Scene 03

この世へようこそ

 




「やっぱり空美だ」


 手際よくバベルの塔を追いだされ、バケツを携える清掃員の背中に張りついてエレベーターのなかへ。いつもよりも強力な遠心力でさらに重たい足取りとなった私は、雑居ビルを抜けだして早々、テトさんと出会った。


「ジゼルが翔んでるからハイプリのなかにいるって思ってたわ」


 青空を仰ぎながら、つぶやくように言う小柄な童女。でも、敬語で挨拶するのは私のほう。


「どうも。ご無沙汰してます」


 ファッションも童女そのものなのに。


 緩やかな曲線を描きながら太ももまでおりる、ふりふりのホワイトワンピース。爽快な色味ではあるものの、厚手の生地感にはあたたかみがある。襟や裾にほどこされる細かなフリルもまた、印象から冷淡さを遠ざけている。


「2週間ぶりかしら?」


「そうですね。そのぐらいです」


 白いニーソックスと、そのうえにスネの3分の1を覆うムートンブーツを履いている。やわらかな桜色に染まるふかふかのブーツで、すでにあたたかい卯月ながらもちょうどよい季節と錯覚させる。


「じゃあ、ご無沙汰ってわけでもないわね」


「そう、です、ね」


 なのに、首筋に紅色のマフラーをぐるりと巻いている。両手にも、親指以外の4本を1束にする、これも紅色のミトン手袋をはめている。


「お仕事?」


「はぁ」


 それから、巨大なフードのついた黄色いダウンジャケットを羽織っている。向日葵の黄色。


 まさに完全防寒。


「空美にしてはめずらしいじゃない」


「はぁ」


 視線をあげる。大きなふたつの猫耳が、目深にかぶったフードのうえにちょこんと起立。


 まるで、お伽の国の仔猫。


 この、1度として衣替えをしたことがないらしい季節外れの出で立ちは、この世の住人となってゆいいつの、らしい。


「それでいいのよ」


 ただ、猫耳フードからこぼれる栗色の髪は違う。首の左右を流れて鎖骨まで伸びるセミロングは豊かに波打ち、実年齢相応にアレンジされている。並木なみき想葉夏そわかさんの営む髪結屋かみゆいや『Speranza』の作品とわかる上質なしあがりで、チャイルディッシュなファッションのなかに稀有な大人っぽさを引き立てている。


「でも、ロストだけはしないようにね?」


「……はぁ」


 のっぽな私を高々と見あげながら、なにもかも見透かしているかのような涼しい微笑み。フードに見え隠れするエボニーな瞳のなか、130㎝もない幼児体型とは裏腹の艶っぽさが宿っている。


 私の大先輩、バステト。


 彼女と私は、背後にそびえるギルドに所属し、奇妙な接客業『紹介屋しょうかいや』をしている。





     ☆





 およそ3年前。


『起きなさい』


 大正琴を連想させる涼やかな声に誘われ、私はゆっくりと目を醒ました。


 だだっ広い、毛羽立つコンクリートのうえに仰臥していた私には、しばし、突き抜けるような青空を漫然と眺めていることしか術がなかった。当然、まだこの時点では、ここが団地の屋上であることなんて知りようもない。


『もう、そういう時間』


 中天からわずかに西へと傾く太陽が、レースの雲の向こう側、それでも飽くなき燃焼に励んでいる。こちらに落ちてこいと手招きしている。


 風が吹いている。ハスキーな微風。四肢が優しく撫でられていることに気づき、ここで私は、春を思った。


『さて』


 いつも見ている景色ではないと、意識が日常までよみがえる。新雪を思わせる白い天井がどこにも見あたらない。ただただ溺れそうな青空が広がるのみ。私って、いつもこんなデザインの天井に迎えられながら目を醒ましてたんだっけ?


