High Priestess
16畳の密室に、ひとり、取り残された。
急襲の静寂。丁々発止としゃべっていたわけでもないのに、モスキート音が聞こえてきそうな静けさ。振動してもいない空気を
苛烈な静寂と痛烈な手持ち無沙汰を誤魔化すように、つれづれと室内を見わたす。
細長く滑らかなフローリング材を縦に並べたような模様の壁、その焦茶色の一面には、多種多様なタロットカードが統一性もなく飾られてある。1枚1枚が黒縁の額におさめられ、ざっくばらんに。でも、不思議とカオスな印象は受けない。きっと、私には想像もつかないような黄金率で緻密に計算されてあるのだろう。
さらに見わたす。
中央の奥側には、例の、横一線にカードの崩れている金色の円卓が。それから、女王の神輿と、壁際には来客用の木の椅子が2脚。その隣には小さな桐棚が鎮座し、消防法を嘲笑うガラス製の灰皿を重たそうにリフトアップしている。
天井を仰げば、目に悪そうな蒼白い光を発する蛍光灯が。出入口をふり向けば、壁面にかかる、冥府の門を連想させる巨大な姿見が。
たったこれだけ。占いの館とくれば、装飾品や調度品の賑わう物々しいイメージがあるけれど、この館はたったこれだけ。お客さんを催眠状態にするためのお香すらも焚かれていない。たぶん、必要ない。館主の存在がすでにアッパーなドラッグのようなものだから。The Pretty Reckless『My Medicine』がしっくりくるひとだから。
たったこれだけ。でも、代官山のギャラリーをほうふつさせる雰囲気がある。小ぢんまりとしているけれど高尚で、でも奔放で、でも無垢で、だから私はこの部屋が好き。
観賞するだけで済むのならば毎日でも訪れたい。済まないから訪れるのを我慢している。我慢しているのにしばしば呼びだされる。そして観賞を楽しめないままに放出される。楽しんでいる心の余裕もないのにだれもが楽しいと口遊む、ロゴスの失われた原宿の濁流へと。
キャットストリートのまんなかにある、ここはイルマ姉さんの占いの館『High Priestess』。
日本が世界に誇るファッションの聖地、原宿。ところが、戸外の喧騒は館内まで届かない。結界でも敷かれてあるのか、常識を覆す静かな時間がピンと張りつめている。
じつは気のせい。イルマ姉さんのヤサグレた霊圧のせい。意識を澄ませばなんでも聞こえる。ちなみに、いまはヘリコプターの羽音がしてる。
「
『
と尋ねるので「はぁ」とこたえた。
でも、このときからすでに、彼女の占いの館はバベルの塔でしかなかった。
「塔」──正位置と逆位置、どちらにしてもネガティヴな概念を孕むカードは、22枚ある大アルカナのなかでもこれがゆいいつ。
神の家(キリスト教における教会の俗称)だとする解釈もある。確かに、通説では神の怒りを司るけれど、いや、怒りではなく、神の慈悲による救済なのだとする解釈。この地上に人類の命運を左右する絶対的な権力など存在せず、ただ広大無辺の宇宙に偉大なる慈悲が存在しているだけなのだとする解釈。塔のカードとは、その宇宙を示唆するものなのだとする解釈。
前者と後者、どちらが正しいのかはわからない。ただ、私のたたずむバベルの塔は、おそらくは前者だけでできている。すくなくとも慈悲をおぼえたことなんて1度もないのだから。
円卓の中央で異彩を放っている1枚から視線をそらすと、上半身をふりかえらせ、ふたたび出入口のほうを見やった。一方通行なのだろう冥府の門──巨大な姿見を。
荒れ狂う劫火の模様が刻まれる金色の額縁のなか、宇宙の摂理を無視し、もうひとりの望月空美がぽつねんと迷いこんでいる。本来ならば絶対に映るはずのない、イルマ姉さんの強大な霊力によって映しだされた168㎝の私。
ゆったりとしたシャーベットブルーのワンピースと、
すべて、
私は背が高いから小夜ちゃんのように可憐な服が似合わない。とはいえ、モデル体型でもないから
かつて流行った森ガールのようなファッションしか似合わない。似合わないという事実を、ここ1~2年の間に知った。
数年前までは、知るよしもなかった。
