占術師バーバヤガ(1)
『ホテルメイソン』の派手な戸口を抜けて、おれは次の目的地へと足を向けた。陽は徐々に西へと傾いでいる。今日中に、もう一件は訪ねておきたい。
向かう先は西区だ。
そこは中央区から真西というわけではなく、中央区から南西に逸れ、南の工業地帯との境界に差し掛かる地区である。
この辺りになると露地は完全に剥き出しだ。下水路が通っている箇所だけはコンクリートで固められているが、それ以外は乾いた黄色っぽい土が露わになっている。
建物の背丈もかなり低い。それでも地権を持たない住人たちが、他人の家屋の上にどんどん違法増築していくために、駱駝のコブのようになっている。二階建ての長屋がなだらかに続く様は、遠浅の海に続く引き波のようでもあった。
時折、南海からの潮風がここまで迷い込んでくる。辻に砂埃を巻いて、西区は常に埃っぽい印象があった。赤みの増した日差しが、宙に浮いた埃に反射している。
おれは目的の長屋の共有入り口から入り込み、奥へと抜けて狭い中庭に出た。そこには古い井戸がある。それほど富裕ではない市民にとって(あるいは市民権を持たない住人たちにとって)上水道の使用料を払うよりも、こういった井戸は、よほど安上りな水源なのだ。
四方を家屋に囲まれた、井戸以外には何もない殺風景な庭。
その端には、錆びた鉄製の階段が、虫の脚めいて伸びている。本来、その先には瓦屋根があるべきだったが、木板を重ねた隙間だらけのバラックが載っていた。赤茶けた錆びの浮いた手すりに、濃い緑のツタが巻き付いている。乾燥した「市」の空気には、不似合いな緑だ。
「いるんだろう?バーバヤガ」
家の軒先には、色鮮やかに青で染められた絹の目隠しが垂れ下がっている。バラックの貧相さに対して不相応な、質の良い紗布である。
おれは深い青の垂れ布をめくり、家の中へと入っていく。明かり取りなどない室の内は薄暗いが、壁となる木板の隙間から陽が差し入って、まばらに光を溜めていた。
「どこだ?」
おれは視線をさまよわせ、この家の──知っている者は『穴』と呼ぶが──主である人物の姿を探したが、見当たらない。床も壁も、不均一な廃材を重ねて象られていた。あからさまな凹凸のある床に、毛足の短い獣の皮が敷かれている。よく刈り込まれた芝生のような黄金の毛皮は、かなり大きい生き物であるように思えた。
長屋の屋根、その波打つ背骨のような棟の上を、このバラックはどこまでも這っている。おれは敷物が敷かれた場所で待つか迷ったが、陽がそれほど高くはないことを考えてあきらめた。
普段ならしないことだが、『穴』の奥に向かって呼びかけながら歩いていく。
「勝手に入るぞ。返事しろ、バーバヤガ」
足場には本や巻紙、石板に木簡といった資料の類、薄く延ばされたガラスの実験器具に繁茂する黴とも苔ともつかぬもの、あるいは厳封された薬の容器、酒類と思しい首の細い瓶──目についただけでもそれだけのガラクタ──が、床に転がっている。
おれはそれらを蹴らぬように、踏み抜かぬようにと、注意深く歩を進める。
その有象無象のガラクタのなかに、おれは奇妙なものを見た。
洗いざらして擦り切れたタオルケットにくるまって、規則的に膨張と収縮を繰り返している。おれは初め、犬か何かだと思っていた。だが布に盛り上がる手足のシルエットから、それが人間らしいことを察する。
耳を澄ませば寝息が聞こえることから、生きてはいるらしいと見当はついた。しかしバーバヤガは成人の女性であったから、そこに転がっているものが彼女ではないことは明らかだった。
まさか盗人の類ではあるまい。だが、この家にバーバヤガ以外の人物──それも、子どもと言ってよい背丈の──が住んでいるというのは聞いたことがない。
おれは、家の主人の行方を尋ねるために、この得体の知れない生き物からタオルケットを剥いで、その顔を改めるか悩んだ。
「さっきまで働いてたんでね、寝かしておいてあげて」
背後から、女の声がした。濡れたように艶のある声音だ。
振り返ると、室の薄暗さとは異質な、上質な油に濡れた皮革のような肌があった。しゃがみこんでいる体勢のおれの眼前には、その褐色の肌色がすぼまっていく臍がある。緋色に輝く貴石をつかんで、その肌を
「驚かせるな。いたなら返事してくれ」
おれは彼女に返事をして立ち上がりながら、距離をとる。だが、足元の眠り人はおれとバーバヤガのやり取りに目を覚ましたらしく、おれが足を運ぼうとした行く先に寝返りを打った。
おれの
「客と話をするから、外に出ておいで」
バーバヤガが、その背に声をかけると、返事もせずに立ち上がり、背を曲げて『穴』から出ていった。布地がずれた箇所から覗いたのは、色の抜けた白髪と、宵闇のように濃い黒肌だった。
おれはその後姿を見送りながら、やはり「あれ」は異様なものだったと自分が最初に抱いた第一印象が正しいものであったことを確かめる。
「珍しいわね、貴方が来るのは」
おれは再びバーバヤガの方に向き直る。
実際の歳──正確なところは知らないが五十は過ごしているはずだ──よりも随分と若く見える。だが、それでも目元に皺がわずかに浮き始めていた。女の美貌というものは、盛りを過ぎると急速に失われていくのが常だという。
