第10話
カズキのストーカー騒動は終わった。久しぶりに早起きの日曜日。朝起きて歯を磨いて、口の中にトイレットペーパーを突っ込んだ。
こんにちは。私。
こんにちは、私です。
自転車をぶっ飛ばしていた。久しぶりに自転車に乗った気がした。駅の近くにある住んだこともないアパートの駐車場に自転車をいつも通り停めた。珍しく外は晴れていて、珍しく過ごしやすいくらいに涼しかった。雲がゆっくりと動いている。まだ午前中だ。
久しぶりのデートの約束だった。
窮屈な電車の中で、どうしても生理的に受け付けない顔面の奴がちらちらとこっちを見ている。私は吊革を掴み、正面をただ無表情で見つめている。彼は私の目の前の席に座り何かもぞもぞと動いている。私は久しぶりに性癖異常者や万引き常習犯やおもらしストーカーのことも考えずにこの人間の顔面によりほんのりとイライラしていた。そのうち目の前の男はポケットから携帯を取り出し、ニヤニヤと画面を見た。あまり見ないような、異常に画面の大きなスマートフォンだった。無駄に肌の綺麗すぎる大きな顔、目は無駄なほどくっきり二重まぶた。兎に角好きになれない鼻の形で、髪はピョンピョンはね放題。そのうえスーツで、出来る男気取り。体型、普通。ただ不愉快だ。決してブサイクな訳ではないが、私は今目の前にある光景がとても不愉快でならない。ほんのり香るナルシストな香水の匂いが癇に障る。仕草も髪型も。全て嫌い。こんなに癇に障る顔の人に今まで出会った事が無かった。快挙だ。私の耳もとで、こもった音の「がたん」と「ごとん」。あと何分だろう。げ、あと10分もある。てめえ、早く降りろ。今とても真剣な顔で電車に乗っている私だが、頭の中はこいつで汚染されてゲロの洪水で大惨事。なんてめでたいのよ。こいつは普段、気持ち悪い女でも連れて歩いてるに違いない。そしてその彼女を世界一可愛いと勘違いしているんだ。『次は中野、中野』
視線を、電光掲示板に移した。
「ヴォうえぇええええええええ!!」
「…あ」
私には、きっと癖があった。
とんでもない状況とクズのような人間に囲まれると、愛しているのにクズな人のクズな部分を全く忘れていい思い出を並べて見せるの。
お父さんのことだってそうだ。
心が寂しく凍りつくと冷静な私を呼び起こすために夢を見る。全然平気な顔をしたくなる。お母さんが心の病気になった瞬間私は、お父さんのゴミの部分を忘れて完璧に良いお父さんだったことにしたくなった。ゴミ箱にしまった。透明のゴミ箱に。
透明
【 まるみえ ! 】
この日なんてまさにそうだった。彼とのいい思い出だけをくり抜いて心の映画館でリピート再生。なんて幸せで心地いいんだろう。踊りだしそうよ。大好きで自慢で何も不満が無い。まさにそんな催眠術を自分に、ハッピーな催眠術を自分に。幸せ。これが幸せ。私は幸せ。彼と居ることで、頭の中がが毎日お祭りのようだった。私達は、いたって普通のカップルだ。セックスもする。したいからする。セックスが楽しいなんて言うのは、ごく一般的で普通の話だ。こんなに楽しいスポーツないでしょう。こんなにワクワクする遊びないでしょう。こんなに幸せな儀式、他にないでしょ?ていうか、あんた達はしないとでも言うのか。女の子は便も屁もしなければ交尾もしないだなんて、ちゃんちゃらおかしいわ。
私は、セックスが好きなわけじゃなくて彼とのセックスが好きなんだ。そう地を這い蹲るような経験をしてきっと気づいた。
どんな経験だったかは、とっくに忘れた。
私は彼を裏切らないし、彼も私を。
簡単なことを言えば私は彼が大好きで、二人と居ない存在で、居て当たり前で、つまり、愛すってこうゆうことよ。
そんなことを、何回も言い聞かせた。
「ポッキー食べる?」
ポッキーを彼が一本だけくわえながら私の目の前に差し出す。カーテンの隙間から日が入る。私はポッキーと彼を二度見してから
「食べるわ、たかがポッキー」
と満開の笑み。
「…たかが?」彼が不満そうに眉間にしわを寄せる。元から切れ長の細い目を、もっと細くしてこちらを見るので何故か私は嬉しくなった。
「たかがポッキーばんざい!!痛い痛い」
彼が私の髪の毛を引っ張る。そのまま彼は私の頭を包み込んだ。ふんわりいつもの柔軟剤の匂いがして、目を瞑った。この世の全ての星の生物を全員集めて恋愛ごっこをしたって彼ほど好きな人は居ない。このぬくもりに包み込まれるたび、そう心の中で何度も再確認した。いや、そうじゃなくて彼以外はとても興味がない。つまらない。なにがいいのか、どこがいいのか、自分が一緒にいて何がプラスになるのかわからなかった。全国民に言いたいわ。あなたのいいところはどこでしょう。あなたのいいところを、わかりやすくプレゼンテーションして下さいな。
逆に
私のいいところは、どこでしょう。
