テトさん

 




「金木犀は持った?」


「あ。はい」


「仕事に自信がないんでしょう?」


「え?」


「ダメよ? をしない幽体では」


「はぁ」


「ラストしたもおなじ」


 15年前、8歳のときに、テトさんは死んだ。息も凍る真冬のこと。長野県の某所、冬休みを利用して両親とスキー旅行に行った、その帰路のこと。


 アイスバーンと化した九十九折りの峠の中腹、にわかにスリップしたタイヤに慌て、彼女の父親は発作的に急ブレーキをかけてしまった。間もなく、遊園地のティーカップのようにくるくると回転しはじめる白いワンボックスカー。それは決して楽しいものではなく、むしろ阿鼻叫喚を車中に宿し、暴力的な遠心力を孕み、だれがだれをかばおうとするアイディアさえも容赦なく却下し、遠慮なくスピードアップし、錆びたガードレールを薙ぎ倒し、およそ80mもある垂直の崖から勇敢にダイヴするものだった。


 全身を木々に打ちつけ、ピンボール玉となって底辺を目指す車。そうして、九十九折りの下段、その直前の落石防止ネットに抱かれてようやく止まった。


 すれ違うはずだったスキー客や事故の音を聞きつけた地元住民による相次ぐ通報、オレンジ色のレスキュー隊による懸命の救助活動、さらには緊急搬送──このおかげで、父親は3日間の昏睡状態から無事に生還。しかし、母親は脳挫傷で植物状態に。そして、彼らのゆいいつの愛娘は、病院へと搬送されたときにはすでに死んでいた。


 凍結した樹木の枝がフロントガラスを突破し、後部座席に縛りつけられていた童女の口のなかへと侵入、未成熟な頭蓋・脳幹・小脳を一瞬のうちに貫通し、背もたれに串刺しにし──ひと言の挨拶もない、即死だった。


「空美だって」


 合年ごうねん23歳。見た目こそ8歳のままだけれど、いろんな意味で私の大先輩。


浮浪霊ふろうれい虜囚霊りょしゅうれいをたくさん見てきたはずよ?」


 見た目の成長したテトさんを見てみたい。私の予想だと、美人さんというよりも、かわいらしい女性になっているのではないか。ナチュラルな風情の、でも、男が放っとかない感じの。


「なにもしないでぼおっとしてる」


 ちなみに、彼女の風変わりな戒名かいみょうは、エジプト九栄神の紅一点『バステト女神』に肖ってつけたものなのだとか。生活の女神で、豊穣の女神で、猫の姿をしている女神。


「ああはならないように」


 童名どうみょうは完全に捨てたのだそう。だれも知らないらしい。だから、私は彼女のことを「テトさん」と呼んでいる。ひとによっては「テト」と呼び捨てにすることもある。ただ、それは私にはできない。テトさんは絶対に怒らない女性だけれど、呼び捨てにしたが最後、怒られるよりもおそろしい結末をあたえられそうな気がするから。


「惨めなものよ?」


 イルマ姉さんを紹介してくれたのもテトさん。おかげで、奇妙な接客業にありついている。


「せっかくあの世から解放されたのに」


「仕事あがり、ですか?」


 テトさんは浮浪霊や虜囚霊を毛嫌いしている。終日終夜、感情を失ったままその場に居座ることしかできない彼らのことを潔癖なほどに嫌ってる。まさに恪勤かっきん主義者の典型。だから、彼らに対する不満や愚痴もよくこぼす。そして、そのたびに生返事をするのが安坐あんざ主義者にもなれない私。


「ええ。そうよ?」


 生返事でなく、話題を変えてみせた私の心を微笑むテトさん。たぶん、愚痴が多いと辟易していることなんてとうに見透かしているのだろう。それが証拠に、いつかのように、彼女はうしろ手を組んだ。ロジックを煮つめるときに見せる仕種。


「今回も楽勝とはいかなかったわね」


「突発対応ですからね」


「だから、空美も自信を持ってほしいの」


「はぁ」


「突発対応は慢性的に登録者不足なんだから」


「はぁ」


 このように、どう転んでも私がイニシアティヴを握ることはできない。生返事を重ねて気まずい空気を生みだすか、淡々と叱咤激励されて背中を丸めるかのふたつにひとつ。私のほうがはるかに背丈があるというのに、テトさんをまえにすると、いつも上目づかいの心境になる。


「忙しさは、華よ?」


 稀に見る乙女な彼女が、儚い夢のよう。


 と、その直後、水色の自転車に跨がるスーツ姿の女が、携帯電話スマホのディスプレイを凝視したまま颯爽とテトさんを透過Overしていった。と同時に、彼女の冷静沈着な表情が「気持ち悪いわね」とでもいわんばかりの眉間へと変貌、女の背中を睨めつける。


 釣られ、私の視線も街中へと向いた。


 渋谷の駅前広場や新宿の靖国通りほどではないものの、いくつあっても足りることのない許多の色彩たちが、右に左にとさまよい、立ち止まり、後続する歩行者の意表を突くかのようにUターンしている。お昼だというのに電飾をともす看板・洒脱を嘯くピッツァの国旗・ボルダリングジム・ホットヨガ教室・その鼻先をかすめる香ばしいケバブの匂い・その背後でヒステリックに叫ぶ軽自動車のクラクション──どこになにがあるのか、知ってか知らずか、ただのギャンブルか、ただのナルシシズムか、カラーテラピストを困惑させる色彩たちが続々と軒下をくぐり抜け、のみならず軒先へと吐きだされている。


 うるさくてなんにも聞こえやしない。


 原宿。ここは生命いのちの坩堝。生物学的にはちゃんと生きている状態なのに、なおも生きたいと願うひとたちであふれかえっている。


 いまだからわかるんだ。生きることは、実感することではない。期待すること。志願すること。恋慕すること。叶うか叶わないかの試し事。そして、納得次第でいくらでも変容すること。


 欲どおしいからこそ、ひとは生きたいと願う。悩み、苦しみ、悶える。あまつさえ自傷行為へと走ることもある。しかし永遠に納得できない。


 私もかつてはそうだった。いまでもそうなのかも知れない。まだ期待だけはしているような気もする。確かに生物学的には死んでいる状態だけど、私にだって生命があるのだから。悩み、苦しみ、悶えるほどの、が。


「で」


 不意に呼びかけられ、我にかえる。大正琴を向くと、彼女はすでに上空を仰いでいた。


「今回のグリーンは?」


「あ。えと」


 胸ポケットから4つ折りのメモを取りだす。


「ええと、宮城セツさん、という方です」


「お年寄りだ?」


「83歳だそうです」


「まだいいほうじゃない」


「そう、です、よね」


「生き方と思い出にもよるけど」


「はぁ」


 生返事と同時に、ようやくテトさんはこちらを向いた。


「だぁいじょうぶよ」


 ぱしッ。私の左の太ももを紅葉もみじの掌で叩く。そして、


「厄介なのは若者と若い母親だけっ!」


 今度こそ、決して見透かすことのないあたたかな笑顔をくれた。


 嬉しい。


 艶っぽい、でも力強い、頼もしい笑顔。この持ち主と親しい縁でいられることを、ポンコツな自分自身のことを、私は誇らしく思えてくる。そうなれば、必然、葛藤も憂鬱も苦悶も逆転し、なんだかうまくいきそうな気持ちになってしまう。それは一瞬の錯覚なのかも知れない、でも、私を動かしてくれるカンフル剤であることには違いない。あれこれと考えすぎて足踏みしてしまう私の生命にとって、テトさんの笑顔は、そう、いつも偉大なる1歩だった。




 

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