Scene 10
明日をもう1度
悪いのはトラックの運転手だ。車道の左側を走っていた吉瀬翔子は、道交法を遵守していたわけで、だから、なんの落ち度もない。惨劇の起こる前日に告白をした幼馴染みにも、こんな結末を迎える娘を産んだ両親にも、落ち度はない。トラックの運転手以外に、だれも悪くない。
それでも、私は責任を感じている。自分の惰弱さに、強く。
安心や納得にはいたらせられないまでも、無敵だった少女をあそこまで惨い状態に陥らせることはなかったはず。きっと、方法は他にあったはず。
格差社会の上位に恵まれているくせに、自分の立場に甘え、溺れ、痴れ、あげく不承不承に出向いた自分が情けない。もっとイルマ姉さんから詳細を入手しておくべきだったんだし、確実にお断りをし、例えばテトさんに任せることもできた。
過信した。のこのこと出向いてしまった。翔子の初恋のベクトルを悪い方向へと導いてしまった。初恋とは、すくなくともあんなふうに変貌させていいものではない。負の遺産にしていいものではない。
初恋。
だれにだって初恋はある。いや、無いひともいる。恋愛にまつわるベクトルに恵まれないまま延々と幽体人生を歩むひともいる。この世の存在を知らない多くの生体にとって、若くして他界したひとは初恋とも無縁だったと思うことだろう。悲しみ、嘆くことだろう。でも、そんな悲哀の感情が彼らの初恋を励ますことだってある。それほどに、初恋というものは真摯な前書きなんだ。多くのひとの内側にあり、いつの日にか必ず救済してくれるもの。
私にだって、ある。
私の初恋は、まだ恵まれているほう。翔子のように第三者の過失によって強奪されたわけではない。ありふれていて、ありきたりのまま静かに終わっていった。
だから、なおさらに自分の過信が悔やまれる。もはや「過失」と言ってもいい。
ちゃんと断ればよかった。断る勇気を出せばよかった。
☆
「こないだね?」
笑窪が熱を帯びている。Vanessa Carlton『A Thousand Miles』を思わせる、幼けなさと淑やかさ、清純さと壮大さをあわせ持つ笑窪。季節の幻想を知る、だから大切にしたくなる、まるでタンポポのような笑窪。
「友達から聞いた話なんだけどね?」
21時20分──アロマショップ『
淡い木目を基調とするウォームな装いの店内。やわらかなハーブたちの香りにスマートなブラックミュージックが融和し、そろそろ起きはじめた宵をイメージさせている。
「実家のお母さんに電話してたんだって」
お客さんの姿はない。このお店は20時に暖簾をしまう。メインホールの片すみに置かれる長机は、いま、私と小夜ちゃんの貸切状態。これは滅多にない優越感だ。
「そしたらね、ぽとって、天井からなにかが落ちてきたんだって」
流れる音楽は、Grover Washington, Jr.『Just The Two Of Us』。若者の青春ばかりを後押しする現代日本の音楽シーンではなかなか拝聴できない、時代を超越した大人のサウンド。その、世界の広さを痛感させるスモーキーなメロディに、しかしアジアンな金木犀のアロマが違和感なく漂っている。デリケートに抽出された、これは店主の最高傑作だ。だって、調合された香りなのに、私の
「なんだろう?──って、拾ってみたら」
音楽と芳香に揺蕩う時間。できれば、終わってほしくない時間。
「……なんだったと思う?」
対面の席から送られるのは、くりくりっとした挑戦的な瞳。まぶしくて心が吸い寄せられる。
「天井からでしょ?」
「そう。ぽとって」
「大きさは?」
「指で摘まめる程度」
「えぇぇ。なんだろう?」
学部内では「不思議ちゃん」で通ってる。その通り名の由来は、論文のテーマが『見えないものをどう見るか?』だったからなのだそう。一定の環境をあたえたとき、文豪たちはどうとらえ、どう見るのか?──太宰治ならば、芥川龍之介ならば、宮沢賢治ならば、ウルフならば、トルストイならば、カフカならばどう見るのかという疑問符を、彼らの作品の
「埃じゃないんだよね?」
「埃じゃないんだなぁ」
「んー。わからない。なに?」
あたえる一定環境というのが、例えば「もしも大地震の予知夢を見たら?」とか「もしも世間との交流を断たれたら?」とか「もしも幽霊と親交を持ったら?」──などなど。
だから「不思議ちゃん」なのだとか。
変なの。
だって、謎は無知のものであり、不思議は先入観のものなんだもん。
情報や知識が不足していれば、ひとは「謎だ」と思う。また、Aだと思いこんでいるときにAではないものと出会せば、ひとは「不思議だ」と思う。ただそれだけのこと。
