第4話 デッド・オア・ドライヴ①

 到にとって、寝苦しい夜というのは最早当たり前のものだった。安らかに眠れる日など、事故以来でなら両手の指で容易く数えられる程度しか訪れたことがない。まるで刃の立ち並んだ無数の触手が足に絡みつき、骨まで食い破って引きちぎられるような痛みが、まぶたを閉じる度にやってくる。コイツはつま先からゆっくり昇り、膝のあたりにたどり着いた途端に万力のように力を発揮するのだ。しかも質の悪いことに、コイツは到が地球を離れてなお、到の裾に張り付いていたようだ。そう、アイアンヒルが闇夜に包まれたと同時に目を覚まし、何も変わらずヌルリとした感触を蔓延らせる。工場の固いコンクリートの床に直接敷かれた布団が眠れない理由ではないと気づき、静かに拳に力を込め、


 苦しい――――あの痛みが来ると思うだけで到は息が詰まり、涙がにじむ。短めに切った筈の爪が手のひらに食い込み、奥歯がギリギリと嫌な音を頭に伝わらせる。存在しない脛のあたりに、冷たく触れるものを感じ――――


「……!!」


 違う。到が咄嗟に目を開けると、突如として体全体がゆっくりと落ちていく感触に見舞われた。到はそれをよく知っている。


(海……?)


 海に引きずり込まれ、沈んでいく夢だ。しかし眠ってはいない。意識はハッキリしていて、ただ目を閉じているだけなのに、夢と同じ暖かい海水に包まれている。そして何より、あの小さな手が――――


「行かないで!!」


 真っすぐに伸ばした手が向かった先は、今度こそその柔らかい肌を掴んだ……が、到はそれが手ではないと即座に気が付く。指の形だとか、手のひらの皺のディテールとか、そういったものが何もない。布っぽいサラサラとした手触りと、手の骨格ではあり得ない指が沈むほどの柔らかさ。


「……あれ?」


「目が覚めたか?うなされてたぞ」


 焦点がうまく定まらない視界の中で、だんだんと本来の輪郭を取り戻す黒いシルエット。ブラック・リコリスが仰向けに寝そべった自身を覗き込んでいることはこの時点で察せられた。が、その手が一体どこに向かったのか、危険性さえ理解しながらも吸い付いたように離れない。


「イタル、そろそろ離してくれ。くすぐったい」


 リコリスが伸ばされた到の腕をそっと掴み、引き離すように僅かに力を込める。到はようやく視線をそちらに移し、薄手のインナー越しに彼女のたわわに実った乳房を鷲掴みにしていることを認識した。


「うわあ! ごごごごごごめんなさい!」


「大げさだな。減るものじゃないからいいよ。それに、私たちは裸の付き合いをした仲じゃないか」


 赤面し後退る到を見て、リコリスはクスクスと含み笑う。言われた到は彼女のセーフハウスで直に見た裸体を思い出し、真っ赤に染まった顔が余計に熱くなるのを感じていた。


「リコさん……意地悪いです」


「悪党だからな」


 リコリスは冗談めかして答えたが、到はそれ以上追及できなかった。彼女は未来の結社のエージェント。あのシードという暗殺集団を率いる戦闘員の一人だった。さっき見た彼女の戦闘技術からも、その手が何度も血を浴びたという事実にたどり着くのは容易い。暫く沈黙が続き、到はどうにか会話を続けるべきかとも考えたが、リコリスが彼の頭に優しく手のひらをのせ、


「イタル……もう寝ろ。明日、もう一度能力を試す」とだけ言ってしまい、布団に戻る口実だけが手元に残るのだった。


「ええ……おやすみなさい……」


 仮面のエージェントはさび付いたパイプ椅子に座り、眠っているのか起きているのかも分からないままじっとしている。到はそんな彼女に背を向け、一抹の不安を抱えたまま再び横になった。


 ――――その夜、再び足の痛みが襲い掛かることはなかったが、次の朝には忘れてしまうような奇妙な夢を見た。それは真っ白な――――





 翌日、イヴは滅びていなかった。


 到にとって初めて迎える異世界の朝だ。輝く陽の光が決して爽やかに思えないのは、足だけ夢の中に取り残してきたような不快感ばかりの幻肢痛に未だ見舞われているせいかもしれない。叫ぶほどの痛みではないが、膝から下を雑巾搾りの感覚で捻じられているかのようだった。目は覚めているのに、到は寝そべったまま動く気になれない。睡眠欲は消え去っても、本来湧き上がるはずのやる気、動く気力に重い蓋を被せられたようだった。


