Scene 08

起因 ~ 宮城セツ

 




 からからからから。


 東口改札を出て左折し、原宿を凌ぐほどの人類の大海へと挑む。しかし、その、不眠でいれば永遠に生きていられると盲信してやまない無謀な生命の圧力に、私は挑むと同時に敗北している。永遠なのはこちらのほうなのに、あたかも呼吸を奪われたかのような息苦しさをおぼえ、あるはずもない水面を探しては思わず仰いでしまう。


 新宿。


「不夜城」と呼ばれる。しかし、私はその比喩がふさわしいとは思わない。なぜならば、この街には夜の訪れを信じているナチュラリストがひとりもいないから。むしろ、人工物のほうこそが絶対の摂理であると定義し、あらゆる明暗を、あらゆる季節を、あらゆる時間を、あらゆる現象を、自分たちの力で創りつづけようとしている。ということは、この宇宙に太陽という自然物は存在しないということになり、太陽が存在しないのだから夜もまた存在しないということになり、夜が存在しないのだから「不夜城」という比喩もふさわしくなくなる。


 やはり、新宿は「新宿」とすべきだ。


 この街を歩くとき、私は自分のことを異物だと思う。いや、産方のときにも異物だと自負していたような気がする。なにしろ、この地球は属性の異なる許多の世界がモザイクタイルのように組みあわさってできており、新宿もそのうちのひとつであり、私の息づく世界とは天地ほどの違いがあると本気で信じていたから。いわば、エイリアンの栄える謎の惑星であり、言語も、ジェスチャーも、セオリーさえも異なっていると信じていた。私のほうこそ、宿にとってのエイリアンなのだと信じていた。そして、Sting になれないまま私は死んだ。


 かつて、よその街へ行くための中継地点として利用する以外に、新宿を闊歩することはなかった。そんな私が、死んではじめて歩いた。いまでは頻繁に歩いている。相変わらずの異物感は抱きつつも、異物に恥じないよう、慎ましく歩いている。


 ただ、


「ま、しかたがないしゃ」


 今宵の私は落ちこんでいた。いつものように慎ましく歩けず、むしろ惰性的で、何度も何度も通行人に透けそうになってしまう。まるで自分の身体ではないみたい。


 もちろん、


空美しょらみのせいじゃない」


 彼の言葉どおり、今回にかぎっては私に責任はない。私に落ち度はない。私は悪くない。


 でも、動揺や感傷や自責──抱えきれないほどの負の思考が混ざりあい、どろどろと粘り、重みを増してこの顎を項垂れさせている。


 彼女を、置き去りにしてしまったのだから。





 宮城セツ。


 ともすれば平凡なままに人生を終えていたかも知れない彼女は、人間万事塞翁が馬か、テレビや雑誌に取りあげられる晩年を送ることとなった。ハツラツおばあちゃんとして。アスリートおばあちゃんとして。天翔けるおばあちゃんとして。


 セツは、どんなことにも挑戦する女性だった。マラソン・重量あげ・ボルダリング・マウンテンバイク・バンジージャンプ・徒歩による日本列島縦断・名代な山々へのクライミング・スキューバダイビング・スカイダイビング──取りわけ、スカイダイビングに熱心で、世界各地でのタンデムを経験、70歳の手前でAライセンスを取得するほどだった。そしてちょうどこのころ、彼女はNHKの密着取材を受けることとなる。ひいては、わずかながらにインターネットをも賑わせた。


 どれだけ衆目の的にさらされようとも、年齢を考えろ、危険すぎるという批判を受けようとも、まるで青空に取り憑かれたかのようにセツは翔けた。ライセンスを取得してからは他の冒険を主軸に据えることもしなくなった。あくまでもスカイダイビングのためのジョギング・筋トレ・ヨーガ・栄養学・冒険だった。


 日増しにエスカレートしていく彼女の挑戦を、しかし、家族は止めようとしなかった。息子兄弟とその夫婦は、無謀で無茶な母を、むしろ誇らしく見守ったのだという。


 なぜならば、一時、セツは抜け殻だったから。


 埼玉県川越市の平凡な家庭に生まれ、平凡なままに尋常小学校、中学校を卒業し、小さな蚕糸工場の社員を経て花屋の売子へと転身したセツ。


 32歳にして常連客の男と遅咲きの大恋愛。時、安保闘争のまっただなかで、自分たちの学生時代を喫茶店の片すみで顧みあうデート。そこにはマルクスもエンゲルスもなく、毛沢東も柳田謙十郎もなく、アジビラもタテカンもなく、内ゲバもサイレントマジョリティもなく、樺美智子の事件に学生運動そのものに対する疑問こそ抱きながらも、しかし、ノンポリを決めこむデート。平凡なデート。


