マロウ・ホワイトマン(1)
昇降機を利用して、五階の会議室が並ぶフロアへと降りてきた。
長く続く廊下の窓には、半透明な樹脂板がはめ込まれている。外は日没が近く、海まで続く街並みを橙に染めていた。
おれは半日以上眠っていたらしい。体調は万全とは言えないが、動き回るのに不都合はない程度には回復していた。おそらくだが、ゴーフルは治癒術師を呼んでくれたのだろう。
ただ、おれが一人で歩き回ることには難色を示され、結局のところ車椅子に乗せられて運ばれている。おれが乗る車を押すのは、オブシダン色の自動人形だ。無貌の面を貼り付けた頭部は滑らかな曲面を象っているが、それ以外の意匠は無骨である。日常の世話よりも、明確に戦闘を意図してデザインされた人形だった。
教会との面会のために指定した小会議室に向かい、廊下を進んでいく。目的地に至る曲がり角に差し掛かったとき、その先から剣呑な気迫のこもった声が流れてきた。
「おどれ、自分が何ほざいとるか、わかっとるのか?」
そこでは二人の若い男が睨みあっていた。互いに鼻先が触れ合うほどに顔を近づけ、血走った目線を交わしている。
「何回言わせれば気が済むんだ。こっちは時間通りに来てんだぞ?」
互いに挑発し合っていたようだが、赤髪の方が我慢の限界を越えたらしく、相手の胸ぐらをつかみ上げた。
「あんだと、この野郎」
「手出すのか、ああ?」
どちらも恵まれた体躯を、十分に鍛え上げた様子が見て取れる。
片方は灰色のローブを纏い、派手に赤々しい頭髪を、鬢から後ろに撫でつけている。西方の訛りが強いところを見ると「市」の出身者ではない。服装からして、異端審問官だろう。
もう一人は胸甲に肩当てと大仰な装備に、純白の外套を羽織っている。染め抜かれた太陽の意匠を見るに、憲兵団の所属であると分かった。
おれは何となく状況を察した。ゴーフルめ、教会と憲兵団を鉢合わせさせて、面会する相手を一本に絞ろうとしたな?おれはどちらに肩入れする気もないので、このまま状況を静観することにした。
いずれにしろ、この後にどう転ぶかは分かり切っている。なぜなら……あいつがいるからだ。
「もういいよ、ミスラ。話にならない」
赤髪の若者が、びくりと震えて一歩引いた。かけられた声は女のものだったが、漏れ出た呼気は銑鉄のように熱く、それだけで空間を支配した。
声の主は廊下に置かれた長椅子に腰かけていた。まるで肉食獣が草むらに伏して、機を窺うように気配を殺していた。女は灰色のローブを頭から目深にかぶっていたが、それを外すと、ぐっと腰を上げた。
途端、
重装備の憲兵──ただ傷一つないクロムメッキの胸甲を見るに、これは外回り用の儀礼服だろうが──が、怖気づく気配がした。
それほどに、女の身体から発せられる暴力の香りが濃密だったのだ。同時に、そんな女は帝国広しと言えども──異端審問官の地位にある者といえば──一人しかいない。先ほどまでチンピラとやり合っていた憲兵は、その正体に気づいたらしく、顔色を急激に悪くした。
「なあ、お前。お前どこの
ガサガサに荒れ、切り傷の無数に入った唇から、問いが発せられる。憲兵は気づいたのだろう。答えれば自分の地位が脅かされることに。
「その辺にしておいてやったらどうだ?」
おれは見かねて口を挟んだ。横合いから突っ込まれた嘴に、憲兵はヒュッと息を呑み、女は見るからに不機嫌になった。彼女が今にも発散させんとしていた暴力の矛先が、おれの肌を焼く。
「ちっ、
二時間も待たせたのか。おれが目覚めて、果物の盛り合わせを食べ、夕刻の喫茶を嗜んでいる間、ここでずっと揉めてたのかと思うと哀れになってきた。
「わ、私は通知された時間通りにエリオット氏との面会に参っただけです!」
ガキ、呼ばわりされた憲兵が、言わなくてもいい余計な言葉を発した。同時に女の裏拳が炸裂し、彼の胸甲をへしゃげさせて吹き飛ばす。空気を読めなかった男は、勢い余って廊下の端まで転がっていった。
