エリオット・L・ルーラー(3)
「神」とは、唯一なるそれを指す言葉である。「神々」などという言葉は、そのものが不敬である。しかしながら帝国中央図書館の禁書架には、古い言葉にそういった意味合いのものが存在したことを記した書が収められている。
Lichとは、死を司る魔王の名──そのものが死を権能とする邪神の名ではないとしても──「神」と対立し得るものの名である。
対峙する
「貴殿も……!背教者であったか、エリオット!」
目は炯々として、狂気をはらみ、求道の朋輩に出会えた歓びに震えているようだった。しかし、ひどい勘違いだ。おれは死霊術を修める気などなければ、死を司る神に仕える祭司でもありはしない。
おれは纏わりつく雲霞の如き霊魂を撫で上げる。黒々とした霞の上に、耳長の娘らの面影が、うたかたと浮かんでは消えていく。
複数の魂を束ねることで、それぞれの自我を重ねて曖昧な状態にする外法だ。未熟な
すなわちそれは、屈辱と苦役である。
「お前は占術も嗜むか」
情報を扱う術理である占術は、精神、心理を扱う心術と隣接して、人の記憶に関与する術理でもある。このように霊魂を縛るのであれば、彼らの自我を象る記憶に対して介入しうる術理を嗜んでいると考えるのが自然だ。
「儂は心霊に傾倒しておるゆえに」
心身のいずれに本質を見出すかによって、死霊術師は大きく二分される。グレイは霊魂にこそ、その真理を求めるらしい。
おれは霞に手を分け入れると、歪に重ねられた有様を指先で掘り返していく。まるで骨肉の強張りを解きほぐすかのように、あるいは
老翁は浅黒い肌を、闇深い中にも分かるほどに紅潮させて、おれの業に見入っていた。
「なんということだ、心霊をありのまま、肉の如くに扱うとは」
霊魂に「触れられる」ということの意味を目の当たりにして、グレイは荒地に膝をつく。束ねられた霊魂を分かてば、その数は十一にもなった。いずれもエルフ、見目こそ若い娘ばかりであるが、実際のところは分かりかねる。
しかしながら、おれにできるのは外法の楔から解くばかりである。おれの周囲に浮かんだ、か細い魂魄は、さながら死期近い蛍火であり、その例えのままに消えていくだろう。
「死霊の王の手だ。人の立ち入るべき領域ではない」
十一の火は、ゆるやかに尾を引いてたなびきながら、おれの周囲を回っている。おれはそのうちの一つに手を添えると、静かに掌を閉じた。
言うなれば捕食である。邪神の贄に供されたといってもよいが、対象の意思を慮ることのない行為は、どうあっても暴威の色を露わにせずにはいられない。たちまちに恐れを抱いたのか。霊魂の輪は八方に散り去った。
身の内に棲む化生が、喜色とともに魂を舌の上で転がす気配がする。
名は「重し」だ。魔術とは、魔に属するものであり、人魔の境を取り崩す中で拡散した血術だ。表出する魔の力を顕しながら、人の姿を保とうとすれば、それを受け入れる代償を立てねばならない。
深く魔に傾くならば、人としての名を捨てることもある。しかし己の魔を封じようとするならば──魔術が高貴なる血を証立てる時代に、そのような者がいるとすれば──名を秘する必要があるだろう。そんな者があるとするならば!
