだろうヒールといい、一筋縄にはいかなさそうな重厚感。


「底辺から浮上できない輩」


 それら、箱ライヴの衣装を思わせるガーリーなメタルアイテムが、162㎝の身体にとフィットしている。


「底辺は底辺らしく」


 左手を腰にあて、右手はぶらんと垂らし、斜にかまえて気怠そうにたたずむスタンスもさまになっている。


 このひとこそ、


「陽のあたらない場所で出歯亀に励んでいろ」


 由良ゆら雲母きらら


空中都市メテオラ」の異名を持つ歓楽街『美羅東亰メトロトンジン』に居をかまえる、大世界きっての工学技術者エンジニア。また、万里さんとコンビを組んで『ゆらり探偵事務所』も営んでいる。平素は口数が少なく、冷静沈着、ともすれば大人しい印象の女性ではあるけれど、やはりそこは万里さんやテトさんの知音、アクティヴなフットワークは私の比ではない。


「そっち方面の人種は、そっち方面に帰れ」


 よく通る弦楽器ヴィーナで、ぼそぼそと威嚇。


女泉めみつ商会に帰れ」


 そして、腰に手をあてたまま、おもむろにこちらへと歩を寄せた。私の左隣に並ぶ。


「飛鳥」


 余裕を感じさせる垂れ目で謎の少年を睨みながら、あくまでも表情を変えることなく忠告。


「律儀に対応するな」


「は、はい!」


の口車には乗るな」


 観相20代前半ながら、惚れ惚れするほど異国的エキゾチックな面立ちの美女だ。でも、じゃあどこの国なのかと問われると困る。なぜならば、とても日本的な顔だから。なのに、不思議と日本ではお目にかからない。


 妖艶なんだ。


 着物さえも似合う和の面立ちなのに、皮膚に、筋肉に、細胞に、日本人にはない神秘的な妖艶さを骨刻させている。


 その愛らしい垂れ目も、脱力させていい部分は脱力させ、力ませていい部分は力ませている。効果的に、合理的に、高踏的に、あたかも黄金率の塩基配列DNAが組みこまれてあるかのように、正しい妖艶さを自然体ナチュラルに発露している。だから、相対する者は戸惑う。どう見ても垂れているのに、眦が鋭く吊りあがっているように見えるから。座っているような、睨まれているような、見抜かれているような、畏怖の錯視に陥ってしまうから。


 鼻も丸く、鼻梁は低く、鼻翼もやや広めで、典型的な日本人の造形フォルム。なのに、日本にはない、例えば東南アジアの女神像をほうふつとするを感じてしまう。


 上下ともに豊潤ふくよかな紅唇もそう。あたたかみを感じてもおかしくない分厚さなのに、不思議と冷淡な印象。まるで、なにものにも与しない神の孤高さを体現したかのような冷淡さ。吊りあがるでもなく媚びるでもない、優しげな放物線を描く濃いめの眉毛にしてもそうだし、ほんの少しチークを削ぎ落とした程度の、丸顔の輪郭にしてもそう。タヌキ顔ともいえる愛嬌のある面立ちなのに、世俗を超越したかのような神々しい妖艶さに満ちている。


 たぶん、笑えば絶対にかわいい。絶対だ。間違いない。


 なのに、雲母さんは滅多なことでは笑わない。せいぜい、ほんの少しだけ口角を引きあげる程度。だから、もったいないなぁと思うこともないわけじゃない。


「乗れば思う壺」


 仏頂面のまま、右手で黒曜石の髪をかきあげた。鎖骨にかかる長さの、シンプルなワンカールロブスタイル。エアリーだけど変なクセはどこにも入ってなくて、前髪も、かきあげて早々にもとのシースルーバングへと戻った。


 どうしても見蕩れてしまう。


 かわいい。でも美人。和の美人。でも異国的。この星に存在しない国で崇拝されている女神のような異国感。でもメタル。このままステージにあがり、プログレッシブメタルなサウンドをデスボイスGrowlで煽りはじめそうなメタル感。Candice Clot がいたころの Eths『Crucifère』を連想させる、神国的エキゾチック重厚メタル感。


「空美もだ」


 弁財天サラスヴァティの調べに、はッと我にかえる。


「警戒心を活かしきれないのが空美の悪い癖」


「……はぁ」


 座りのある垂れ目に射貫かれ、毎度のように恐縮。


 1歩、まえに出る雲母さん。


「こいつの名は晶片小僧。表向きは仙童電脳遊戯シャンドンでんのうゆうぎというゲームセンターの店長だが、実際は底辺の人間。憶えておけ」


「はぁ、チップ、小僧、さん」


「敬称はいらない。不要」


 いつもよりも口数が多い。つまり、それだけリスキーな状況だということなのか。でも、もはや生命の脅かされる心配のないこの世で、少年──晶片小僧と関わることにいったいどんな危険があるんだろう。面倒事を拾う以外に、いったいどんな?


