Scene 02

起因 ~ 望月空美

 




 私が自殺してから、そろそろ3年が経つ。





     ☆





 もしも平均的な生活に甘んじていれば、すくなくとも高校2年生にはなっていたはず。友人知人と肩を並べてカラオケに行き、センター街で目を輝かせながら未知の服を選び、カフェでまったりとし、原色のスイーツをカワイイと叫び、ときにはひとりで恵比寿を散策し、そして恋人をつくってみたりもするような、そんな高校2年生には。


 でも、私は決して平均点に甘んじなかった。


 中学2年生の晩夏に登校拒否をはじめて以降、学舎とは無縁になっていた。それこそ、通信教育という選択肢にさえも関心の矛先が向かないほどの無縁に。


 だって、利他的な学術なんかにペンを走らせていられるような状態じゃなかったんだ。それどころじゃなかったんだ。


 鬱病の類なのか、それとも適応障害の類なのかは定かではないけれど、とにかく、ゴミ屋敷も同然の部屋、分単位で増減する食欲、3時間おきに訪れる睡魔、なぜか気になる飛行機の音、ため息とも異なる謎の吐息の数々、焦点の合わない姿見の瞳、起床するタイミングがわからない、背筋を伸ばした姿勢がツラい、猫背の姿勢もツラい、横になれば今度は腰痛、まったく来ない生理、だから、月に1回の頻度で試みられる慣れた手つきのリストカット──こんな毎日に専心していたのだから。なるほど、健康的とも衛生的ともいえない環境だったこともあり、15歳の秋口には破傷風を患いかけて魘されたほど。


 この未遂騒動ののち、両親は理路整然と小首を傾げながら、児童心理カウンセラーを我が家へと招いた。もと保育士というアッパレな履歴書を持つ、50代ぐらいの、佐藤とかいう名の女だったか。


 私に対する同情心を相槌のあちこちにほのめかすという、変な癖を持つ女だった。きっと、数多くの症例と向きあううちに常態化したのだろう。でも、相手の心を開かせようとするマニュアルが見え透いていて、まったくの大根役者だった。耳障りな、気持ち悪い相槌だった。


 無視しつづけた。


 リスカをやめさせることを前提とする、マニュアルありきのカウンセリングを私は支持しない。というか、そもそも、やめる道理がない。


 だって、私は先人たちの夢見た青写真の賜物なのだから。自由を求め、個性を求め、多様を求め、大日本帝国主義の堅牢な壁を撤去することに邁進してきた成果なのだから。私のような人間が誕生することを想定したうえで、戦後、こつこつと青写真の図面を引いてきたのだから。


 自由・個性・多様と三拍子が揃えば、おのずとこうなることは想定できたはず。そんなの小学生にでもわかること。なのに、いざ私と出会せば、みんな口々に「黒」と嘆き、綱紀粛正の声を高める。排斥せよとシュプレヒコールをあげる。このを言祝ぐ者なんてだれもいない。


 なにをいまさら──だ。


 だから、佐藤某に対する無視は当然のこと。ごくごく普通のこと。そうしなくては矛盾になってしまうこと。


 やがて、罰があたったのか、矛盾の宝庫だった老女は自前の更年期障害が悪化し、仕事自体がうまくいかなくなり、私とは疎遠になっていった。


 そういえば、登校拒否のことを教育専門用語で「不登校」と表現するらしい。佐藤某も自慢気に口にしていた。でも、この表現が腑に落ちることはなかった。なにしろ、私は登校していなかったのではなく、登校を拒否していたのだから。


 表現のかたちが親近なものであればあるほど、中高校生は共感をおぼえ、ふり向いて愛そうとする。トークであれ、メールであれ、SNSであれ、リアリティを感じられる身近な表現こそがエンジンになるんだ。そして、それを起動してはじめてコミュニケーションがスタートする。たとえ的外れのエンジンだったとしても、結果論、リアルに即する表現であることが最優先事項。


 現実的でなく、実現性もない精神論や根性論で啓発しあう時代はとっくの昔に終わってる。いまの時代は、ひとりひとりの胸のうちにひそむリアル感のある表現をレビューしあい、ついては人生へと組みこんでいく時代だ。そして、レビューの向かう先だけで精神や根性が汲み取られ、この連鎖だけが他者との絆を生む。


 いまの時代を生きている者には、リアリティの感じられない学問なんて通用しない。プライベートサークルに土足で干渉しなくては成立しない、単なる傍迷惑な学問でしかない心理学なんてもっての外。そんなあたりまえの事実にも気づかず、胸に響かない、リアリティのかけらもない専門用語を自信満々に口にする教育者たち。そうすることで若者の気持ちを理解できると信じているらしいけれど、ただ一方的に理解したがるばかりの愚劣な連中が、リスペクトされない愚昧な連中が、ふり向いてももらえない愚鈍な連中が、若者のなにを理解できるというの?


 確かに、学術的には「不登校」で正しいのかも知れない。けれど、この表現はあくまでも教育者のほうが困らないようにするための妥結的便宜的な表現にすぎない。リアルを生きている若者の辞書に「不登校」なんて言葉は存在しないんだ。つまり、リアリティのない教育者の表現は胸に響かない。吟味してレビューしたいとは思わないし、ふり向きたいとも思わない。お近づきになりたいとも思わないし、まさか愛そうだなんて思うはずもない。


 ちなみに、私は「障害者」という専門用語も、あるいは「障がい者」という専門用語も、当事者の胸に響く表現ではないと思っている。


 私だったらこう表現する──「障害者」と。だって、彼らのほうこそ、健常者にとってのありがたいインフラによって多大な障害を被っている側なのだから。


 そんな簡単なこともわからない連中が愛されるだなんて、夢のまた夢。


 結果、私は佐藤某に心の内側を見せなかった。距離は1㎜も縮まらず、最初から最後まで、彼女にとっての絶望的な壁が立ちはだかっていた。


 彼女は私の障害であり、害悪だった。この観察眼は、たとえ間違っていたとしても絶対に正しい。もしも彼女の相槌によって自傷行為をやめた者がいるのだとすれば、私は、彼や彼女のことを絶対に人間だと認めない。


