彩央フロント
焦りの脚で大世界を疾走。
さっそく、住居なのか店舗なのか廃墟なのかもわからない、煤けているということだけはわかる雑居ビルたちが統一感もなく肩を並べている。ビルとビルの隙間は0に等しく、決してショートカットのズルをゆるさない。ところが、路地は多岐に枝分かれしていて、難攻不落のラビリンスと呼ぶにふさわしい様相。
世界各地からこつこつと素材を集め、あるいは天文学的なパワーを持つアンテナから建築物ごとプレゼントされ、気の遠くなる歳月を経て、まるでウィンチェスター夫人の幽霊屋敷のようにいまも増築をつづけている
不揃いに設置される街灯。古い灯もあれば新しい灯もあり、前者は細々と、後者は爛々と炎を燃やしている。一説によると、物の幽体の倫力には限界がないらしく、たとえリルーズして欠片になったとしても、フィラメントなどの発光体だけは永遠に輝きつづけるのだそう。つまり、あの街灯は永遠に細々と燃えつづけなくてはならないんだ──そう考えたら少しだけ虚しくなった。
いや、虚しさにふけっている場合じゃない。頭を振って邪念を払う。光と影を交互に踏みながら、雑居ビルに挟まれる路地をダッシュ。グリーンであれば一瞬のうちに迷子になってしまうだろう、幾度となく折れ曲がり、分岐する路地を。最近になってようやく慣れた路地を。
軒下に「鬘」の看板をさげているお店の門前を通過。するとすぐ右手に、2mほどの高さの、まるで巨大な土管を横倒しにしたような半円形の
躊躇なく進入、あちこちに散乱するコンクリート片や潰れた空き缶、破れたチラシを踏む。その荒んだ地面を照らしているのは、これまた不健康そうなオレンジ色たち。等間隔に吊られる裸電球はどれもが煤け、いまにも絶えてしまいそうな顔色をキープしているものも。それから、半円の天井を縦横無尽に支配しているのは、おびただしい数の電気配線。赤・青・緑・黄・黒・白──ダストに塗れて黒ずんだ毛細血管が複雑に絡みあい、のたうっている。
あれらの電線の内部にも倫力の電流が走っているんだろうか。で、どこに供給されているんだろう。なんの目的で配線したんだろう?──ポンコツ紹介屋の私にはそこのところがわからない。そりゃそうか、だって私は電気屋じゃないし──ムダなことを考えている間に隧道を脱出。
今度は、見あげるほどの土手に四方を囲まれている広場があらわれた。八王子の児童公園を少しだけ広くした面積。でも、ここには霞草の花壇もベンチもない。中央に蒼白い街灯が立つのみで、他にはなにもない。がらん。
寛いでいる幽体の姿もない。というより、ここまでだれともすれ違わなかった。
孤独な静寂を楽しむこともなく、隧道を抜けた勢いのまま、正面の土手にかかる階段を駆けあがる。すると、またもや雑居ビルたちが横柄に肩を並べ、これでも配慮してやっているのだと偉ぶらんばかりに狭隘な路地を提供。点在する街灯の光量もやっぱりまちまちで、革屋・土瓶屋・錠前屋などの建前を廃墟さながらに仕立てている。ところが、煙草の空き箱やチラシや電線だけは綺麗に浮かびあがらせ、まるでアウトローな世界観に憧れる新米
幽体の姿は、まだない。
途中、丁字路を迎えた。これを右折、道なりに1㎞ほど進めば、大世界に52ある繁華街のうちのひとつ『
そこは、ネオン管が淫靡な記号美を描く世界。妖しさ、いかがわしさ、太々しさ、毒々しさ、禍々しさ──あらゆる胡散くささが丁寧に醸造される世界。快楽主義がゆいいつの正義となっている、それはそれはダイナミックな世界。
老太フロントの住人はみな、生活の利に敏感で、それが欲望へと移ろおうものならば抜かりなく商売へと転じさせる者ばかり。利他の徳義を嘯いては周到に利己を満たす者ばかり。秩序を利用し、捷径を打算し、欺瞞に傾倒し、ペテンを崇拝する者ばかり。