つまり、学部内のだれもが小夜ちゃんのようなひとと出会ったことがないだけなんだ。小夜ちゃんのようなひとではないひとのことを「普通のひと」と思いこんでいるだけなんだ。自分の狭い見識の範囲が常識のすべてなのだと、勝手に思いこんでいるだけなんだ。
でも、なにも特別視して遠巻きに見る必要はない。知れば謎ではなくなるし、先入観を捨てれば不思議でもなくなる。
それが証拠に、小夜ちゃんはこんなにもかわいくて、こんなにも人懐こくて、こんなにも思いやりのあるひとなんだ。謎のひとであるはずがない。
「落ちてきたもの、それは……」
こんなにもあたりまえのように幽体の私と接してくれるんだ。不思議なひとであるはずがない。
「……爪」
「ワット!?」
キャッシャーの丸椅子に座り、私たちの会話を黙々と聞いていたアダムが叫んだ。
「つめ? えっと、それは、Nail?」
右の人さし指をそびえ立たせる。長くて綺麗な人さし指。
「そう、ネイル! 爪切りでパチンッて切った、ネイルの欠片!」
「ワォ!」
興奮している。
「面白いね! それ、ミステリーね!」
『間とか』の主人、アダム・クローネンベルグ。すでに不惑の歳ながら、身長187㎝で、若々しい。ブロンドとエボニーの混ざるボブの髪はざっくばらんに、でも清潔に、自然にセットされているし、小さな垂れ目はいかにも優しそうだし、薄めの唇の口角は常にあがっていてあたたかみがあるし、エラの張るホームベース型の顔の輪郭は男らしいし、中肉の身体つきは、でも太っているようには見えず精悍だし。なによりもエメラルドグリーンの瞳が美しく、神がかった引力がある。
少年の面影を残していてハンサムだ。Goo Goo Dolls『Iris』がとても似合う。
アメリカ合衆国のサクラメント出身。15年前に来日して以降、ずっと日本に住んでいる親日家。アニメが大好きで、コスプレが大好きで、秋葉原のイベントの常連さんでもある。
「空美の世界に、そういうこと、ある?」
薬剤師を経て母国の大学で薬学を教えていたそうだけど、なにを思ったのか本業をすっぱりと辞め、ただの趣味にすぎなかったアロマテラピーの知識を引っさげて来日、西東京市の片すみにショップを開いた。
「ていうか、空美、爪、伸びる?」
文字どおりのワイシャツに水色のジーンズとくれば、いかにもホリデーのアメリカ人をイメージさせる。でも、彼は温厚で、どっしりとかまえていて、アメリカン特有の無計画なノリや
アダムもまたアンテナだ。
この『間とか』は、20~23時の間だけは幽体専用のフリースペースとして開放される。アンテナも利用でき、日中のショップ然とした雰囲気はナリをひそめ、さながらカフェのような趣になる。幽体にプレゼントした雑誌や小説や絵本も並び、会話を楽しむもよし、ひとりの時間を満喫するもよしの、まさにラグジュアリースペース。しかも無料。アロマや新刊雑誌などのコストが心配になるけれど、そこは困ってもいいらしい。
『ボランティア? No。趣味ね』
太陽の紳士は微笑んだ。
『趣味だから、困るのも喜びのうちね』
なんて嬉しい言葉なんだろう。
「
「爪は伸びないんだよね」
「やっぱりそうなんだ!?」
「うん。生命維持活動はもう必要ないから」
「そっかぁ」
幽体は眠気をおぼえない。性欲もないし、お腹もすかない。確かに食べ物の幽体を口内に入れて風味を味わうことはできるけれど、残念ながら飲みこめない。幼い子供がなかなか肉料理を飲みこめず、口のなかでモチャモチャしているような状態が延々とつづく。だから、ベクトルによっては、咀嚼しつづけている状態にストレスを感じるひともいる。私がそう。なるほど、産方の私には、まだやわらかいうちにガムを飲みこむ悪癖があった。
「ていうか、小夜ちゃん、その友達が電話してた部屋って何階にあるの?」
「2階の、自分の部屋らしいんだよね」
「何階建て?」
「2階建ての、2階」
それを聞いたアダム、口を半開きにして天井を見あげた。
「じゃあ、そのうえは屋根ってこと?」
「部屋の類はないらしいんだけど、たぶん、ある程度の空間はあるんじゃないかなぁ」
「あぁ。電気配線とかのある屋根裏スペースだね」
アダムはまだ天井を仰いでいる。
「切った爪が天井には……それはないか」
「うん。さすがに2mも飛ばないもんね」
爪を切ったのは何年前のことだろう。引きこもっているときには切るのが億劫で、やがて爪切りが親の許可制となり、ほぼ伸ばし放題だった。
いまは満足に整っている。爪も髪も肌理も、ベネフィットのおかげで若々しくしていられる。13歳当時のベストな見た目。
「うーん。不思議だ」
などとつぶやいてみる。そもそも私が不思議な存在なのに。もうあの世には存在していない存在なのに。
