メルキオール・ディスガイスト

 それが起こったのは西区を抜けて、中央区の繁華街から北区に通じる境に差し掛かるあたりの路地だった。宵の口を過ごし、酒家の明かりは背に遠く、半端に剥がされた敷石がまばらに月光を帯びていた。


 つけられているな、と気づいたのは、夜間には人気のない地区に入ったころだった。貸店かしだなの多い区だ。幹となる煉瓦造りの家々は資産家の持ち物で、雇われている者らは、棟から枝じみて生えた二層以降のバラックに寝起きする。度々、押し入りや空き巣はあるのだが、重要な物品は金庫に守られており事件にもならない。これが金庫破りとなると年に一度あるかないかだ。なにしろ金庫そのものが大抵の賊よりも手強いのであるからして。


(二人……か)


 尾行者は訓練を受けている。人の気配に紛れていては、おれには全く分からなかった。ここに至って、おれが気づいた、のではなく、相手が隠すことをしなくなった、と理解するべきだろう。

 察しておれは走りだす。応じて背後の気配が色濃くなり、割れ散った敷石を踏み鳴らした。相手の反応はそれほど鋭くない。最初の一歩で距離を離したと感じる。

 しかし、追ってくる気配は一つ。続いて踏み出した二歩が三歩となって、北区へと向かう道筋に向かえば、横合いから黒い影が飛び出て、おれの腹を打った。すでに先へと回り込まれていたのだ。

 勢いのついたスピアータックルが突き刺さり、強かにおれの胴体を突き飛ばした。まばらな礫の転がる道の上を、おれは無様に転がりながら、なんとか体勢を立て直そうとした。しかし襲撃者は素早く走り寄ると、腿から下を鋭く振って、倒れたおれの腹を蹴り飛ばす。


 腹が破裂した。比喩ではない。靴のつま先に金属カネが仕込まれていたか、命中した脇腹を衝撃が貫いて、ばきりと音を立てた。振るわれた暴力が臓腑の内を残響し、遅れて痛みと熱が上ってくる。


「うげえ」


 吐しゃ物が敷石を汚した。昼に食った肉は半ばまで溶けていた。赤い。涎をぬぐう余裕もない。嘔吐感が波のように繰り返して押し寄せていた。


「きったねえ……おい、寝てんじゃねえぞ」


 襲撃者の声が、何重にも聞こえる。危険な感じがする。視界が揺れ、思考がまとまらない。

 おれを蹴った男が近づいてくる。力の入らない、おれの体を足先で転がして、仰向けに返した。傍にしゃがみこんだ男は、おれの前髪をつかみ上げると、噛みつくように吠える。


「こいつで間違いねえよなあ?」


 遅れて追いついてきた、もう一人の追跡者が咎めるような口調で喋った。


「人違いだとしても構わん。さっさと連れていくぞ。殺せ」


 頭の揺れが落ち着いてきたが、仰向けのおれの胸には、硬い靴底が載せられている。かけられた圧に抗えず、おれは首を振って状況を確認する。


 おれを踏みつけにする頬のこけた痩せぎすの男、その背後で威圧的に見下ろす巌のような男。そのどちらもが上背高く、灰色の外套を頭からかぶっている。きれの上からでも鍛えられた体躯であることが見て取れる。


 殺して、連れていく。抵抗されるよりは遺骸にしてから運んだ方が効率的だ。つまり独自に蘇生リバイブの手段が確保されている……教会関係者か。


「いたん、しんもんかん、か」


 搾りだした言葉に、二人は眉一つ動かさず、痩せた男は腰から短剣を抜き出した。月光は青白く、刃に光を溜めている。おれの心臓めがけて、鋭く尖った切っ先が振り下ろされた。


「がはッ……」


 おれを貫くはずであった白刃は、襲撃者の胸へと突き立っていた。短剣の柄を握る男の手、それを上から包み込むように、別の掌があった。どうやら強引に刃先を己の胸に向けられたらしい。