 すぐに、そんなわけがないと思った。


 変だ。この景色は圧倒的に変。


『なにしろ』


 両肘を立て、ゆっくりと上半身を起こす。


 パノラマの視界、その上半分には青空が、下半分には緑と桜と建物の箱たちがうかがえる。あとは、無数の電柱と、遠くに霞んで見えるのは、あれは送電鉄塔だろうか。


 スズメかツバメの鳴き声も聞こえる。


 屋内ではない。長閑な戸外。


『傷つくのは幽体ゆうたいもおなじ』


 と、ここでようやく私の意識が大正琴へとおよんだ。うまくまとまらない思考回路なりに、未成熟な声の主をきょろきょろと探す。


『だから、まず』


 澄んでいる幼い声。


 首をひねり、右後方を仰ぐ。本来は水色だったらしい、表皮のところどころが剥がれて赤褐色の錆を露にしている給水塔の天辺を。


『覚悟が必要なのだけれど』


 小柄な少女が立っていた。3mは超えるだろう給水塔の頂から、青空と緑と桜と箱でできている地平線の彼方を、うしろ手を組んで眺めている。


 晩春のただなかにあってなぜか冬服で全身を固め、さながらキッズモデルのよう。巨大な猫耳が皺もなく立っていて、さながらアニメキャラのよう。


『あなたにはできるかしら?』


 給水塔の足もとへと視線を落とす。細長い脚の周辺には、剥がれ落ちたペンキのカスが原型をなくして散らばっている。鳥のフンもちらほら。


『……は?』


 ふたたび、周囲をきょろきょろと見わたす。でも、黒と灰色の混じりあうコンクリートの大地しかない。ベッドも箪笥も、書架もない。


 そうだ。ぜんぶ親に捨てられたんだっけ。


 いや、それにしても異様すぎる。


 だから、ふたたび給水塔の頂を仰ぐ。


『ここは?』


『座標は捨てていいわ』


 私の曖昧な質問、その語尾を遮るような少女の即答。それから、幼い体型に似合わない艶っぽい瞳をこちらへと向け、


『迷子になったところでだれも咎めないし』


 にこりとあたたかく微笑み、不意に、自分の背丈の数倍にもなる給水塔の天辺から、うしろ手を組んだまま、飛びおりた。


 思わぬ暴挙に、とっさに身体を強張らせる。


 ところが、ほわん──膝のクッションもなく、なぜかやわらかな着地。まるで分厚い銅板にネオジム磁石を落としたかのような、浮遊感の見て取れる奇妙な着地。


『そもそも』


 奇妙で神秘的な着地を見せつけられ、口をあんぐりとさせる私。対して、あくまでも涼やかな顔でこちらへと歩み寄る少女。


 いや、少女というより、童女?


 くっきりとしている二重瞼のウォームな印象を、白の割合の多い瞳がドライなものに変えている。鼻梁は低く、鼻翼は丸い。厚みのないピンク色の唇、その上下をつなぎ止める八重歯だけが童心の熱情を担っている。


 まるで、クラスに浮く、大人びた女の子。


 小学校の低学年生にしか見えない。


 そんな、滑らかな白い肌の童女が、


『あなたにはもう、帰る場所がない』


『え?』


『強いて言うのならば──』


 大人びた口調で大人びた言葉を並べ、やおらにうしろ手をほどくと、


『──でもいい』


『ここが、そう?』


『臨機応変でいいのよ』


 八重歯をにこりと笑わせ、それから、小さな小さな右手をさしだした。


 私は──猫耳を見ていた。


へようこそ』





     ☆





 不思議な童女、バステトによって、私は自分の死を知った。


 もちろん、最初は信じられなかった。二の句も告げられない茫然自失の混乱。そんな私を、テトさんは言葉巧みに屋上の縁まで誘導、いきなり、20mの真下へと突き落とした。


 ほわん──怪我もなく、やわらかな着地。


 死ななかった。


 私はもう、死ななかった。




 

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