馥郁19號のペントハウス

 




 ザラザラと毛羽立つ壁のいたるところに、雨垂れだろうか、黒い跡が染みついている。蜘蛛の巣を想起させるクラックが縦横無尽に拡がり、補修のためではないのだろう意図不明瞭な貼り紙たちもまた賑々しい。プレゼントされる直前まで、馥郁19號はマニア垂涎の廃墟だったに違いない。


 そのニッチな外観には目もくれず、アプローチを経てエントランスに進入。打ちっ放しのコンクリートと煤けた鉄扉、管理人用の小窓以外にはなにもない空間を、孤独な蒼白い蛍光灯が静かに照らしている。


 ここでようやく私は全力疾走を止めた。それでも足早に奥へと向かい、突きあたりの扉を開放。ぎぃぃぃぃ──錆びた悲鳴がコダマする。自然に閉まることを忘れてしまった鉄扉を強引に閉めると、すぐに右へ折れ、一直線の長廊下を進んだ。そして奥行1/3のあたりに設えられてあるエレベーターを呼ぶ。


 案の定、最上階で止まっている。これにより、お客のひとりが怠惰レイジーな姉御であると確定。


 およそ3㎞の道のりを全力疾走し、なのに息があがっていない。幽体の持つ利点のひとつ。脚の速さや背筋力などの運動能力こそベネフィットに該当する年齢時のものが継承されるが、どうやら持久力だけは例外らしい。なるほど、幽体は心肺機能が機能していないのだから当然のことか──などと、エレベーターがおりてくる間に考える。


 暗くない?──とも思った。いつもと変わらないはずなのに。とうに見慣れているはずなのに。


 おもむろに天井を仰ぐ。あまりにも白が深まりすぎ、ほぼ群青色と化している蛍光灯。エレベーターの小さな階数表示灯のほうがまぶしい。


 鋼鉄の箱へと乗りこむ。最上階の15階へ。


 5人で満員になるだろう無機質なコンテナは、体重という概念のない私を孕んだまま、しかしカタカタと悶えながら上昇。この落ち着きのないモーションも幽体?──いつもの疑問を一瞬だけ考える。あくまでも倫力で動いているだけの話なんだけど。モーションは結果にすぎないんだけど。落ち着きがないのは、いうなれば、このエレベーターに残された産方のベクトルみたいなものなんだけど。知ってる。知ってて考えた。


 イライラと、こちらが落ち着かなくなるほどの長時間をかけ、あきらめたころにエレベーターは停止。持久力は無尽蔵なのだから階段を利用したほうが早いんじゃない?──ここでもいつもの疑問を一瞬だけ考える。でも、私には「走れば疲れる」というベクトルが残留しているらしく、いったん止まった脚を15階まで延ばすことに億劫さをおぼえなくもない。それに、先輩方が待機しておられるだろう緊張の極地を目前に、是が非でも息抜きを取っておきたいという欲目もあるらしい。私は「為せば成る」と考えるような勇敢な人間じゃないんだ。


 箱からおりる。すぐに反時計まわりにUターン、エレベーターの脇にある階段を踏みしめる。19段を数え、踊り場で折りかえし、さらに15段を数えたのち、突きあたりの黒い鉄扉を開けた。


 屋上。


 柵のない、パラペット手すり壁もない、だだっ広い、涼しいコンクリートの屋上。几帳面に掃き清められてある屋上。私のためだけの、静かな屋上。


 ここには、下界の澱んだ空気が漂っていない。大世界の混沌とは明らかな一線を画されている。私が画した。3年間を費やし、ここまで大切に育んだ。


 と、急に、


「ん……」


 強めの風が吹いてきた。頭上から真下へと吹きおろす、やわらかな風。でも、この長い髪の毛先をわずかに浮きあがらせるほどの、たくましい風。


 軽く頭を振って乱れた前髪を微調整、それから私は、ゆっくりと右を向いた。


 木造の平屋がぽつんと建っている。


 トタンで補強されたバラック小屋。


 でも、穏やかで、安らかで、静かなお家。


 陸屋根の 塔屋ペントハウス


 懐かしのたたずまいを視野におさめ、自然と安堵の吐息がこぼれた。長い1日が、やっと終わったような気がしたんだもの。


 ……長い1日?


「こんな毎日の連続?」


 ううん。違う。違った。そうじゃなかった。


「今日を生きてみるんだ」


 一日一番の精神だった。


 腰の左右に手を添え、志を再確認。ふたたび、手ぶらのままで前髪を微調整。吹きおろしの風はまだ吹いている。しつこいなぁ。無視しつづけようかとも思ったけれど、しょうがない。不承不承、左腕を肩の高さにまであげ、肘を折る。


 すると、その手首に、


「ぴぃ!」


 が舞いおりた。


 額から尾へと流れる焦茶色の斑模様に、強靭な黄色い脚、白くてふわふわな胸部、黒くて円らな瞳を持つ、私にとってはあまりにも冷たすぎる風。


 だって、今日も助けにきてくれなかった。


 なのに、お家へと着くなり、さも当然のことのように主人の頭上をホバリングし、早くしてよと急かし、やむなく手首をさしだせば、いとも簡単そうに舞いおりるんだ。だから、


「薄情者ぉ」


 低い声で恨み節。


 ところが、その語尾を待たず、まるで無視するかのように、ぷいっと彼女はそっぽを向いた。


「この薄情者!」


 まぁ、いつものことではあるけれど。


 だから、いいんだ。


 この薄情な相棒──長元坊のジゼルも、憩いのお家へと、いつもの景色へと、私の愛する静けさへと、やっと帰ってきてくれたんだから。




 

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