グレイ・ドゥームストーン
二頭立ての馬車の速度は、想像した以上に遅かった。
舗装されていない
「おい、こんなんじゃ追いつけないぞ。鞭をくれるか?それとも私が運んでやろうか!」
マロウは馬用の短鞭をしごきながら、自分が走った方が速いなどと主張し始める。あながち間違いではないのかもしれないが、馬車の速度が上がらないのは乗っている人物の重量のためであろう、などと空考えていれば、焦れたように彼女は吠えた。
「どうせ田舎の
手首をしならせて振り回された鞭が風切る音とともに、薄い暴力の気配がおれの背後に漂い始める。おれはともかくとして、安寧に飼い葉を食んで過ごしてきた馬どもには刺激が強かったらしく、泡食って首を回すような素振りを見せた。彼女が打てば、痩せ馬の尻など削げ落ちてしまう。
「やめろ、マロウ。そもそもが相手は徒歩なのだ。少なくともバーバヤガ達は。じきに追いつくことは保証する」
馬というのは難儀な生き物で、騎乗のためだけに家畜化された特殊な生物である。老いて亡くなるまで屠畜されることなく、死骸は布にくるまれて火葬される。馬には魂があるのだ、と主張する伯楽もいたが、少なくとも神はお認めになるところではなく
そういうわけで、馬を扱うというのは──特に機械の発達しつつある「市」においては──憲兵団、商工会といった限られた施設にしかない。帝国は基本的に高度な地方自治を──寛容なる皇帝陛下の慈悲のもとに──認めているが、こういった機動性の高い輸送手段については厳しく免許制がとられている。
それらを踏まえても、バーバヤガ達が一夜のうちに「足」を手に入れられたとは思えないところだ。何より、おれは彼らとの距離が近づいてきていることを感じている。
「保証か。それはお前が今握ってる目玉のことか?占術師でもないお前が、どうして人探しできるのか、私にも説明してくれよ」
軒の並びを抜け、馬車は市から北西へと進んでいく。人工の光源がまばらになり、土を突き固めただけの街道は、先ほどまでと比べても、尚更、質が悪かった。「市」を抜ければゴーフルの糸が及ぶところではない。
「マロウ、秘密を教えてやる。おれは『見える』だけじゃない。『聞こえる』し、『触れる』んだ。霊魂を扱うことにかけて、おれは死霊術師と互角に渡り合えると言っていい。おれが今追いかけているのは、この目玉に残留した魔素じゃない。不当に楔を断たれた霊魂の残滓を追っている」
車がひと際大きく跳ねあがり、マロウは座席の上に立ち上がって曲芸師のようにバランスをとった。彼女は決して鈍重な戦士ではない。
跳ねあがりの収まった座席に、マロウは腰を戻すと、目頭を揉みながら話し始めた。
「ルーラー、それを聞いて──いや、前々から考えてはいたが──こんな時に言い出すのも違うかもしれないが……私のところに
おれは手綱を厳しくして、馬車を加速させた。荒れた軌道がマロウの言葉を遮って、話はそれきりになった。彼女はおそらくだが、この話をどうにか切り出そうと温めていたに違いない。
「人には誰しも授けられた使命があるのだからと言われるままに、腐れと穢れの只中を這い歩くなど、奇特な仁者はとうにいまい。おれも御免だぞ、マロウ。さあ、こんな
闇夜の中、月影を残すばかりの荒野を走る。おれの言葉に、マロウが身を乗り出してきた。彼女は目に
「気づかれたぞ!」
言うや、マロウは灰色のローブをたくし上げると、乗り出した身を宙に投げた。彼女はそのまま空中で握った短鞭を振るう。火花がおれの目の前で散り、からんと乾いた音が後方へと流れていった。
マロウはすでに手綱を握るおれよりも前にあった。二頭の馬の背をそれぞれに踏むと、超人的なバランスで以て、英雄めいた姿勢をとる。
「黒塗りの暗器とは、使い古しの芸がないことよ!」
馬どもは巨躯の無体なふるまいに、その身をよじらせるかに思えたが、実際には放たれた矢の如くに正面を向いたままだった。彼女の放つ豪傑の意気が、畜生の性根を縛っているようだった。
立ち上がるマロウの股の間から、おれは前方を疾駆する三つの影を見た。それらは徒歩であったが、おれ達の馬車と大差ない速度で駆けていく。時折妨害めいて投擲される暗器をマロウが防ぎ、そのたびに馬体が揺れて遅れが出た。
それでも互いの距離はじりじりと詰まっていく。おれの目に映る、どす黒く濁った魂の残滓が、色濃く尾を引いて暗夜に軌跡を残している。
縮まる距離が、飛び込めば背に組み付けるほどになったとき、馬首が突如として弓なりに引き上げられた。マロウは過つことなく跳躍し、おれに向けて手を伸ばした。だが、その手を掴むより早く馬が前のめりに崩れ落ちていく。
機動が崩壊していき、尻の下から斜めに傾いでいった。掴み損ねた腕が空を切り、おれは衝撃とともに地に打ち付けられる。閉じかけた視界の上を、馬車が勢いよく飛び越えて横転していくのが見えた。
木製の車体が軋む音、馬のいななきに遅れて、地に馬車が落ちて破壊された音が聞こえてきた。
打ち付けられた痛みをこらえ、おれは身を起こした。
おれたちが追っていた三つの影は、こちらの様子を窺うようにたたずんでいる。
「行け!追うんだ、マロウ!」
