エリオット・L・ルーラー(3)
「市」は大きく三つの区に分かれている。ゴーフル市長が市政を牛耳ってから再開発された官公庁を中心とする北区。そして、古くは漁村として栄えた名残を残す港湾と、それに支えられる工業地帯を備える南区。
では中央区は?
おれは人ごみの中をすり抜けながら『ホテルメイソン』を目指して歩いていた。中央区の道幅は狭い。そして家と家の間はぎちぎちに詰まりきっている。それは蛇の巣穴のように細長い路地だったとしても、空いているとみれば次の日には石積みのバラックが仕上げられ、その次の日には雑なモルタル塗りの壁と戸板が立ち上がるからだ。
そもそもが荒地だった経緯もあって、土地所有の概念が杜撰なのだ。誰もが、最初に旗を立てた者が所有する、というような認識でいる。
「市」が土地を登記し始めてからも、その認識は変わらず「市民」にとって「有益」であるとされたものだけが、公共の財産として認められるという奇妙な連帯感が市井には漂っている。
一例をあげるなら、噴水だ。ある時に中央区の一区画に美観目的の噴水が建設されたのだが、最初の三日間で彫像は持ち去られ、レリーフに用いられた金属は剥がされた。建設課は憲兵団に犯人捜しを要請したが、帰ってきた答えはこうだ。
「噴水は残っているじゃないか」
確かに水場は残っていた。だが、水の彫像を象るための吹き出し口は失われ、情緒なくドバドバと垂れ流されているだけとなってしまっていた。当時の建設課課長は「話にならん」とこの件を市民生活課に押し付け、当課は周辺に聞き取りを行った。
結果としてわかったことは、この地区に必要だったのは噴水ではなく井戸だった。この区画では、随分と前から上水道の断線が続いており、区長に修復の陳情をすれども無視され続けていた。住民の中にいた彫刻家が、彼のパトロンである建設課課長をたきつけて、噴水建設のための予算をもぎ取り……というのが顛末だったのだ。
あるいは道にしたってそうだ。今は大店が並んでいる通りは、他に比べて広い道幅を保っているが、仮にそれらの店が潰れて人通りが減れば、瞬く間にバラックが進出して新たな建屋が積み上げられるだろう。無人の家屋をそのままにしておく者などいない。いつの間にか誰かが住み着き、新たな商売を始めている。
一見して無秩序な、混沌の中にも整然とした秩序がある。
おれが歩く道は、ところどころ舗装されている。舗装の材料となっている石材は北区の道路から剥いだ敷石だ。老舗の商店は一目でわかる。煉瓦を使われている、あるいは白っぽいモルタルを盛り上げて鏝絵を仕上げているのがそうだ。
そういった比較的、基礎のしっかりとした建物の上に、木造のバラックが積み上げられている。胴体から奇怪多様な首を伸び広げるキマイラのような街並みが、おれの前に広がっていた。
「これは……連れ込み宿じゃねえか」
たどり着いた『ホテルメイソン』の入り口は、けばけばしい赤色に塗られていた。同伴者もなしに入れば怪しまれるだろうが仕方ない。
おれは戸口をくぐると、簾で隠された受付に声をかける。
「市の建設課から参りまして」
言いながら、おれは自身の身分証をカウンターに提示する。そこには建設課課長ジョン・スミスの名が刻まれている。
市長から与えられた身分証は、虹竜膜を表面に貼り付けた特別製だった。きらきらと七色に色を変えるそれは、撫でれば記載内容を、市の役職の範囲で自由に書き換えることができる。市長直轄の政策室なのだから、これくらいは許されるだろう。
(実際、これは偽造にはあたらない。行政法理を司るところの市長本人のお墨付きなのだから)
簾をよけて、色の白い不健康そうな手が伸びてきた。爪の様子からして女の手だ。
「おや、課長様が何の用だい?花を買うにしては陽が高いように思うが」
声の調子はキィキィと鳴くように高い。
「二〇三号室の件で、市の方でも部屋を確認させてもらいたいと思いまして」
二〇三号室、という言葉に、簾の向こうでピクリと反応した気配があった。おれは間髪入れずに簾をめくり上げる。そこにいたのは人魚だった。水を張った金盥に、下半身をつけている。声こそ枯れて年配であろうと思わせるところがあったが、見目は現役といっても十分に通用するのではないか。
「客ならいいがね、商売の邪魔さ。帰りな」