もちろん、大世界になくてはならない繁華街なのだけれど、私はあのネオンサインの手招きが苦手だ。一線を越えさせられそうな麻薬的臭素を感じてやまないから。
ならば当然のこと、私は丁字路を右折しない。まっすぐに駆け、お家のある住宅区域『
とはいえ、こちらの路地も徐々に秩序を失っていく。まるで見限られたかのよう。
道の左右には錆びたトタンやドラム缶の残骸が転がり、重ねられた植木鉢が倒れている。絵柄の読めないスチール看板・扇風機のファン・ヒビの入ったU字便座・丼の破片──どんな趣味で持ちこまれたのかも定かではない謎のガラクタたちがやすやすと落ちている。さらに、ビルの壁面には紅いスプレーで「安全第一」と記され、無意味な戒めが退廃の後押しをしている。
ガラクタの量と反比例するように、街灯の光は朧気に。そろそろ一軒家も混ざりはじめるが、どれもトタンのバラックばかりで、どろりと粘り気のある闇を軒下に蝟集している。いまにも
臭い。焼けたアスファルトに夕立が弾かれたときのような、埃臭い刺激臭。私は苦手だ。自然と眉間に皺が寄る。
幽体の姿は、まだない。数十億人はいてもおかしくない幽体と、まだひとりもすれ違わない。
そういえば、
『おまえ、ここに用はないだろう?』
このあたりだったか、通りすがりに男に声をかけられたことがある。幽体となって1週間と経たないころ。
『用のない顔をしてるよ』
もともとは白かったのだろう、墨の色に汚れたタンクトップを着る男。観相50代の、小太りの、禿頭の、ヒビの入った黒縁眼鏡をかける男。
『ここは、用のないヤツには用のない場所さ』
上目づかいで、卑屈な印象。
『わかったら、とっとと帰れ』
怖かった。
このへんの幽体は新参者を歓迎しない──最近になってようやくわかったことだ。でも、帰れと言われたときにはただただ怖いと思うだけだった。怖くて、悲しかった。だって、幽体になった私の帰る場所なんて、もうどこにもないのだから。
どこに帰れと、彼は言ったのだろう?
あの一瞬の出会いを最後に、真意を明かさないまま男はいなくなった。べつの街へと移り住んでいるのかも知れない。それとも虜囚霊となってどこかに座りこんでいるのかも知れない。いや、ロストしたのかも知れない。
それから、
『この奥には、なにもない』
節穴だらけの木造平屋、この軒先では老婆に話しかけられたっけ。
黒く錆びた鳥籠が庇にぶらさがるその真下、ゴミや汚水の染みこむ地べたにあぐらをかく老婆。ボロを羽織る、垢に塗れた老婆。痩せた身体、痩せた白髪、痩せた声の老婆。
『ろくなものはない』
痩せた瞳を、永遠の夜空へと向けていた。
『特に、あんたみたいな欲しがりにはな?』
開いた瞳孔も、夜だった。
『なにもない。なにもないぞ?』
しかし、あの日を最後に、彼女もまた消えた。いまは鳥籠だけがぶらさがっている。主のいない、まっ黒な鳥籠だけが。
さらに直進し、斫屋の廃墟をすぎて右に折れ、わずかに上り勾配の道を走る。50mほど進んだ突きあたりを左折、煉瓦づくりの隧道へと突入。たったひとつきりの裸電球が照らしだすものは、左右の壁、一面にびっしりと貼りつけられたチラシの数々。そのいずれにも「健美・飲有・晶片・遺失聲明・可以通行・22號地下・不可思議的體驗!」──本当に日本の景色なのかと首を傾げたくなるような売り文句ばかりがひしめきあっている。
10mほどの短い隧道を抜ける。すると、左前方にひときわ背の高い建物が見えてきた。
15階からなる集合住宅。
『
ここが、私の住むところ。
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