「……ひどいね?」


 ひさびさに、少年が口を開いた。


「酷い言われようだね?」


 が、その台詞とは裏腹に、相変わらず淡々としている。いつの間にかうしろ手を組んでいて、静観というか、様子見のたたずまい。


「まさか雲母さんに言われるとは思わなかったよ?」


 たぶん少年ではない。この落ち着き、すくなくとも私よりは歳上だろう。


「そっち方面のひとに言われるなんて不思議だね?」


 ちなみに、雲母さんは30歳で幽体となり、現在の合年は44歳──万里さんの1年先輩という構図になる。


「そっち方面のひとにそっち方面よばわりされるだなんてね?」


 私よりは歳上だろう、しかしどう見ても少年である晶片小僧が、そう言って私をちらと見た。そして、ね?──と念押し。


 思わず目をそらす。ホント、会ったこともないチンピラに出会した気分。


「由良雲母といえばそっち方面の人種──僕にはそういう認識だったんだけどな?」


「そう、なんですか?」


 怖々と反応したのが飛鳥だった。たぶんチンピラ特有の売り言葉なのだろうから反応しなくていいのに、純朴な少女にとってはこらえきれない話題だったらしい。不安そうに、私越しに雲母さんへと視線を馳せさせる。


 当の彼女は、瞳を座らせたまま晶片小僧を注視。


「そうだよ? そっち方面にも流通を持たせているひとなんだから、充分にそっち方面の人種だよ?」


 私は、人種とまでは思わない。


 雲母さんは工学技術者。しかも『冨嶽技研』や『ファルコン社』などの技術開発企業に属さない完全自営業フリーランスで、運搬用重機から義手義足の類、用途の知れないマシンまで幅広く手づくりしている。となれば、当然、コネクションも幅広くなるわけで、どのような裏社会へとリンクしているのか知れたものではない。


 テトさんや万里さんにしても同様だ。ふたりとも外仕事をしているんだし、フットワークも軽いのだから、危ない橋のひとつやふたつをわたることもあるはず。


 どこにどうリンクしているのか知れたものではないのがこの世なのだから、大事になってくるのは心意気やスタンスだ。なにをもって「そっち方面」というのかは定かじゃないけれど、危険度リスクの高い領域だということは想像できるわけで、ならば、絶対に「そっち方面」に染まらないとする心意気やスタンスが大事になってくる。


 雲母さんは、そっち方面の人種ではないと思う。病気や怪我で手や足を失ったまま幽体となってしまったひとのために、義手や義足を提供したりもしている。しかも、この場合は無報酬ボランティアで。慈善的な仕事だって進んで請け負う女性なのだから、つまり、彼女はそっち方面のではない。


「知りあいみたいだけど知らなかったの? 不思議だね?」


 反論したい衝動に駆られた。もちろん、売り言葉だということはわかってる。でも、反論し、擁護したくなる。もちろん、由良雲母という女性が擁護を必要とする弱者じゃないということもわかってる。でも、この喧嘩を買いたくなる。もちろん、喧嘩できるだけの勇気や技量なんて微塵もないという自己分析も、はるか昔から私にはできている。


 まごつく。


 視界の端、飛鳥も忙しなく戸惑っている。雲母さんと晶片小僧の表情を交互に注視。


 ……ヤだなぁ。


 せっかく、奏さん・律さん・眠さんからもらった建設的な気分が、ばらばらと音を立てて崩れていく。仙童フロントを物見遊山するための幸福なモチベーションまでもが、呆気なく、下手くそなジェンガのように瓦解していく。


 苦い気持ちで晶片小僧を睨んだ。


 余裕ぶった、得意そうな微笑み。


 腹が立つ。頭を揺らがせながらしゃべる癖にも、衒いのない小綺麗なファッションにも腹が立ってくる。身体もむずかり、自転車のハンドルを握る手が力んだり緩んだり。


 すると──、


「欲しがらない」


 左隣から、低い、地を這うようなつぶやき声。


「欲しがらない。欲しがらない。欲しがらない」


 サラスヴァティ・ヴィーナのルート音。


 はッとして、異界の女神を見た。


 笑ってた。


 愉悦の笑み。


「にんまり」という表現がしっくりくる。


 なんか……怖い。


 笑えば絶対にかわいいひとなんだ。でも、その笑顔じゃない。私の欲しい笑顔は、


「欲しがらない。欲しがらない。欲しがらない」


 そういうのじゃない。


 はじめて見る不気味な笑顔に、思わず釘づけ。飛鳥もまたことさらに目を大きくして雲母さんに見入っている。


 そういえば、以前、万里さんが言ってた。


『雲母だって笑うよ? 面白くなってきたら、にやぁって』


『にやぁ……ですか』


『これがまたスゲぇ不気味なのよ』


 面白くなってきたら、笑う。スゲぇ不気味に、笑う。


「欲しがらない。欲しがらない。欲しがらない」


 どうやら、いまが、そのときらしい。


「こぞう」


 不意に、そう言って雲母さんが1歩を踏みだした。


「小僧よ」


 晶片小僧に向かって、両腕を脱力させたまま、気怠そうに、


「欲しがらない。欲しがらない。欲しがらない」


 ゆっくりと歩んでいく。


 晶片小僧は、少し背筋を反らしているだろうか。相変わらず表情こそ落ち着いているものの、なんとなし気圧されているようにも見える。


「ちっぷ」


 充分に溜めを持って歩を進めていた雲母さんだったが、


「こぞう」


 彼のわずか1m手前で、ようやく、ぴたりと脚を止めた。左手で前髪をかきあげ、その手を腰にあて、ふたたび斜にかまえる。そうして、


「おまえ、なにをそんなに欲しがる?」


 いっそう深く、弦を鳴らした。




 

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