目を合わせることなく、彼女は言い捨てる。どうにも心証がよくないらしい。しかし先ほどの口ぶりだと、市の職員のなかにも『ホテルメイソン』で娼婦を買う者がいるということか。確かに中央区の中でも比較的しっかりとした構えをしているから、客筋はそこまで悪くないだろう。
「では君を買おう。請求は市長付けにしておいてくれ」
おれは懐から、クリップでまとめた小切手を一枚抜くと、好きなだけの数字を書けと促した。彼女は思いがけないことに戸惑っているようだった。だが迷った末に、彼女は手形をこちらに突き返した。
「言葉のアヤさ……あの部屋にはあれ以来入ってないし、お断りだよ。アンタだけで入るなら自由にしな」
手形とともに差し出されたのは、二〇三号室の鍵だった。簾を払う指先が震えている。彼女は何かを恐れている様子だった。
「君は何を恐れている?」
問えば、女は細い切れ長の目を見開いて、激しい勢いでまくし立てた。
「何をだって!あんたこそ、頭がおかしいんじゃないのかい。神官様のご祈祷が届かなかったんだよ。うちから
しかし分かったことがある。「ご祈祷」という言葉が出たということは、教会から派遣された神官は確かにその場で「
市長がつかんだ報告との不整合は、おそらくその場で口止めが行われたためだろう。後日報告を受けたメルキオール卿も、すべてを把握していたわけではなかったらしい。となると「死体」を攫った神官というのは、もしや結構な大物か?自身の「
おれは黙考し、再び女の目を見た。硝子玉のように光を跳ね返す、瞳孔の無い黒目を覗き込みながら、ゆっくりと問う。
「つまり君は
おれの言葉に、女がヒュッと喉を鳴らした。なるほど、どうやら二〇三号室には、未だに幽霊が滞在しているのではないかと思われている。参ったな、とおれは苦笑した。
おれは答えを待たず、二階への階段を上がる。淫靡な雰囲気を感じさせる、赤い照明の下を二〇三号室へと向かう。
部屋の扉には立ち入り禁止の札が貼られていた。合わせて魔除けとして用いられる印章がドアノブに引っかけられていた。
「馬鹿馬鹿しい」
おれは印章を引ったくると、廊下に向けて放り投げる。そして勢いよく扉を開けた。
何もない。当然のように何もない。
内装は思ったよりも控えめで、普通の宿と言われても違和感がない。「死体」を持ち出す際に、最低限の清掃が入ったのだろうか。部屋には乱れた様子さえなかった。本来寝具にかけられているべきシーツの類もない。
二人用の幅広な寝台を、乱暴にひっくり返す。マットレスを裏返し、見落とされている痕跡がないか確認する。写真の「死体」が置かれていた場所に、同じ格好で寝転がってみる。
何が見える?この「死体」は何を見ていた?
「何もないな」
あるのは天井だけ。まばらなシミがあるものの、それらの間に何らかの意味を見出すことは難しそうに思える。
おれは市長から「死体」の写真を見せられたときから、この事件に
ツン、とかすかな生臭さがする。どうやらこの床に引かれたカーペットから漂っているらしい。おれは腰に忍ばせていたナイフを引き抜くと、敷物を手のひらほどの大きさだけ切り抜いた。
階段を下りながら、おれは受付の人魚に声をかけた。そして先ほどは受け取りを拒まれた小切手を簾の内側に押し込んだ。
「すまない、部屋を荒らした。賠償請求はやはり市長につけておいてくれ」
驚いたような声をあげて、彼女は簾から顔を突き出した。その顔は青ざめて、おれが無事に帰ってくるとは思っていなかったようだった。
「何も無かったのかい」
「ああ、何も無い」
おれの無事を確認すると、彼女は途端に饒舌になった。ようやく話を聞けると考えて、おれは基本的な事柄を聞いて回る。ほとんどは市長からの情報と合致していたが、一点だけ抜けていた点があった。当日の宿泊者名簿だ。
「二〇三号室に泊まっていたのは、男が一人だけだったのか?この手の宿でそれは目立つだろう?」
おれが指摘すると、女は首をかしげて、当日の名簿を改める。
「たぶん……宿泊名簿には一名としか書かれていなかったから。でも言われてみればおかしいね。女が先に上がって、部屋で勝手に客を取るってのは、
おれはその誘いを丁重に断ると、苦笑を残して『ホテルメイソン』を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます