青空に落ちた

 




 やむなく、もじもじする気持ちを引きずりつつも、いまだに微動だにしない小さな背中を目指す。


 空色の、分厚いツナギ。


 80代なのにどうしてツナギなんだろう?


 ときどき、こういうのが疑問。


 でも、だいたいそんなものだ。人間、予想外の姿で死ぬことがある。実際、この3年の間に全裸が3人もいた。紹介するどころの話じゃなかった。


 疑問と回想を癒着にしながら5秒につき15㎝ずつ接近。彼女のすぐ背後へとたどり着いたころにはスズメがハトになっていた。


 意を決する。とんとん。右の人さし指で空色の左肩を突く。やっぱり幽体だった。透過することなく突けた。意外と厚手で丈夫なツナギだと、指先の感触でわかった。


「あのぅ」


 起きなさい──ムリ、言えない。


 反応はなし。なるほど、厚手のツナギを指先で突いただけではなにもしていないのとおなじこと。知ってる。知ってて突いた。


 もう1度──と思うものの、すぐに躊躇。ひとりでに人さし指がグーになる。それから、園内を反時計まわりにうろうろ。


 そんなわけがないけれど、なんだか喉が渇いているような気がする。なので、ふたたび給水所のまえへ。コンクリートの台座、天上を目指す蛇口、ミルククラウンのコック。試しにコックをひねってみる。もちろん、ひねれない。見た目はいかにも機能的なのに、びくともしない。それが腹立たしい。苛立ちの惰性で、今度は蛇口の水滴に触れてみる。表面張力で盛りあがっている水滴。なのに液体じゃなかった。カチコチに乾いたペンキのよう。


「あぁもう!」


 地面を蹴りあげる。もちろんなにも飛び散らない。砂粒までもが固定されてる。八王子市のものは所有できない。感慨無量カタルシスは、ない。


 おかげでイライラがピークに。うまくいった。蹴りの反動のままに、つかつかと老女の背後へ。そして彼女のまっ青な背中を、たんたん、掌で強めに叩いた。叩けた。


「あの」


 たんたん。


「あのぉ」


「はあッ!」


「ぅおっ!」


 窒息から生還したかのような絞まった声をあげ、彼女が勢いよく上半身を起こした。4人に1人はこういう起き方。すっかり忘れてた。思わず私まで声を絞まらせる。


 とうとう、起こしてしまった。


 たちまちのうちに血の気が引いていく──私には体温なんてないけれど。と同時に胸も高鳴る──私には鼓動なんてないけれど。


 いともたやすく苛立ちは融解、代わりに、ふたたびの緊張感が全身を支配。


 いっぽうの老女はといえば、座面と背もたれのわずかな隙間から、すぐ鼻先で沈黙している霞草の群れを凝視。豊かな白髪の後頭部はぴくりとも動かず、彼女は彼女で、頭のなかを整理するにもおよんでいないらしい。


 彼女のようになりたいのはこっちのほうだ。


 でも、いつまでもコトの成り行きをまんじりと見守っていてもしかたがない。死んだ現実を自覚させ、散歩がてらにこの世のルールを紹介し、新宿か中野にある役場へと連れていって必要手続を済まさなくては、帰りたくても帰れない。


 私は、お家に帰りたいんだ。


 ふたたび意を決し、慎重に声をかける。


「あの」


 ぴくッ。小さなリアクト。そして、おもむろに老女がふりかえった。


 予想外に若く見える。白髪だらけで皺の数も多いけれど、あんがい顔の肌理は細かく、光沢もあってツヤツヤとしている。猫のように狭い額・白粉を塗したような眉・円らな瞳・魔女をほうふつさせるカギ鼻・酸っぱそうな唇──失礼ながら子猿を連想。いや、失礼すぎるか。


 次いで、幼児のように無垢な瞳で、老女が私の顔を見あげる。


 少年のまなざしに射られ、すくめられた。


 少年?


 老女?


「矍鑠」というには、なにかが違う。


 なにが?