肩甲骨のあたりまで伸びたサラサラの黒髪も、数年前までは亡霊のように荒れはてていて無惨なものだった。眠たそうだと言われる目も、数年前までは粉のような目脂を蓄えていた。顔は面皰であふれかえり、ヘの字にさがる口角が痛々しさを助長していた。いまでこそ面皰はなくなり、多少は笑えるようになったものの、ヘの字の悪癖だけは上手に引き継がれ、いまだに含羞んでいるような角度しか笑顔をつくれないほど。そして、これらの悲惨な状態を、だけど数年前までは知るよしもなかった。
鏡の中にたたずむ、垢抜けないけれど垢抜けた私。こうして現在の姿を見つめ、過去の自分をも見つめていると、じゃあ、どちらが幸せなのかがわからなくなる。
もうひとりの私から視線をそらす。小さく息を吐き、項垂れた拍子にメモを覗き見た。
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グリーン:宮城セツ (節年83)
納付期限:4/10~4/12
現場名称:大丸団地前児童公園
最寄り駅:JR中央線「八王子」
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今度は大きなため息が出た。案の定、いつもどおりの達筆な箇条書しか記入されていない。住所もなければ地図もない。不親切にもほどがある。ただでさえこの世では地図帳が稀少なのに、また推理して探しあてろとでもいうのか。
不親切なせいで、前回は納付期限を破るところだった。危うく逮捕されるところだった。あげくにはロストしかけた。
行きたくない。
ヤだな。怖い。
すっかりトラウマになっている。
「どっち向いて読んでんだよ」
不意に、背中にガラガラ声を投げかけられた。痙攣してふりかえる。見れば、
「おら」
新たなくわえ煙草のイルマ姉さん、右手に袋をさげている。ロゴはわからないものの、どこからどう見てもコンビニのビニル袋。そして、円卓へと進みながらアンダースローで投げて寄越した。
ぽしょ。空気に乗りきれず、ミルク色のビニル袋は卓上へと落下。すでに反射的にキャッチへと駆けていた私、落下した直後に追いついて──ぱちッ、
「ぅいッ!」
怯んだ。
右の指先をこすりあわせ、反対の手で袋を拾いあげる。学習しないこの身体。
「すいません」
「この季節、貴重なんだからさぁ。頼むよ?」
「すいません」
首だけで会釈して謝罪を重ねると、さっそく結び目をほどいてビニル袋を開けてみた。
開けた刹那、甘くやわらかな香りが立ちのぼった。憂鬱に項垂れていた鼻孔をにわかにくすぐる。
優しいくすぐり。
うっとりする。
なかを覗くと、小さな茜色の花びらがひと握り。
中国が生んだ常緑小高木。嗅覚を味覚の領域まで引きあげる、世界でゆいいつのお花。
金木犀。
私たちをロストから護ってくれる、ゆいいつのお花。このお花のおかげで、
『もうおまえ……死ねよッ!』
私は失われずに済んだ。
「注意したそばからムダ使いする空美さん」
「あ。すいません」
「じゃあ、行くだけ行ってみて?」
イルマ姉さんはそう言うと、円卓を迂回、腰をくねらせ、ヒール音をひとつも立てずに出入口へとまわりこむ。そして防火扉なみに重厚そうな鉄扉を軽々と開けると、そのまま左肩を預け、腕組みをして斜めに寄りかかってみせた。
「ね?」
たちまち、虜囚の気分は雲散霧消。みなぎったはずの倫力も呆気なく萎んだ。
腑に落ちないことは星の数ほどある。けれど、私の葛藤なんて知ったことではないといわんばかりに、こッこッこッ、パンプスの爪を苛立たせ、イルマ姉さんは退室をうながす。
「そろそろつぎの仔羊がくるからさ」
上司と部下のよくある光景。
3年前、出会ったときからこうだった。
よくある光景なのだから、抵抗する術も拒否する術もない。甘受することしか術がなく、服従することしか術がない。
渋々にビニル袋を結びなおす。こうして私は、
「空美、行って」
「はぁ……失礼、します」
追いだされるお手本のように追いだされた。
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