覚醒霊

 




 新宿駅東口、スタジオアルタが目前に控える最後の階段、


「死ぬ 直前ちょくじぇん の精神状態をフィルムに焼きちゅけたようなのことを、覚醒霊と呼ぶ」


 華奢な白スーツのホストにベビーカーごと背負われる九十九さん。


「ショック、です」


前回じぇんかいが前回なだけになぁ?」


 わざわざ語尾をあげて言うと、両の、虹色の袖を扇ぎながら、


「ひゃひゃひゃ!」


 呵々大笑。


「笑い事じゃ……」


「滅多にないことだよ」


「え?」


「5万回に1回。年間でおよしょ60人」


「60人?」


「シュカイダイビングの死亡件数しぼうけんしゅう


「し……」


「ひゃひゃひゃ!」


 心が地面にメリこむ。


 私には、躁状態の塊となっているセツを静める手立てがなかった。それどころか、思いがけない九十九さんの助け船を迎える始末。


『もう放っとくしかない』


『でも……』


『テトちゃんでもムリだろうね』


 こうして私は、彼にうながされるまま、あの小さな青空の公園に、恍惚の彼女を置き去りにしてしまった。


「ワシも、滅多に見れんモンを見たわい」


「え?」


空美しょらみの泣き顔」


「う……」


「ひゃひゃひゃ!」


 手ぶらのままで公園をあとにし、八王子駅に着くまでのおよそ45分間、私は泣きどおしだった。


 なんにもできなかった。


 いや、なんにもしなかった。


 さっさとお家に帰りたい、引きこもって静かにしていたいというその一念で、なんの用意もせず、なんの知恵もなく、なんの覚悟も持たず、人見知りに緊張し、覚醒に戦慄し、竦然と狼狽し──どうかしてた。


 それが悔しかった。


 それが悲しかった。


 それが虚しかった。


 泣くだけ泣き──調律ちょうりつし、落ち着いたころにはすでに中央線の車内にいて、八高線のほうが早く帰宅できたかも知れないと気づいたころには、すでに新宿駅のお腹へと吸いこまれていた。窓のそと、灯りはじめる街並を目に焼きつけながら、私はふと、長い1日になりそうだなぁと他人事のように思っていた。精一杯の気付けだった。


 でも、まだ心が騒いでる。


『覚醒霊に打つ手なし』


 みんな、必ずそう言う。


 でも、本当にそうなのかなぁ。なにか手立てがあるんじゃないかなぁ。いや、ないならないで、せめて九十九さんのように対応していれば展開は大きく変わっていたかも知れない。それを機にあわよくば


「期待しゅんなよ、空美」


「え?」


「覚醒霊にも、自分にも」


 ぎろり。ビー玉の瞳が睨めつける。騒ぐ心がさらに地面に食いこむ。


 からからからから。


 本来ならば薄闇であるはずの、そうはさせないアルタ前の道路。ここにもいろんな幽体がいる。洋服の幽体。ニッカズボンの幽体。着物の幽体。着流しの幽体。兵装の幽体。ボディコンの幽体。スーツの幽体。セーラー服の幽体。かつてホームレスだった幽体もいる。みんなみんな、親しんだ故郷まちへと戻ってきた。


 九十九さんもそのひとり。


 九十九つくも孔明こうめい。78年前、新宿御苑の程近く、新宿1丁目で産声をあげる。しかし、第2次世界大戦のはじまる少しまえ、わずか2歳のときに、彼は無惨にも炎に包まれた。


 事件が起きたのは石囲いの焼却炉、その分厚い鉄扉の向こう側。そして加害者は、だれあろう、じつの母親だった。


 異変を察知した侍従たちが果敢に救いだすも、言葉も知らぬ幼子は、すでに赤黒く焼け爛れて事切れていた。


『泣くに泣けんよ』


 九十九さんはそう回顧する。


『母者の二の腕の弾力が、気ぢゅけばとうに大鋸屑おがくじゅのうえ。なにがなんやらワケがわからん』


 でも、詳細までは語らなかった。


 経緯を、だから私は知らない。家督争いのすえの発狂だとする意味不明な噂は聞かれる。確かに、九十九さんの生家は当時の新宿で随一の富豪だったのだそう。すでに戦火で焼失しているものの、箱根にある銃後の分家はいまも健在、本家の歴史的殺人事件などドコ吹く風で、隆盛の旅籠をかまえているらしい。