「黙ってろボケ!私が喋ってんだろうが!」
一応、面会時間はずらして指定されていたようだった。教会側は二時間前に指定され、そこに後から憲兵団がやってきて、定刻通りに面会させるように要求したということだろう。先に待っていた彼女たちが、そんなことを許すはずもないのだが……いや、立場が逆でも結果は同じだったか。
「おい、あれ片づけとけ」
はい、と答えてミスラが吹き飛ばされた男の方へと近づいていく。もしや先ほどの一撃で絶命したか?いや霊魂が抜け出ていないから死んではいないはずだ。
おれは自分の車を押してくれていた自動人形に、茶菓子の用意を指示して、自らの脚で立ち上がった。
「悪かったな、マロウ」
おれの謝罪に、女は舌打ちで応じると、小会議室のドアを開けて内へと入り込んでいく。おれもその後に続いた。歩くことに特別問題はない。
室内には小型の円卓が一つ置かれているだけだが、彼女は当然のように戸口に最も近い椅子を占めた。そして、対角線上にある椅子に座るよう、おれに向けて顎をしゃくる。おれは素直にその指示に応じる。
マロウ・ホワイトマン。
公称身長二メートル八〇センチ、体重は乙女の秘密。
「見苦しいとこ見せたが、あれはあっちが悪い。わかるだろ」
席につくなり、マロウは態度を軟化させて釈明を始めた。
おれとマロウは知らぬ仲ではない。おれがまだ帝都にいた時分、彼女は神学塾に入れられており、おれはそこで臨時に教鞭をとっていた。教室の最後列で、常に机に突っ伏して熊のように寝ていたのがマロウだ。
女性初の神官を目指していたはずの彼女が、異端審問官へと進路変更したのはむべなるかな。彼女はこまごまとした季期の儀式や文句を覚えることに適性を持たなかった。
「そうだな、茶菓子の一つも出さなかったのは手落ちだ」
苦笑して応じれば、マロウはバツ悪そうに唇を尖らせた。なりは異様だが、年相応の女性である。鍛えられた巨躯を維持するだけのカロリーを、彼女は常に求めている。特に、甘味を。おれが自動人形に注文していたのを見て、機嫌を直したのだろう。
「どうせ
辣腕政治家である市長も、マロウにかかれば
「
久しく会わなかった教え子に祝辞を述べれば、マロウは照れたように頬を掻いた。
異端審問官は、皆揃いの灰色のローブを身に着けているが、そのほとんどが子と呼ばれる非正規身分だ。親となる異端審問官になるためには、厳しい訓練──そのほとんどが、海千の工作員である子を躾ける力量を養うためのもの──を耐え抜かねばならない。
「積もる話は、今度にしようぜ。今日はそれほど愉快な話にならない」
丁度、自動人形が菓子を携えて戻ってきた。栗の甘煮をふんだんに用いたマロンパフェが、彼女の前に置かれても、その表情は明るくならない。
とはいえ、それはおれも同じことだ。昨晩の襲撃が異端審問官によるものであったなら──服装と反応から判断したに過ぎないことだが──マロウの関与の度合いによっては、対応が変わってくる。
「ああ、おれも問い質したいことがあるからな」
おれの言いざまに、彼女は不審そうに眉を引き上げた。
「うちの『子』が昨日から帰ってこねえ。知らねえか?」
言いながら、マロウは二枚の写真を机の上に投げ出した。それは「子」の身分を証明するために、公的機関で撮影されたらしいものだった。
それぞれに、男が真正面を向いて写っている。おれは、そのどちらにも見覚えがあった。痩せぎすの男に、巌のように角ばった男。
「ああ、こいつらに昨日、殺されかけたよ」
おれの返答を耳にして、マロウの目が鋭く細まった。それは彼女にとって思いがけない答えであるようだった。
機微を解さない自動人形が、ティーポットから紅茶を注ぐ。香気を楽しむ余裕は、今のおれたちには無いらしかった。
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