しかし、その盛りを過ごしたであろう、この女の相貌に、そういった細かな皺が刻まれると、より一層に色気が増したように感じるのだ。それは単純な円熟、という言葉では言い表しきれない、バーバヤガが特別な女であることの一つの証だった。
だが、今のおれにはそれよりも先に問わねばならないことがある。
「いや、用件より先に聞かせてくれ。『あれ』はいつから飼ってる?」
曖昧な笑みを浮かべると、彼女はおれに背を向けて壁に引っかけていた木椀を二つ取り上げる。日陰になった場所に置かれていた水差しから、薬草をつけた冷茶をついでくれた。
「綺麗な色をしていたでしょう。黒曜石とアメジストを溶いた顔料でも、あれほど美しい色合いにはならないわ」
ねえ、そうでしょう?と、彼女は話題の先をはぐらかそうとする。おれはそのふわふわとした掴みどころのない態度が、少しばかり癪に障った。それで、普段にしないような早口でまくしたてた。
「別に君がダークエルフを飼おうということに文句はない。魔術師が下働きさせる使い魔として──おれなら使わないが──ふさわしいとも思う。だが、識別票を外しているのは見過ごせないぞ。これはおれが役所勤めしてるとか、そんなことは関係ない。君は安易に考えているかもしれないが、危険なことなんだ」
あの子ども──エルフ種の寿命は定かではない。三百年という学者もいれば、千年という者もいる。なので「あれ」の見た目が人間の子どもの様態であるというだけの意味だが──の、左耳は半ばから上が千切れていた。
本来なら、そこには捕獲されたエルフ種であることを示す識別票が付与されているはずなのだ。それは安全装置も兼ねていて、魔術行使を阻害する機能もついている。魔力を感知すると、繊毛状の棘が内耳まで侵食し、激痛を加えるのだ。
おれの言葉にうんざりとしたように、バーバヤガは首を振る。美しい女にこういった顔をさせるのは不本意だったが、これは言うべきところだ。
なぜなら奴隷に関しては帝国法で一律に定められていて──地方ごとに異なる辺境法の区分なら、市長の裁量でなんとでもなるのだが──「問題」が起こったなら、使役者としての彼女が一方的に責任を負う状況まで考えられる。
「最上位変性術を使うのよ、あの子。
観念したように、バーバヤガは本音を漏らした。おれは自分の耳を疑わざるを得なかった。変性術の使い手?しかも最上位の?耳から入り込んだ言葉を脳が理解したとき、おれは彼女を問い詰めたことを後悔した。
変性術とは、要するに物質の変化を司る魔術だ。石を金に、水を酒に、その路傍の雑草を麦に変えるとされる得難い術理だ。低位の術者であれば、等しい重さ、近しい性質のものに転換するのが精いっぱい──それでも珍重される──というところだが、最上位の術者ともなれば、触媒に自身の魔力を混ぜ合わせることで、タカを数倍量に膨らませることも珍しくない。何より「それ以外の方法では」生み出すことのできない特殊な物質──一例をあげればオリハルコンや聖金──を創り出す手段でもある。
しかしながら、帝国において、最上位変性術の使い手である、というのはそれ以上の意味を持つ。
そもそもが最上位魔術とは血統主義の極北に位置するものである。ゆえに多くの最上位術師は帝国において貴族の家門に累するものであり、在野の最上位術師、などという存在は伝説上の生物と等しい。
それに重ねて、変性術を司る血統、その指し示すところはただ一つ。
皇帝家である。
おれは急な頭痛を覚え、こめかみを抑える。
「それ以上言うな、バーバヤガ。もういい、知らない方がいい」
彼女は満足げな笑みを浮かべて、床の酒瓶を拾い上げると、おれの木椀に注ぎ始めた。この魔女め、おれをハメやがった。度を越した厄ネタだ。知っているというだけで首が飛ぶ。
諦念を洗うべく酒を飲み干す。ジュニパーの香りが鼻に抜けず、垂直に走って額にまで突き抜けた。
「分かってくれて嬉しいわ。私のことを理解してくれたところで、今度は貴方のお話を聞かせてもらえるかしら?」
おれはヤケになって、懐から『ホテルメイソン』で採取した絨毯の切れ端を取り出す。そしてバーバヤガの足元に投げて寄越した。
「鑑定してくれ」
バーバヤガもまた椀を干し、濡れた口元をぬぐうと、それを拾い上げる。
おれがこの魔女を訪ねた本来の理由。それは彼女の扱う術理──星辰の運行を見極め、世にある情報を扱う術──占術を頼ってのことだった。
彼女は高く筋の通った、形の良い鼻を切れ端に近づけると、匂いを嗅ぎ始める。
「血ね?」
そう言うと、バーバヤガは己の前髪をかき分け、耳にかけて流した。均整のとれた顔立ちに、不似合いなものが露わになる。彼女の額には、一本の筋が走っていた。それが縦に割れ、瞼の無い第三の瞳が開かれた。
彼女の名はバーバヤガ。
魔女を表す代名詞。
人外に踏み出し家門から遺棄された、名無しの占術師である。
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