「何という神秘への導きだろうか。エリオット──いや──リッチルーr」
先んじて倒れ伏した、二人の男。昨晩にはおれを襲撃した凶手の霊魂が、放たれた矢の如くに飛びわたり、グレイの口腔に蓋をした。音は成らず、忌み名が口から零れることはなかった。
おれは悠然と歩を進め、地に膝をつくグレイとの距離を詰める。彼の目には憧憬と畏怖がない交ぜになっている。黒々と死霊術師を取り巻く、怨念めいた霊魂の帯を、おれは指先でめくるように晴らしていく。
「一夜に二度も響かせてよい名ではない」
興奮を隠さぬ老翁は、銀に光る霊魂の口枷越しに、もごもごと言葉にならぬ音を漏らした。もはや彼が身に溜めていた、澱と呼ぶべき魂どもは霧散して、そのうちの幾らかはおれの食指に絡めとられた。
死霊術師は長年にわたって蒐集した、財産とも研鑽の証ともいうべき寄る辺を奪われてなお、今宵の邂逅をこそ喜んでいた。
口腔の戒めを解かれて、グレイは息を吸い込みながら低く抑えた声で問うた。
「なぜ貴殿ほどの者が、それほどの力を秘することがある?」
おれは指を立て、天頂を指して答える。
「『神』が聞いている」
その言葉は、グレイにとって天啓にも等しい響きを伴っていた。彼の脳裏に走ったであろう閃きは、瞬時にその顔色へと表れた。言わんとするところを察して、彼は先ほどの自らの浅慮を悔いたように面を伏せた。
「なるほど、
疲れ果てたように、ぐったりと
そのとき、おれに慢心があったことは否定できない。この老翁が膝をつく光景に、彼の魔道は潰えたのだという実感があった。しかし、グレイ・ドゥームストーンという男の全てがそれだけであろうという見通しは、楽観的に過ぎたのだ。
「ならば儂も仕事をしよう。もう良い頃合いじゃろう、ホワイトマン君はエルフどもに追いついたかな」
ふいに、男は項垂れた首を振って、マロウが走り去った道の先へと視線をやった。おれは同じように、そちらへと目をやる。そして天地が逆さに返った。
それがただの足払いであった、とは最後まで気づくことがなかった。昨夜の異端審問官らを殺害した手管を思い返せば、グレイがただの術師ではないということを思い知っていたであろうに!
「ぐっ」
口から洩れかけた悲鳴を抑え、おれは肩から地に叩きつけられる。先刻から蓄積された体への衝撃が、内臓への痛みへと変わり、平衡感覚を麻痺させる。
「体は鍛えておかねばなあ、エリオット。あれだろう?伏せ名、忌み名を露わにし続ければ、君が今度は食われかねない。要するに貴殿のその──実に素晴らしい──力は、今宵はもう目にすることができないということだ」
震える膝頭に手を当て、なんとか立ち上がろうとする。そんなおれの様子を、グレイは手近な岩に腰かけて愉快気に眺めている。
「そうさなあ、儂はもう歳だ。愛しい
何を言っている、と目で問えば、グレイは目を細めて顎を撫でる。彼は服の内側に手をやると、胸元から鎖に繋がれたアミュレットを取り出して見せる。交叉する短刀と燭台──その意匠は異端審問官の身分を示すもの──それを持つ者は限られている。
「異端審問官グレイ・ドゥームストーンじゃ、よろしくのう」
彼は飄々として、馬車の下敷きになっていた馬のうちの一頭に死霊術を振るうと──畜生の類が、再び立ち上がる様をおれは初めて見た──それは傷ついた馬体に構わず、ぶるぶると震えながら身を起こした。
グレイはその轡を取って、
おれは抵抗する力もなく、されるがままであったが、せめてもと皮肉を口にする。
「
屍馬は、異様なまでに従順であった。グレイは丁重な扱いでおれを馬の尻に据えると、自身も鞍にまたがった。
「
静粛性の高い屍馬は、規則正しく上下に揺れる。ゆるやかな波のような駈足を味わいながら、おれは自らの重みを老翁に預けた。危機と呼ぶようなものは去ったのか?
しかし、そうなるとこの男の演じる役割とは一体何だったのだ。死霊術師であり、異端審問官である、それでいて
「エリオット、貴殿の
闇の中を、薄っすらと血の匂いを纏った屍馬が走る。
おれの
「遊興で人を殺すか?」
問えば、グレイは鼻で笑った。
「この件で誰か死んだかね?いや、百合派の走狗や、火に巻かれた哀れな貧民は別としてだが」
発端はそもそも「ホテルメイソン」の死体だろう……?おれが疑問を抱けば、それを打ち消すように、行く手から地崩れめいた轟音が響いてきた。
闇夜を照らして、光輝の柱が立ち昇る。
思いの外に広いグレイの背をかわして、先に目をやれば、肥大した肉塊と対峙するマロウの姿があった。
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