第9話 サスピシャス・セーブポイント②


 同じ頃、真咲ユウリと別れたブラック・リコリスとアンは、偶然にもシードの捜査網が街全体を覆う前にアイアンズ・グラウンドに近い廃ビルに隠れることができていた。埃っぽくて今にも崩れてしまいそうなボロボロの小さなビル。かつては事務所だったのだろう、錆びていたるところが変色したオフィスチェアやデスク、そして何が書かれているかも分からなくなった書類が散らばり、朽ちた観葉植物の鉢がひっそりと隅に鎮座していた。リコリスは最上階である五階のひび割れた窓から、陽が落ちつつあるスティールタウンの様子を仮面越しに窺っていた。


不利な状況に追い込まれているということだけは今どうしたところで変わらない。リコリスの目的は秘密裏に隠された飛行機を修理し、スティールタウンを飛び出すことだ。今見つかれば隠し通すべき飛行機の存在に気づかれてしまう。ひとつ間違えただけで全てが水の泡となるギリギリの戦い。しかも脱出を成功させたところで不利に変わりはない。単純に多勢に無勢という状況をひっくり返すのが不可能だからだ。


「到と魚介が心配か?」


 使える椅子を見つけたアンが、埃をぱっぱとはらいながら問い、腰かける。リコリスは窓の下の壁にもたれながら地べたに座り込み、珍しく全身を脱力させて「ああ」と、聞いただけでは素っ気ないように思える口調で答えた。


「心配……していると口だけではどうとでも言えるな」


「俺には心配で心配で落ち着かないといった“顔”に見えるがな」


「そうだな……」


「もとよりあの二人は計画に含まれていなかった。俺たちは二人でレースに出場し、金を払って一直線にゴールドランドにたどり着くハズだったが……いや、実際役に立った。レースでは彼らがいなかったら死んでいただろう。だがそんなのは結果論だし、何より現時点で予定と違う行動をしている。だとするとお前は……」


の共通の目的はたったひとつ。カインを殺すことだ」


 人差し指を立てて、リコリスがきっぱりと言った。


「そうだ。だったら何故こんな面倒な回り道を……いや、飛行機のことじゃない。子どもたちのことだ。それも片方は足が無い。車いすを押してカインに挑むつもりだったのか?」


「そのくらいのハンデがあっても面白いな」


「茶化すな!」


 電子音性とはいえ、アンの声には明確な怒りが含まれており、立ち上がってリコリスを見下ろすその骸骨の体は握った拳を今にも振るいそうだった。


「博士あんた、カインの魔核能力を覚えているか?」


 まるで怯むことなく質問で返され、アンは暫く返答に悩んだ。遅れて否定的に首を振り、「なんの話だ?」と聞き返す。


「奴は女性の心を操れる。意のままにな。敵意を好意に捻じ曲げ、反抗を服従に上書きできたんだ。私たちエージェントが揃いも揃って女ばかりなのもそれが理由だ」


「……それが、二人と関係あるのか?」


「ある……と言いたいが、アマビエはまた別の話だな」


 リコリスはアマビエの名前を出したとき何故か含み笑った。


「カインの力には致命的な弱点がある。ひとつは女しか操れないこと。もうひとつは能力を解除する方法があるということだ」


「呪文でも唱えるのか?」


「間違ってはいるが、呪いって意味で捉えるなら合っている。私は……ッ!!」


 リコリスがアンに向かって手を伸ばした。酷く慌てているらしいことに気づいたアンだったが、その意味に気づくよりも速く彼の体の骨組みの内胸より下がバラバラに砕け散ってしまう。腕と頭だけになったアンを素早くつかんで抱え込み、リコリスは机の残骸の影に飛び込む。幸い発声装置は壊されず、アンはすぐさま状況を見極めんとする。その体が砕かれる瞬間、ヒュンと風を切る音が聞こえたことを思い出し、率直に狙撃を――――それも弓矢によるものだと想起する。


「ホワイト・ヘリアンタスか……?」


「こんなにも速く追いつくだろうか……」


 姿なき敵の攻撃はまだ止まなかった。無論、やみくもに矢を乱射するような真似はせず、先ほどアンを撃ち抜き、床に突き刺さった矢に取り付けられたシリンダーが開き、緑色の煙をまき散らして瞬く間に部屋を満たしてしまったのだ。視界を奪われまいとリコリスはすぐさま部屋を飛び出しビルの階段を降りようとするが――――