「たーるったる! 起きて起きてー!」


 けたたましいモーニングコールにどうやって文句をつけようかと、到は妙にテンションの高い自称人魚に据わった目を向けた。


「ほーら朝だぞー! おっきしておっき! おっきーおっきー!」


 アマビエによって布団を略奪され、彼女の手伝いでやっと重たい体を起こした。小さな女の子に介護されっぱなしの自分が恥ずかしくて仕方がないと、到は下唇を噛む。そんな彼を他所に、アマビエは鼻歌を歌いながら車いすをアンの作業机まで押す。はんだ付け後の焦げ臭いにおいの中、骸骨男のアンが手元でスパゲッティのように絡み合う色とりどりのケーブルと、それが繋がれた機械を弄繰り回している。


「到、ついさっき完成したところだ」


 アンは到に気づくと、機械に繋がれたケーブルを手で束ねて一気に引き抜いた。


(昨日の注射といいこの人結構乱暴だなぁ)


「あり合わせの素材で作ったからちょっと無骨な感じになっちまったが、歩くだけなら不便は無いだろうに」


「夜通し作業してたの?」


「オバケだからな」


 そう言ってアンは車いすの前にしゃがみ、機械を取り付け始めるかと思いきや、取り出したのは緑色の薬品の入った注射器だった。


「いだっ!?」


 有無を言わさず容赦なく薬を両膝に撃ち込まれ、思わず到は涙目になる。


「何を……」


「義足を操作するためのナノマシンだ。お前の脳から送られた電気信号――――即ち『足を動かせ』という命令を義足に伝えるためのセンサーってとこだな」


「そういうのは先に言ってよ!」


 真っ当な文句も右から左へすり抜けているのか、アンは手際よく義足を到の両足に装着していく。駆動部やケーブルが露出した正に出来合いの機械だが、到は着々と組みあげられていく自らの新しい脚に関心せざるを得なかった。やせ細った太もものあたりにベルトで固定し、クッションを挟んで金属の足が完成していく様にその場にいた誰もが息を呑む。


「さ、立ってみろ」


 両足とも取り付け終えると、アンはそれだけ言って特別な説明などしなかった。アマビエが到に手を貸そうとするのを、リコリスが制止する。期待していたとはいえ、久方ぶりに“立つ”という行為をする。到の頭は戸惑いでいっぱいだった。膝から先に突如として現れたに、果たして身を任せていいのだろうか? 縋るように背後のリコリスに目を向けると、彼女はすぐに、力強く頷いた。


(……黙ってやるしかない!)


 到は気づく。アンの技術を信じる信じない以前に、自分自身の“意志”無しに、一体何ができるだろう。そして呪詛のように胸の内で繰り返し唱える。リコリスやアマビエに頼り切りだった自分が悔しかったのではないのか?と。


「立て、到!」


 二つの声が重なって聞こえた。リコリスと、到自身の心の声だ。どちらの声も錯覚ではない。その背中を確かに押してくれる、形ある声だ!その瞬間に到は息を思い切り吸い込み、下半身に力を込めた!


「……ッ!!」


 景色が一気に変化する――――高い。そして、周りのものが小さく見える。少しふらつきながらも、到はで、しっかりと床を踏みしめて立ち上がっていたのだ!


「……ぼく、立ってる!!」


「やった!! たるたるもアンちゃんもすっごい!!」


 アマビエが到の腹に飛び掛かり抱き着く。その小さな体を受け止めてなお、到はバランスを崩さない。口角が自然に上がっていくのを抑えられず、到は何年かぶりの無邪気で自然な笑顔をリコリスとアンに見せた。


「すごい!! ほんとに立てたよ!! ありがとうアンちゃん!! リコさん!!」


「私は何もしてないぞ。礼はアンに言ってやれ」


「俺も特別なことはしてない。お前が二足歩行を忘れてなかっただけさ」


 茶化す二人を他所に、到は調子に乗って何の補強もしていない細い腕でアマビエを抱き上げようとして―――――


「うわーお! 高い高い!」


「あはははは!! ……あ、無理」


「え? うびゃあ!?」


 今度こそ背中からぶっ倒れた。


「エビちゃんダイエットしようか」


「やかましいわ」

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