 2年後にはそのひとと結婚。子宝に恵まれるも、決して裕福な環境ではなく、やがてバブル経済の崩壊も経験、前途洋々と呼べるような履歴なんて皆無に等しかった。


 それでも、セツは平凡な良人とともにあった。ともにあることが最高の幸福なのだと、逼迫などタカが知れているといわんばかりに。そう、前途洋々な履歴は手に入れられずとも、艱難辛苦ともならない毎日だったんだ。きっと、彼女の胸のうちは真の幸福で満たされていたのだろう。


 生体の時間には、かぎりがある。


 28年間を連れ添った良人おっとを亡くした。くも膜下出血。宮城セツ、還暦の折りのことだった。


「生き甲斐だったのしゃ。彼女にとっては、生き甲斐こしょが 唯一ゆいいちゅ の生き甲斐だった」


 ご飯の支度が整ったと報され、空返事をする毎日。点けているだけのテレビと向きあう毎日。眠くもないのに横たわる毎日。思いだしたように起きあがっては仏前に座りこむ毎日。そのまま、うつらうつらと正座のまま眠りこむ毎日。空閨の毎日。抜け殻の毎日。


 そんなある日、夢も希望もないセツが動いた。動かしたのは中学時代の友人。マラソンが趣味の女で、ホノルルマラソンへのエントリーを誘われたのだ。


 当初はまったく乗り気でなかったセツ。でも、旧友との懐かしい再会ということもあり、触発され、間もなく未知の大地を駆けた。


 もちろん、途中棄権。


 よほどリタイアがこたえたのか、落胆するどころか、彼女は躍起になった。次回こそは完走、完走、完走──と。


 トレーニングの日々が幕を開ける。


 ウェイトトレーニングはもちろん、栄養管理や睡眠調整や環境改善にも着手。モチベーションを切らさないようマラソン以外のスポーツ分野にも手を伸ばした。図らずも若者との出会いが増え、彼らとの新鮮な交流も支えとなり、おかげで国内外のマラソン大会をことごとく完走。そして4年越しのホノルルマラソンにて、ついに念願のリベンジを達成。


 激情とは無縁だったセツのまさかのガッツポーズ。その姿には息子たちのほうがドヨめき、ほっと安堵の笑みをこぼしたものだった。


「ひとたび深い 喪失しょうしちゅ を経験しゅるとな、復帰してからが引くに引けなくなる」


 リベンジ達成以後も、セツは片っ端からミッションを探しては挑んだ。引かず、引きあげなかった。できることはなんでもやった。過信もあっただろう、しかし躊躇わなかった。


 こうして、


「生き甲斐は、なににもましゃる盲目よ」


 スカイダイビングと出会うことになる。


『ここ、青空なんでしょう?』


 83歳のダイビング。


 年齢的に、きっと最後のダイビング。


 ラストダイビング。


『ここが、青空……』


 蜘蛛の巣のように絡むパラシュート。


 予備リザーブも開くことなく、錐揉み降下。


 風に煽られ、流され、目測を失い、ぐるぐると永遠の螺旋を描きながら、セツは、


『私、落ちたの!』


 グアムの海に消えた。


 水平線の溶けた海に。


 青い青い楽園の海に。


 平凡とは無縁の海に。


 まるで、青空のような海に。


『私……青空に落ちたのよおッ!』





 ひとりの平凡な女が、平凡ながらも上質な恋をつかみ、家庭を築き、しかし、長くも短い歩みの途上で、ついに恋を喪った。


 もしや、抜け殻を抜け、残り幾許もない人生の時間に、迫り来るロスタイムに、もう2度と喪失できないと、引くに引けないと、そんな焦りを抱いたのだろうか。だから、新たな生き甲斐の道を駆けたのだろうか。蹴った大地に、弾いた水に、漕いだ空に、セツはなにを見ていたのだろうか。そこに、かつて恋したひとは笑っていただろうか。


「よっぽどの興奮状態だったんだろうね。まぁ、着水ちゃくしゅい しゅるまえには失神してたはずだけど」


 私は、ついに出会った。




覚醒霊かくせいれい




 

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