「リコリス! 体を見ろ!」


「!!」


 戦闘服から僅かに露出した首や指先などの地肌が熱した鉄板に触れたような感覚に襲われた。ガスに腐食性があったのだ! 侵食された服をすぐに脱ぎ捨てて黒のタンクトップとズボンだけになり、ポーチから取り出したアンプルを割ってガスを浴びた部分に乱雑にかけた。リコリスが“あるエージェント”と闘うことを想定し、ガス対策に用意した中和剤だ。


「おい大丈夫なのか」


「平気だ。幸い私の仮面はガスマスクとしての機能もあるからな」


「やはり敵はエージェントか?」


「ああ。だがあの子ヘリアンタスじゃない」


「じゃあ誰が……」


 アンが問いかけようとした瞬間、二人の右隣の壁が突如として粉々に砕け、鼓膜を破るのに十分な爆音と、人ひとりを吹き飛ばすのに十分な衝撃が発生した!さすがのリコリスもまるで対応できず、反対の壁に打ち付けられ、巨大な瓦礫を全身に浴びせられた。彼女の手を離れたアンは床を滑って仰向けに倒れたままになり、しばらく起き上がるどころか指一本さえ動かせなかった。


「リコ……リス……!?」


「っ……ここにいる……!!」


 掠れた声で返事をして、這いずりながらアンのところに寄る。爆発の瞬間、リコリスは体を反転させて無事な右腕を庇った。ギプスの外れていない左腕を犠牲にしなければ、完全に反撃の芽を摘まれてしまうからだ。とはいえ、全身ダメージを受けて立ち上がることにもかなりの時間を要するような状態。姿の見えないスナイパーと相対するにはあまりにも大きなハンディキャップだ。アンも自力で起き上がることができず、状況の整理も追いつかぬまま。それでも敗北だけはするまいと、なんとか辺りを見回す。今縋るべき蜘蛛の糸を見つけ出すべく――――


「――――!!」


 無い。蜘蛛の糸も、一枚の舟板も、そんなに都合よく手元にあるはずがない。だがアンはそれに気づくよりも早く、アイアンヒル脱出のときに自らを救った少年のことが脳裏を過った。結城到――――あの少年ならどうする? 年端もいかぬ子どもが、あんな細い腕で、特別な力など何一つ持たず、その上に足を失ったというのに、彼は強大な敵に立ち向かえた――――


(まったく……今思い返してもやはり狂っているな……)


 あんなものは単純な心の強さではないと結論付ける。狂気が無ければ、狂っていなければ、あんな子どもがレッド・クローバーに勝てるはずがない。そして、今のアン自身にとっても同じことが当てはまる。記憶も肉体も失った亡霊でしかない彼にとって、頼れるのはその骸骨の体と、だけ。


(クレイジーな発想無しじゃ、俺たちは勝てない……!)


「……何をするつもりだ?」


 アンは下半身を失って尻尾のように垂れ下がっている脊柱に手を伸ばし、あばら骨とつながっている部分を残してそれより下をへし折って、両手でそのを確かめた。これを鞭のように振るって戦う作戦だ。幸いアンデッド故か痛みは全くないし、動きに何の支障もない。僅かに残った尾てい骨を瓦礫で研磨し、鋭く磨き上げて槍としても使えるようにした。


「それで闘うつもりか」


「お前もその怪我だ。今勝つには、俺たちが力を合わせる以外に方法は無い。そして……到がそうであったように、全てを賭けなければ立ち向かえない」


「……だな」


 右腕のブレードを構え、リコリスが闘う姿勢をとる。


「誰なんだ?」


「カラーレス・チカ……私の師だ」


「チカなんて名前の花あったか?」


「知らん。とにかく危険な女だということは間違いない。まずは建物を出る。お前をどうやって運ぼうか……」


 思案を一瞬で終え、ズボンの裾を帯状に破ってアンと背中合わせになるよう互いの体に括り付けた。敵が見えないということは、敵の居場所を割り当てなければ勝てないということ。勝利の鍵となるのは二人の視覚。互いに見えない範囲をカバーしつつ、足の無いアンを移動させることのできる最良の手段だった。


「お前、背中から倒れるなよ」


「ああ、お前の骨が刺さって死ぬのは勘弁願いたいからな」


「いや、お前の体重で俺が粉々になるのは勘弁願いたいんだ」


「……覚えてろ」


 ドスを効かせた声で囁いてから、リコリスはビルの出口を目指して走り出した――――

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