「ね? 不思議でしょ?」
「言伝屋の仕業だったりして」
「あはははは!」
とたん、笑窪が頬に舞う。
「言伝屋、あるかも!」
それが言伝屋の仕事。闇雲にツイートするばかりでアイディアに乏しい怨吐霊の訴えを、遺族や加害者など、関係者に向けて代弁する職業。ただし、決してわかりやすいメッセージにはしないのだそう。思わず唸ってしまうような、奇妙で印象的な
活動霊にもいろんな事情があるものだ。
「空ちゃんの身近に言伝屋のひとっている?」
「仲買屋ならいるけど」
「万里さんだ」
「うん」
絶世の美女、
「面白いよね。空ちゃんのいる世界って」
「そうかなぁ」
「ユニークって意味だよ?」
なるほど、やっぱりそう。視点を変えれば、謎でも不思議でもなくなるんだ。
というか、ユニークって表現、いいかも。なんだか嬉しくなる言葉。
「あたしも、いつか行くのかなぁ」
感慨深げに小夜ちゃん、さっきのアダムのように天井を見あげた。
すでに他界しているお祖父さんの
『捜索するのはあたしたちだけど、念のために空美も気にかけといて?』
万里さんにはそう言われたが、あいにく、いまだに紹介屋として手一杯の日々、とてもお祖父さんを探しているどころではない。だから、小夜ちゃんに対して申し訳ない気持ちもある。でも、彼女はあっけらかんとしていて、依頼の進捗を尋ねてこない。それどころか、私のことを「空ちゃん」と呼んで慕ってくれる。この世のルールを面白がり、でも幽体を特別視せず、あくまでもおなじ人間として接してくれる。当然、申し訳なさは募り、同時に、甘えたくもなる。
『でもですね、その相反する気持ちこそが親友の条件なんですよアスカそう思います!』
飛鳥は深くうなずいてくれたものだけど、そういうものなのかな。そうだったらいいのにな。
天空を仰ぐ小夜ちゃん。お祖父さんのことを思っているんだろうか。どこにいるとも知れない、大世界に隠遁しているのかも知れない、もうすでに昇華霊となって成仏しているのかも知れない、愛する家族のことを。
仰ぐのをやめたばかりのアダムも、小夜ちゃんに釣られてか、ふたたび天を見あげている。彼もまた、身近なひとのそばにある
生体にとって、死後の世界は常に空にある。だから、死を思うとき、ひとは必ず空を見る。
すぐ目のまえに
もしかして、
『私……青空に落ちたのよおッ!』
宮城セツもまた、空を見ていたのだろうか。そして、実際に青空へと逝き──生体の追い求める理想を叶えたということなのだろうか。だから覚醒してしまったのだろうか。それは、
手も足も出なかった。九十九さんは、すくなくとも手は出せた。私にはできなかった。なにもできず、出せず、無力なまま、手ぶらのまま、彼女を青空の公園に置いてきてしまった。置き去りにし、置いてきぼりにしてしまった。
宮城セツにとっては、それも幸せなことなのだろうか。ホントのホントに
「空ちゃん」
呼びかけられ、とっさに視線をあげる。
両の頬杖をつき、笑窪の小夜ちゃんが優しいまなざしを向けていた。
「ん?」
「ううん」
小さく首を振りながらも、じっと私を微笑んでくれている。
アダムにも、大らかな微笑み。
今日、私になにが起こったのか、小夜ちゃんもアダムもあえて聞かない。もちろん聞いてほしいと思うときもあるけれど、だからといってふたりにはどうすることもできない。結局、打ち明けた私自身が虚しくなるだけだろう。まるでそんな結末を見通しているかのように、ふたりとも、私の悩みの理由を聞かない。ただこうして微笑むだけ。冷たい態度のようにも見えるけれど、でも、とても優しいことなんだ。
『ヱルフ』から河岸を変えて1時間半の間、私はまだ泣けそうになくて、思いだしてしまう後悔があって、項垂れるばかりで、でも、いつも優しい微笑みがいてくれる。ついていてくれる。
敏腕紹介屋のテトさんと出会い、万里さんや雲母さんや飛鳥と出会い、小夜ちゃんと出会い、アダムと出会い──なんて私は恵まれているんだろう。格差社会の上位にいながら、微笑まれる幸せに蓋をするところだった。目先の悩ましさを放棄したいと願うあまり、園生を彩る美しいタンポポと、豊かなアコースティックギターを、看過するところだった。
微笑まれ、報われた。
勇気をもらったんだ。
幽体にだって明日はやってくる。いや、むしろ幽体だからこそ否応なしに明日はくりかえされる。永遠に、永遠に、永遠に、くりかえされる。
ときに、狂おしくもなる。
だけど、明日をもう1度──そう願えるほどの勇気を、私は今日も、もらうことができた。
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