エリオット・L・ルーラー(2)
十三フロアから課に戻る。おれはプロパー職員のリックを呼び寄せる。おれよりも年かさの男が、腕抜きを外しながら席を立ち、課長デスクへと寄ってきた。
「急だが異動辞令が出た。引き継ぎ資料はすでに作ってある。後任は優秀な人物らしいから、安心していい。後のことを任せたい」
ずいぶんと乱暴な投げ方になったが、リックは「わかりました」とだけ答えて、おれの差し出した資料を受け取った。彼は元来に表情の乏しい男だ。
おれとリックの会話を聞いていたのだろう。他の職員らは一様に不安げな表情をしていた。
「皆には悪いが、すぐに出る。わからないことがあったら、リックに聞いてくれ。すぐに後任の課長が来てくれるはずだ」
おれはリックをデスクの内側にまで引き込むと、声を抑えて課長用の金庫の番号を教えた。
「こいつは一見すると普通の暗証番号式だが、実は二重扉になっている。もしも、後任が信用ならなければ、裏の番号は君が管理するんだ」
リックは要領を得ない様子で首を傾げる。おれは金属製の認証盤に
そして今度は
「他部署との交渉に行き詰まったら使うんだ。もしも……後任者が気に入らず、君がこの席に座る気があるというなら、そのために使ってもいい。ただし最低限の約束として、今いるメンバーを大事にしてやってくれ」
リックは面食らった表情を見せた。おれはこの
「わかりました。肝に銘じます」
リックは真剣な眼差しをおれに向けた。
おれは私物をまとめると、あとの処理をリックに丸投げし、庁舎を後にした。
§
庁舎はモダンなコンクリート建築だ。「市」にあって十三階建てという異様なまでの高層建築であり、広大な敷地は地方領主の城にも匹敵する。五十年かけてゴーフル市長が造営を繰り返してきた自慢の要塞だ。
おれは庁舎を出ると、一番道路を南に下っていく。すでに昼下がりという時刻で、屋台の姿は完全に消えていた。昼の二時間の間だけ、飲食屋台の乗り入れが許可されるのだ。
ここ北区には官公庁の庁舎が立ち並んでいる。その他にも市民学校や図書館、療術院といった公共施設もここに集められている。
区画整理されたまっすぐな道を進むと、次第に道路の様子が変わり始めた。敷石が剥がされた跡が増えてくる。それは、ここから先が中央区だという印に他ならない。
剝き出しの露地と敷石が混ざり合ったあたりに、騎士団の訓練所がある。
おれの懐には、一通の紹介状があった。ゴーフル市長から預かったそれは、騎士団所属の「協力者」であるメルキオール卿宛のものだった。
そもそも市職員であるおれに、刑事事件の捜査権などない。まずもって事件周辺を嗅ぎまわるだけでグレーゾーンなのに、捜査協力など望むべくもないだろう。そこで市長に情報をリークしてきた張本人であるメルキオール卿経由で捜査資料を横流ししてもらおう、という算段だったのだ。
だが、事態はそう簡単ではなかった。
「申し訳ございません、メルキオール様は今朝から遠征に出ておられるようで」
受付の従騎士身分と思しい少年が、心底申し訳なさそうに頭を下げる。
おれはできうる限りの笑顔を顔に張り付けて、彼に問う。
「確かに具体的な約束をしていたわけではなかったのですが──困りましたね──予備監査を内々にさせていただくはずでしたが……では、メルキオール卿のご予定を教えていただいても構いませんか?」
市から与えられている予算について、正式な監査で不整合が出ても困るので、貴族相手に失礼の無いように、という名目で予備監査が入るのは通例だった。
おれはどうにかしてメルキオールにあてられた室に入って、捜査資料を盗み出したかったが、それは自重するしかなさそうだ。
「少々お待ちください、出張簿を確認してまいります」
ぱたぱたと走っていく少年を横目に、おれは無人の受付カウンターの内側を盗み見る。来客名簿らしい。おれはそこに胡乱な名を発見した。
「マロウ・ホワイトマンだと?」
マロウはリリィ・ホワイトマンの娘にあたる人物だ。二世騎士である母と違い、彼女は教会に入って女性初の神官となる──はずだった──のだが、尚武の気風ある家格に育ったマロウは、神官ではなく、女性初となる異端審問官の道を選んだのだ。
彼女が騎士団を訪れる理由をおれはいくつか考えたが、おれには今のところ一つしか思い当たらない。リリィの差し金だろう。来訪日時は昨日の夕刻、閉所ぎりぎりだ。
そこへ受付の少年が戻ってきた。だが、彼の顔色は芳しくない。
「お待たせしております、エリオット様。その、申し訳ございません。メルキオール様がどちらに向かわれたのか、わかる者が不在にしておりまして」
少年は目を泳がせながら言葉を濁す。おれは作り笑顔を濃くして、自分の持っている最も柔らかい声音で問う。
「あなたが確認しに行かれた出張簿に、用務先が記載されているはずでは?」
端的な追求に対して、彼はうつむいたまま、泣きそうな声で答える。
「その、役所の方に申し上げにくいのですが、急なお出かけの場合には書類提出が事後的になることが常になっておりまして……その、申し訳ございません!」
おれは参ったな、とポーズしてそれ以上の追及をしないままに訓練所をあとにした。
想像していた以上に、相手の手が早い。
メルキオールは市外に出されてしまっている──それだけならいいが──あるいはすでに市長との内通の事実を暴かれて粛清されたか。
受付の言葉もどこまで本当か怪しいものだ。上役に言い含められたのではないかと思う様子があった。そうするとあの場で過度に追求すれば、おれ自身がマークされる可能性が高まってしまう。早々にあきらめて正解というものだろう。
おれは今後の方策を練る。捜査資料を得るという線がつぶれてしまった以上、事態の把握を一からやらねばならない。となれば、行く先は一つだ。
おれは騎士団訓練所を離れると、一番道路をさらに南へと下っていく。
露地がほとんど剥き出しとなり、人通りが増えてきた。軒が空を覆い、それらがぶつかり合っている。中央区へと入ったのだ。
おれは「死体」が発見された場所、『ホテルメイソン』へと足を向けた。
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