横倒しになった馬車の向こうに、マロウの巨躯が身をかがめている様子が見えた。それは跳躍を前にして、総身に力を蓄える猛獣のようであった。
彼女はおれの声を耳にして、一瞬の逡巡の後に、身の内に留めていた勢いを爆発させ、弾丸然と飛び出した。
おれと相対する影の内、二つがマロウの動きに反応して追わんとしたが、その奥に佇む使役者と思しい者が、それらを手の動きで制した。
夜の帳は濃く、すでに飛び出たマロウの姿を目で追うことはかなわない。彼女の速度であれば、この道の先にいるであろう、バーバヤガ達を捕捉することは疑いない。
それよりも、今この場に残ったおれには、果たさねばならない
「追わなくていいのか?」
おれは佇む影の主に向けて言葉を投げた。
先ほどまで、人外めいた速度で駆けていたために、影としか見えなかった姿が、停滞した闇の中でおぼろげにつかめてくる。
進み出てきた二つの影は、黒一色の外套に身を包み、肌の露出すべき箇所までも薄墨に染めたような包帯で覆い隠している。顔面さえ巻き込んで、視界の確保はいかになされているのか。
その背後にいた男は、外套こそ同じように黒一色であるものの、その下に覗いた衣には見知った印章が染め抜かれていた。太陽の意匠、憲兵団のそれである。
日に焼かれた肌は浅黒く、特徴的な鷲鼻に、猛禽類を思わせる鋭い眼を備えた老翁。緊迫した状況に似合わず、男はリラックスした様子でこちらに相対している。
メルキオール・ディスガイスト卿──いや、その名で呼ぶ時は過ぎたか──その身に死者の怨霊を纏わせて、腐臭を帯びて歩き回る涜神の徒。
「グレイ・ドゥームストーン」
呼べば、グレイはからりと破顔した。
「その名で呼ばれたのは久しい。君は儂の友となってくれる人物かね?」
沈黙を以て否認すれば、翁は変わらず微笑を浮かべたままに言を接ぐ。
「それは至極に残念じゃな、エリオット。我が不死の業を解するその
脱力した心地のまま、それでいて油断ない身の置き方である。翁はおれに対して、自らの真名を、グレイ・ドゥームストーンであると看破したものとして扱っている。
奇妙な点は数多くあった。
そもそも、この男は昨晩に致命的な失態を犯している。それも己の業を
仮にメルキオールがその身にどす黒い穢れを憑りつかせていた理由が、死者の「遺骸」の隠匿にあったとしても、それだけでは説明がつかぬ言葉を彼は吐いている。
メルキオールは、おれを襲撃した異端審問官らを殺害した後、倒れ伏したそれらを「死体」と呼んだのだ。未だ霊魂の楔が切れぬ肉体を「遺骸」と呼ばなかった理由について観想すれば、それはメルキオールこそが、
だが、それだけではない。
「そもそも、お前はメルキオール卿ではない。本物の卿はいかがされている?」
そう指弾すれば、グレイはほうと息をついた。
「住みよい『市』である。俗事に追われている身でなければ、余生を過ごすにも悪くないと思わせる。
やはり身分の成り代わりを画策していたか。
「お前が真実、卿であったならば団の予算の行方程度のことで遁走するはずがないのだ。そもそもが監査する立場にある市長と、メルキオール卿は癒着しているのだからな。帝国法のように、厳格な監査院など『市』には存在しないのだよ」
帝国法に定めるところによれば、背任は即ち皇帝への反逆。会計処理の誤りも、ことによれば係累にまで及んで死を賜る重罪である。
しかし長年に汚職に慣れてさえいれば、辺境法に基づいた監査など「
ははあ、とグレイは感慨深そうに息を吐いた。
「それでエリオット、君は儂をどうするつもりかね?ホワイトマン君ならいざ知らず……だが、ここに残った以上は、この状況を打破する
グレイは目を細めると、手を振って合図した。
それを受けて、彼が率いる二人の男が、おれに向かって突進してくる。
口中に、己の名を確かめる。
殺到する二つの影、それらに青白く灯る幽鬼の火──闇と馴じんだ黒一色の装束の奥に揺れる──を、おれは睨む。
交錯の間合いに入りながら、唐突に繰り糸を断たれたかのように、男たちはおれの真横を通り過ぎ、勢いのままに倒れ込んでいった。
異変を察して、グレイが余裕の色を失う。
「何じゃと」
おれは振り返らぬまま、倒れ伏した二つの「死体」に対して黙礼を捧げた。
「何をしたのかね……」
グレイは外套を翻すと、その内側に飼いならした霊魂を開放する。穢された血にも似て黒く、怨嗟を帯びたそれらは地を這いずる。探しているのだ。己の肉体を。断たれた繋がりの寄る辺を。
しかしすでにそれらは失われている……苦悶を癒すべく求めるのは、受肉に能う肉体……。
すなわち、おれだ。
雲霞の如き霊魂は、おれの肉体を求めている。グレイは事の次第を見極めんと、鋭く目を光らせていた。おれは宙に双腕を投げ出し、悲鳴をあげる霊魂らを掻き抱いた。
「おれの名を知っているか?」
現世にそぞろ歩く霊魂を「見える」者、その有様に「触れる」者。その現象を以て、マロウはおれを「祓え」に推挙しようとしたが冗談ではない。おれはその対極にあるべき者なのだから。
おれの名は、エリオット・L・ルーラー。
潰された忌み名を、いま
「
我が魔名は、死霊の王を冠している。
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