包み込まれた空間がいきなりぎゅっと狭く暗くなった気がした。どんどん闇へと落ちてゆく。音もせず、今日の私のスカートの上を思い出した。スカートの上は私に忘れろというように小花だらけだった。目を瞑ると私たちをあの女の人が見ていた。
『俺の名前は、山田太郎だーーー!!!!』
私は彼を突き飛ばした。
彼はソファから落ちて地面に頭を打つ。呼吸が荒くなる。頭の中が、パニックだ。あの時と同じ。瞬きをする度、ぐっちゃぐちゃのつぶれたカエルがお父さんの足に絡み付いて、犬が遠くに吠えるように泣くお父さんが居た。足をいかやきにしてしまおうとした血だらけの風呂場で私を何度もビンタするお母さんも居た。綺麗な女の人と歩く彼も居た。おもらしをするカズキも、耳元でささやくアキさんも、コンドームだらけの鞄を持ってウィンクする元気くんも。
現実から逃げて逃げて、一気に追いつかれて襲ってきた。
食べられる。現実に食べられる。
「見たの」
私は震えた声で言った。頭が痛い。自分の髪の毛をぐしゃぐしゃにして頭痛を誤魔化して、震えた声で彼の目を見て冷静に話した。
「きのうのきのう、あさ、見たの」
「…」
「お前が、ちがうおんなのひとと、見たの」
「…」
「悲しかったの」
「…」
「なんか言えよ」
「別に」
「…え?」
「付き合ってないって言ったじゃない」
耳鳴りがした。
「だって」
彼の顔を見ると、子供に戻ってしまいそうだった。たくさん、彼との思い出を思い出して涙が零れ落ちた。溢れ出た。もうみちみち。もう、満ち満ち。
私を拾ってくれたのに。
ささいなことだ。
名前を知らないのも、付き合ってないという事実も一緒に居られてたんだから。
他の女と歩いてたのだって、勘違いかもしれない。
全てが、ささいなことだ。
大げさではないことだ。
なんてこともないことだ。
なんでこんなに好きなんだろう。
※これは少女マンガではありません
「私だって、うわきしてるから」
「…」
「おまえに、隠し事もいっぱいあるんだから。おとこと、あんなことやこんなことだってしたし、しかも、一人じゃないから。いっぱいだから。たのしかったんだから」
「知ってるけど」
彼が、興味無さそうに煙草に火をつけた。
「悔しくないの」
「別に」
「はらたたないの」
「たつよ」
「このまえの、あれは?」
「仕事のヤツだよ。一緒に居たくらいでなんだよ」
「え?」
「お前なんて、キスとかしてたじゃん。しかも路上で。べろっべろされてなんにもリアクションしないの見てんだよこっちは」
少し声を上げて、彼が言った。
「だって付き合ってないんでしょ?」
「またそれか」
「そんな私に何も言わずなぜ」
「さあ」
「へんだよ!きちがい!」
私は叫んだ。
彼は一度目を伏せて、灰皿に煙草の灰を捨てた。
「しらねえよ、…気持ち悪い」
初めて彼が、私を軽蔑した目で見た。
頭が真っ白だ。
「気持ち悪い」
もう一度にやにやして彼が言った。涙は、垂れ流し状態だった。私は近くにあるクッションを投げた。
「好きなら好き嫌いなら嫌いと、言え!!」
「うぜえ、まじ、うぜえ」
「言え!!!!」
私は彼の胸倉を掴んだ。すると彼は私の髪の毛を掴んで私を突き放した。私は彼の腕をかじる。そこからは、大乱闘だった。まるで、スマッシュブラザーズ。
いえいえ。
お互いアザだらけの私は涙で顔もぐしゃぐしゃだ。兄妹喧嘩みたいに二人とも折れず、「ばか」だとか「ぶす」だとか言い合いながらずっと二人で痛いところを叩き合った。痛くて心が折れそうだった。が、憎しみが勝った。なんで私が、こんなに辛い想いをしなければならないんだ。こんなに泣かなければならないんだ。なんでこんなに辛いんだ。誰か、一緒に居て。誰かと言うか、誰かと言うか…
ゴンッ
ごつっ
一瞬だった。
二発だけ。
すろーもーしょん
二発だけ
ごんっ
って。
ゴツッ
って。
「…ねえ」
「ねえ」
「ねえ」
「ねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえ」
灰皿で、彼を
彼の頭により床は赤く染まり、彼は何も喋らず動かなくなったので彼の色んなパーツに耳を当ててみた。「もしもし」何も聞こえない。もちろん、股間からも。どこも動かない。
私は、
すっからかんの脳みそで、彼の隣に血だらけになっても気にせず、寝転んだ。
ささいなことだった。
名前を知らないのも、付き合ってないという事実も一緒に居られてたんだから。
他の女と歩いてたのだって、勘違いかもしれない。
全てが、ささいなことだ。
大げさではないことだ。
なんてこともないことだ。
馬鹿になるくらい好きなんでしょう。
ピンクだ。
彼の居ない世界を、私が作ってしまいました。
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