 弱冠も弱冠、2歳で幽体となった九十九さんは、私のお家の大家さんでもある円蛇さまに拾われ、事実上、この世の生粋の住人となった。聞けば、円蛇さまからは、あの世では児童虐待だと通報されてもおかしくないほどの理不尽な教育を受けたのだという。でも、そのスパルタ教育が功を奏したか、もとからの才能か、わずか12歳のときに情報屋の看板を掲げると、持ち前の情報収集能力・情報処理能力・情報分析能力を存分に発揮、たやすく新分野の開拓に成功した。現在は、歌舞伎町のドまんなか、かつてコマ劇場がそびえていたエリアに事務所をかまえている。勘が鈍るからと大世界ダスカに拠点を置くことは避けているそうで、


『円蛇のババァもうるしゃいし』


 皮肉っぽく笑いもした。


 九十九さんが殺された理由に興味がないわけではない。ただ、彼の卓越したキャリアが詮索をゆるさない。業界屈指の情報屋として、ありとあらゆる幽体から分厚いリスペクトを受けている。いや、生体からも別懇に信頼されているほどで、イルマ姉さんもそのひとり。あのテトさんでさえも頭のあがらない存在。である以上、まさか私ごときが理由の詳細を強請れようはずもない。空美しょらみ、空美──と舌足らずにかわいがってもらっているだけでも、奇蹟なぐらいなんだ。


 現代情報屋のパイオニア。九十九さんはすごいひとなんだ。事実、今日も助けてもらったんだし。


 ちなみに、九十九さん、実年齢でいえば80歳の老人だけど、身体機能は2歳児のままなので、いまだに「し」以外のサ行をうまく発音できない。たまに「つ」が「ちゅ」になったりもする。声質もまるでヘリウムガスを吸った幼稚園児のようだし、はじめて会ったときにはホラーを感じたものだ。


 からからからから。


 白いスーツをぱりッと着熟し、なのに黙々とベビーカーを押しつづけているのは、九十九さんの。まったく歩けないわけではないものの、よちよち歩きでは仕事にならないからと、こうして彼にベビーカーを押させている。


 彼の名は、王子おうじ


 産方には歌舞伎町の有名ホストクラブに勤めていたそうで、お客さんに自分のことを「王子」と呼ばせていた。そして、仮にも白スーツの着用が認められる超一流のホストであるにも関わらず、プライベートで8人の趣味カノを囲っていたのがそのうちのひとりにバレ、ついに店の裏の分別ヤードで頭をカチ割られた。そぼ降る雨に冷える晩夏の、よもやの丑三つ時に。


 ヤツならば殺されてあたりまえだと、同僚は口々に嘲笑したのだそう。そして殺した女のほうはといえば、6年の服役ののちに出所、すぐに結婚し、いまでは幸せな家庭を築いているのだそう。


 みごとに幽体へと転身した王子、さっそく九十九さんに拾われ、いや、拿捕され、どれほどのおそろしい教育を受けたのかは知れないが、もう2度と口をきくことはない。エンもユカリもない私たちから勝手に「王子」と呼ばれても、反論することも、得意になることも、睨みをきかせることもない。ましてや、だれを囲い、侍らせることも叶わない。もはやよりもヒドい状態。


 浮浪霊の典型だ。気の毒といえば気の毒かも。


 ちなみに、初号機はどうしたのかというと、


『ん? あぁ壊れた壊れた』


 不穏なことをコトもなげに言う九十九さん。


 からからからから。


 王子はひと言もしゃべらない。削れた頬も、冷えた唇も、疎らな眉も動かさず、虜囚霊をほうふつさせる死んだ魚のような目で、主人にうながされるままに黄色いベビーカーを押しつづけている。


「覚醒霊は、ある意味、生きうちゅし」


 信号が青に変わり、流れはじめる横断歩道。と同時に、中古車ショップが朗々とコマーシャルを歌いはじめ、飴細工のようなCGを九十九さんのビー玉に映す。覿面に釣られたか、私は自然とスタジオアルタのパブリックビューイングを仰いでいた。


 でも、


「ゆえに」


 この目にはなにも映らない。


ちゅよい気持ちが、しょの場に宿る」


 この耳にはなにも響かない。


「あの公園は、心霊シュポットになるな」


 宮城セツの姿が、頭から離れない。


「ファベーラになる」




 

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