 体の上から、押さえつけられていた圧が退く。おれは喉を鳴らして呼吸を求めた。ひは、ひは、と息を吸うたびに蹴り上げられた脇腹が激しく痛んだ。


「無事、というわけではなさそうだの」


 乾いた声だ。やすりをかけたようにザラついた手触りの、酷く歳のいった声だった。おれは応えられないまま、目線を水平にまで上げた。


 見るべきではなかった。

 一人や二人とは覚悟していた。久しく目にしていなかった光景が、そこに待っているだろうことも想像はしていた。

 未だ、おれの腿にぶら下がるように倒れ込んでいる、痩せた男の遺骸。そしてその奥には骨を抜かれたように丸く座り込んだ姿勢で、もう一人の巌のような男の遺骸があった。


 そのどちらからも、青ざめた月光を写し取ったような、霊の相貌がはみ出ていた。肉を持たない精神だけの、存在のあやふやな魂をおれは見ている。おれの目は『霊』を捉えるのだ。


 おれは再び吐き気がこみ上げてくるのを必死で押さえつけた。それは決して、今しがた遺骸と成った男たちの霊を見たからではない。

 おれを助けた男は、目の前に掌を差しだしてきた。枯木のように水気のない肌に、血管と筋を浮き上がらせている。それは陽に焼かれて至るところに黒ずんだシミが浮いていた。


「メルキオール・ディスガイストじゃ」


 降り注いだ声に視線を向ける。

 特徴的な鷲鼻を中心に、つり上がった鋭い目があった。それは年老いて、羽をぼろぼろに打ち枯らした猛禽類を思わせた。唇に刻まれた皺は深く、老人に厳しい印象を与えている。

 差しだされた手を、おれは反射的に払いのけた。背筋を冷やりとした感覚が這い上ってくる。おれは脇腹の痛むのも忘れて、倒れたままに後ずさりした。

 おれの対応に、メルキオールは不思議そうに首を傾げた。


「儂はそなたの敵ではないぞ、エリオット」


 敵か、味方か。

 そんな問題ではないのだ。


 その男の手には、あまりにも多くの穢れがあった。どす黒い血の色を、糞便で溶いて硝子容器で熟成させ、毒虫を沈めて腐敗させたような、とにかくこの世で最低の色をしたもの──それは原型を留めぬ泥のような形であった──が、メルキオールと名乗った老人の手指の先から首筋にいたるまで、びっしりとこびり付いていたのだ。


「お前、お前は!いくら殺した!」


 おれの問いに、老人は目を細めて応じる。

 恐慌に陥ったおれを値踏みするような視線だった。


「騎士が殺めて何が悪い」


 違う、食い違っている。おれが言いたいことはそうではない。だが、それ以上おれは追及するのをやめた。一秒でも疾く、この場を離れたかった。


「行きたまえ、エリオット。この死体は私に任せたまえ。何、じきに教会の坊主が来て祈祷しなさるだろうよ」


 おれは背を向けぬまま、じりじりと後ずさりしていった。

 メルキオールは奇妙なものでも見るように、おれのその姿を観察している。


「市長から……あなたに協力依頼が来ている……」


 おれは必死に平静を呼び起していた。老人がメルキオールだとしたら、『ホテルメイソン』の事件について協力を求める必要があった。


「すまんな、監査が来ると聞いて慌てて逃げだしてしもうて。ほら、外に囲うのに物入りでな?帳尻合わせに出ておったのよ」


 おれは未だ、このどす黒く穢れた翁を直視するには至らず、しかしながら頭の芯の部分が冷えてくる感覚を味わっていた。


「そうですか……明日以降、お伺いします。今宵はこれで」


 言うや、おれは背を向けて全力で走った。

 抉れた脇腹が酷く痛み、かばいながら走ったために、幾度も転びかけ、道路に手をつきながらも走り続けた。止まれば、振り向けば、暴力と穢れのいずれかが追いすがってくるように思えた。


「やばい、やば過ぎる」


 月を雲が覆い隠し、市庁舎は巨大な墓標のようにそそり立っている。おれは庁舎の裏口に取りつくと時間外出入りのためのパスを入力し、這いながら建物の中に転がり込んだ。


 庁舎内のタイルに、点々と血の跡を残しながら、おれは隠し扉までたどり着く。十三フロアへと直通のエレベーターが降りてきたとき、深いため息をついた。

 激痛があばらに走る。汗が額に浮き、動悸が鼓膜を破るほどに大きく聞こえた。


 箱の中へと倒れこみ、急速に上昇する感覚に身をゆだねて、おれの意識は闇へと落ちた。

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