エピローグ
敷石は冷たく湿っている。
底冷えが背骨を齧り、おれは目覚めた。
水気を通さぬ革の敷物を畳みながら、おれは背後に目をやる。
黒檀の棺と、胡坐のまま眠る老翁。
暗闇に慣れ切った目に、グレイの疲弊は明らかだった。
帝都の地下に広がった地獄の沼の淵で、おれ達は鎮霊の業に挑んでいる。
ぴくりと、グレイの腕が何かを感知して跳ねた。
半ば自動的に、翁は腰の儀式剣を振り抜き、近寄る御霊を裂く。
彼の目には霊魂は映っていない。
絶え間なく迫る憑依の危機に、直観だけで応じているのだ。
死者の魂を映すおれの眼に、鋭い剣閃の軌跡が残った。
手練れの異端審問官はすでに渡り短い剣を収めて、再び眠ったようである。
裂かれた魂の残骸をおれは掻き集める。
簡易に敷かれた祭壇は、実際の年月とかけ離れ、風化したようになっていた。
これを敷いた神官は若く心得のある青年だったが、一刻と保たずに引き上げた。
澱みの淵に、時の流れさえ狂った場所だ。無理もない。
祭壇に御霊の欠片を捧げ、己の血で清める。
絶えず魔名を明らかにして、おれは魔王の手を顕現させている。
冥府を臨む地にあっては、それを咎めるものはない。
人も、天頂から覗き見下ろす神でさえも、地獄の淵までは及ばぬらしい。
一つ、二つ、
わずかな仮眠を挟んでも、首から肩、腰に向けての疲労感は色濃い。
渇いた喉を湿らせるべく、口に含んだ水からは澱みの味がする。
おれはグレイに、同道を求めはしなかった。
この地下に溜まる魂の多くは、グレイ・ドゥームストーンの実験に供された贄であるからして、彼は怨恨の標的である。
非常な危険が待ちかまえていることを説いたが、グレイは頑として聞き入れなかった。
「貴殿の手を拝見する機会も、これで最後になろうから」
と。
無論、術師として己の工房を、他人に委ねる屈辱もあったに違いない。
いずれにせよ、老骨に反逆心を高めて、男はともに地下へと降りてきた。
そして、今宵で三日となる。
「幾年を経たか、もはや曖昧となった」
半ば狂乱しながらも、グレイは厳しく己を律していた。
おれは黙して答えず、ただただ魂を摘んでは積み続ける。
老翁はここで果てる心算だろうと察せられた。
「もう十分だろう」
ふっと息をつく。
背後で長く胡坐していた翁が、立つ気配がした。
今世一等の死霊術の権威が、おれの
「数え切れぬほど殺めたが、なるほどこれですべてらしい」
地下の闇に彷徨っていたエルフどもは、自我を刈り取られた
おれ達はこれから、マロウの復活に臨むのだ。
積み上げた死の先に、生を創造する外法があると誰が思うだろうか。
バーバヤガが新たに吐いた目玉を触媒に、おれは己の記憶を注ぐ。
不出来な生徒だったが、愛嬌に溢れていた。
ふいに
目を剥くおれをグレイは一顧だにせず、触媒に彼の記憶が注がれる。
雪深い山中に、マロウは一人、拳を固めていた。
「儂の師でもあった大老に預けられたのだ。大老が健在であれば、ホワイトマン君は深山を降りることなく、今も修行を重ねていたかもしれぬ」
喉からかすれるような音を吐いて、グレイはなおも力を注ぐ。
触媒となる目玉は、すでにマロウの足跡を見回った後のものだ。
この常闇の淵に、おれは死霊の王の手を以て彼女の魂を象っていく。
頃合いに、グレイが棺の蓋を開く。
遺骸を保つ冷気が流れ
青白い魂魄の種苗を、おれは女の胸に収める。
宿木が根をそびやかす如く、血脈とは異なる拍動が広がっていく。
怖れと期待が、おれの胸に広がった。
闇のさなかに、エクトの灯が走り、マロウの肉体が跳ねた。
超常の風が吹いた。
死霊の王が言祝ぐ声が聞こえた。
神が笑む気配があった。
丈に合わぬと言うように、棺を割って肉体が転がり出る。
やがて、波引く様を見せて、喧騒が去った。
女の
呆と立つマロウの目が、徐々に像を結び始めたようだった。
彼女の目はおれを認めながら、どこか虚ろなままである。
「マロウ?」
未だ帝都の地下は昏い。
地獄の沸き立ちは薄まれども、その淵に老翁はこと切れていた。
用を為し終えた祭壇を、終の寝床として。
「■■■■」
幼少の記憶、マロウの
リリィ・ホワイトマンから課された第三の
皇帝の暗殺を、おれは為さねばならぬらしい。
だが、今おれの前で立つ裸身の女は泥人形などではなかった。
おれが革布を肩にかければ、感情の抜けた頬に、涙が流れた。
虚ろな魂は、何のために泣いたのか。
おれとの再会か、老翁の死か、それとも自身の有様か。
「■■■■」
表情の浮かばないつるりとした相貌は、非生物的だった。
耳馴染まぬ声調は、どこか古語めいて聞こえた。
おれは心中に浮かぶ疑問をかき消すように、呼びかける。
「マロウ」
呼びかければ、女は名に応じて頷いた。
今はただ、その一事を抱いて進むしかない。
神ならざる人の象った命、マロウの手を引いて、おれは闇の底をあとにした。
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