 わからない。


 でも、なにかが違う。


 違和感。


 得体の知れない不安をおぼえ、じっと思考をめぐらせていると、不意に、彼女の唇が動いた。


「ここは、?」


「は?」


 ふわり──ひと撫での微風。


 あぁ、やっと来た。


 爽快なのだろう、微風。


「ねぇ」


「え」


「ここ、青空よねぇ?」


「え?」


 青空?


 アメイジングな表情で、ゆっくりと宮城セツが立ちあがる。


 唖然。


 懐疑。


 違和。


 動揺。


 恐怖。


 慌ただしく泳いでいた瞳が、勝手に彼女のウィークポイントを捜しはじめる。すると、さっそくその左胸に縦書きの刺繍を発見。白文字で「佐渡フライトジャパン」と読めた。読めただけ。読解まではできない。


「青空なんでしょう?」


「え? は?」


 幼くもあり、枯れてもいる、恍惚の声。


「ねぇ」


 小学生ぐらいの小柄な身体が、ゾンビの足取りで近づいてくる。のっぽな私は半歩ずつ後退。


「ここ、青空なんでしょう?」


「え。いや。あの」


 なに?


 なにが起きてるの?


 怖い。


 怖い。


 怖い。怖い。怖い。


「ここが、青空……」


 そうつぶやき、宮城セツはうっとりと、夢見がちな乙女のように園内を見わたした。


 青空?


 確かに、わずかに青みがかっている公園。ふわふわとした霞草は、さながら鱗雲か。


 でも、ここは地上。


 ふたたび、彼女は私を見つめなおす。そして今度は、信じられないとでも言いたげな感無量の笑みを浮かべた。当然、私が感じたのはさらなる恐怖。


「そうなのっ!」


 ぎゅッと右手を握られた。不意討ち。逃げられなかった。


「私、落ちたのっ!」


「おち、落ち、た?」


 温かくない、冷たくもない、幽体の掌。


「私ね?」


「ああああの!」


 わからない。


 私には、ぜんぜんわからない。




「私……のよおッ!」




 青空?


 青空に落ちる?


 わからない。


 だって、青空って、永遠に人間を突き放すもの。迎え入れてくれるものじゃない。


 天国さえも存在しなかった。


 なのに、青空に落ちる?


 わからない。


 私には、ぜんぜんわからない。


 固く握りしめられている掌。痛みはなくとも強いとわかる。本気だとわかる。だけど、なぜ本気なのかがぜんぜんわからない。


 私、泣きそう。


 気絶しそう。


 ラストしそう。


 口角泡を飛ばす勢いで、わぁわぁと老女が興奮を捲し立てている。でも、言語になっていない。ヒアリングできない。私のほうが混乱しているだけなのかも知れない。とにかく、意味がわからない。意味がわからず、目のまえ、まっ白。


 そして、目のまえのまっ白がツナギのまっ青に溶けはじめた。まるで、とうとう鱗雲を突き抜けたかのよう。まばゆい青空へ、いま、落ちてしまったかのよう。




 青空へ。


 青空へ。


 青空へ。




 と──そのときだった。


「そうでしゅよ、宮城しゃん?」


 からからからから。


 公園のまえを走る一車線の道路、その右手から、乾いた車輪の音がやってきた。


 それから、


「ここは、青空あおじょら


 ヘリウムガスの声も。


「青空に来たんでしゅよ?」


 からからからから。


 霞草の向かいにあらわれたのは、ヒマワリ色のベビーカー。そして、そのハンドルを押す、純白スーツで身を固めるホスト。


「良いところでしょう?」


 ベビーカーにどすんと座っているのは、虹色のベビー服をまとう、小さな小さな男の子。


「ね? 宮城しゃん?」


 優しく諭され、宮城セツの掌が力を増す。


 私は、全身の力が抜けている。


 飛行機はもう、途絶えている。


 微風はたぶん、吹いている。


「のんびりしていってくだしゃいね?」


 からからからから。


 笑顔で諭しているのは、ホストではない。


 ベビーカーの2歳児のほう。


「だぁれも邪魔しましぇんから」


 どうして?


 彼が、どうして、ここに?


 わからない。


 私には、ぜんぜんわからない。


 でも、やってきた。


 が、


「楽しんでいってくだしゃいね?」


 九十九つくも孔明こうめいが、やってきた。




 

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