 私は、佐藤某がリタイアしてからも、リストカットをやめなかった。正しい人間として継続した。


 正しい人間なのだから、散らかるものは散らかるし、減るものは減るし、減らないものは減らないし、襲われるものは襲われるし、気になるものは気になるし、こぼれるものはこぼれるし、合わないものは合わないし、起きられないものは起きられないし、伸ばせないものは伸ばせないし、ツラいものはツラいし、痛むものは痛むし、狂うものは狂うし、確かめたいものは確かめたかった。


 身体の内側に流れている血の色を、どこまで斬ることができるのかという緊張の鼓動を、だれかに理解されたいという焦りを、だれも理解してくれないというあきらめを、だれにも理解されたくないプライドを、葛藤を、私は安物の剃刀に託した。


 糸のような赤い血、しかッと熱い痛み、やってしまったという心臓の高鳴り、直後に襲い来る途方もない後悔──その1から10のすべてが、私の生きている証だった。それから、後悔の念が「馬鹿馬鹿しい」というロジックを形成するまで、証の傷口をじっと見つめていた。


 生きている──と。


 私は、生命いのちを確かめたかった。確かに生存していることを実感したかった。それとも、希望だったのかも知れない。


 生きていたい──と。


 第三者の思惑に、格言に、啓発に、この神聖な確認作業をやめさせることはできない。たとえ、彼がキリストだろうが、仏陀だろうが、アッラーだろうが、ケイオスだろうが、あるいは、私自身だろうが。そう、私自身でも不可能なのだから、第三者にはとうてい不可能だ。心理学者ごときにいたってはなおさらに。


 潮時を知らない銀色の刃は、私の網膜を永遠に興じさせてくれるはずだった。


 それが、まさかあんな手段でやめさせられるだなんて。





 16歳になって1ケ月後のこと。ひさしぶりに、両親にリスカの継続がバレた。よもやの現行犯だった。


「パパ、空美がまたやってる!」


 もはや抵抗する体力も気力もない私を、なぜかふたりがかりで取り押さえると、脱衣所まで担ぎだし、勝手に身体を拭き、無理やりにジャージを着せ、リビングのソファへと座らせ、乱暴に応急処置をほどこした。そして、彼らはダイニングの椅子に座り、間口越しに、ひとり娘が泣き疲れて眠るまで延々と見張りつづけた。この間、ふたりはいっさいの言葉も私に宛てようとはしなかった。


 翌日の早朝。私の起床を待たず、自室を彩っていた可燃ゴミが捨てられていった。さらに翌日、残る不燃ゴミが父親の軽トラックによってどこかへと運びだされていった。


「もぅ放っといてよぉッ!」


 泣きわめき、やがて疲れきって微動だにできなくなっても、両親は私のすべてを黙々と廃棄した。漫画・ラノベ・CD・画集──刃物となりそうなもの、すべて。


 草臥れはてた私の目のまえには、がらんどうと化した部屋しか残っていなかった。


 さらに、トイレに行くときにも、お風呂に入るときにも、私は尾行された。トイレットペーパーしかなくなってしまったトイレなのに、洗剤しかなくなってしまったお風呂なのに、ドアのそとには親の影。もちろん爪切りは母親の管理下となり、キッチンは立入厳禁となり、単独での外出なんてもっての外となった。


 籠の鳥にされてしまった。翼を生やしたことのない、もとより、羽撃けない鳥なのに。





 およそ半年がすぎた。


 すべてを失った私は、ついに限界に達した。


 苦しんでいる実情を理解させたくなった。太刀打ちできないほどに困惑させ、辟易させ、空虚にさせたくなった。私の激情を、目にものを見せてやりたくなった。


 親の気持ち?──知ったことではなかった。


 がらんどうの景色を足もとに置く。あらかじめ外しておいたレースカーテンを糸切り歯で細長く裂く。1本の紐にする。紐の片側をドアノブの根もとに固く結びつける。あぐらをかき、ドアにもたれる。紐のもう片側を輪っかにする。輪っかに首をくぐらせる。深呼吸をひとつ。そうして、段ボールのソリで土手の斜面に挑むように、勢いよくお尻を滑らせた。


 上半身の体重を、首に。





 ……りくくん。





     ☆





 私が死んでしまってから、そろそろ3年が経つ。


 あの世も、この世も、大して変わらなかった。居るひとは居るし、居ないひとは居ないし、でもルールはルールとして厳然と存在するし。


 かつて私の配属していた社会も、おなじだった。居るひとは居るし、居ないひとは居ないし、でもルールはルールとして厳然と存在するし。


 大して変わらない。ベースはおなじ。


 ただ、確実に違うとわかっていることがある。それは、私はもう生きていない──ということ。


 だからか、いまだにびっくりするほどの自由をおぼえることがある。それこそ、あまりにも自由すぎて戸惑うほどに。


産方うぶかたのほうが自由だったわ』


 いつだったか、テトさんはつぶやいた。でも、私はそうは思わない。


 確かに、死んだって悩むことはある。嘆くこともある。痛むこともある。生前と死後にベースの違いはない。でも、だからといって、いまが不自由だとは思わない。あの殺されつづけていた日々と比べれば、いまの私の生命は、とても自由だ。


 3年前の5月16日。


 この祝恩節しゅくおんせつを境にして、やっと私は、自由な生命を確かめはじめることができたんだ。




 

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