第8話

夜、電気を消して彼の隣に寝転がった。天井を見つめて、外から入る風で涼しんでいた。彼も天井を見つめて、二人でいやらしい雰囲気になることもなくぼーっとしていた。彼の手をそちらも見ずに握ってみた。小さな力で握り返してきたので「はは」と突然笑ってみた。窓の外を見ると、半分くらいしか無い月が私たちを見ていた。なんだかおとぎ話のようで、ミュージカル風の音楽が聞こえてきそうだ。歌詞が英語の、よくわからないやつ。

コンコン

と扉を叩く音がした。インターフォンがあるのに、どちら様だろうか。もう深夜の1時を回っていた。一度気のせいかと思い無視すると、今度は少し遠慮がちに『コンコン』と音がした。眉間にしわを寄せ、起き上がり彼から手を離すと彼は私の腕を掴んだ。

「こんな時間に変じゃない」

小声でこっそりと彼が言った。

「…でもなんか」

言い終わる前に、またコンコンと鳴った。彼は私の代わりに玄関に歩いて、のぞき穴を覗いた。首をかしげて、こっちに戻ってくる。

「誰も居ない」

「いたずらかな」

「おばけじゃない」

「真顔で言うのやめてよ」

「え?」

彼は突然キスをしてきた。「なんだぁ、おい」と私が笑うと、窓の外から何か歩き回ってるような音がしたので私はとっさにカーテンをめくった。一瞬だけ、人影が見えた。見覚えのある、顔だった。その人影は間違いなくカズキで、鳥肌が立った。

「なんか居た?」

しばらく動かない私に、少し心配そうに彼は言った。

「なにも」

カズキは、奇妙なほど真っ黒な目でずぅっと何かぶつぶつ言いながらこちらを見ていた。

次の日は、レストランだった。頭の中は、アキさんだった。トラウマになるくらいのあの夜を、何度も思い出した。彼が寝ぼけた顔で「いってらっしゃい」と言った。カズキが何をするかわからないので、一人で彼を家に置くのは嫌だったが仕方なく「いってきます」と言った。色々とやる気が出なかった。というより、身の回りに危険がいっぱいに思えた。

なんでこうなってしまうんだろう。

「おはようございます」

アキさんと目があった。優しくいつも通り微笑んで「おはよう」と言ってくれたが、今はそれもなぜか怖いように感じた。案外、いつも通りの空気で時間は過ぎていくように思えた。アキさんも、態度を変えることなく私を見て笑ったり、普通に話しかけてきていた。考えすぎなのかもしれないが、逆に私のほうが調子が狂ってしまうようで気疲れしていた。好きなわけでは無く、こんなに一人の人を意識して見てしまうなんて今まで無かった。警戒とも違う、常に距離を測っている空気。休憩室で、首を振る扇風機を見つめながらぼーっとしていた。上の空と言うよりは、考えることが山ほどあったのだ。どうして私の浮気相手は性癖異常者とストーカーなのだろう。そんな、他人が聞いたらくだらないと思うような内容だった。コンビニで買ったどこのブランドかもわからない安いコーヒーを中途半端に残して、読んでもいないのにひたすらラベルを眺めていた。やっぱり、キチガイの周りにはキチガイが集まってしまうのか。突然ドアが開いた。

とっさに振り向くと、優しい顔で疲れたアキさんが隣に座った。

「おつかれい」

少し固まってしまったが、いつも通りの口調で、表情で安心してしまった。それと同時に一瞬にも満たない時間だが、悪魔のアキさんが頭をよぎった。

「お疲れ様です」

「元気ないの?」

「いえ。ちょっと、もー暑くて」

「はは、夏バテ?」

「違いますよ~」

アキさんは、さほどこの前のことを気にしてないようだった。と言うより、覚えてないのだろうか。そんなことは、絶対にあり得ないはずだ。アキさんはコンビニの袋から質素なパンを取り出し、頬張った。私はそのパンを見つめて、この前の私はこのパンみたいに…と史上最強にくだらないことを考えていた。その表情を見て、アキさんは普通のトーンで言った。

「次いつ遊ぼっか」

「…」

言葉が出なかった。

「また会うでしょ?」

パンを頬張りながら、何事も無いことかのように言った。

「あの」

「わかった。清純ぶってんでしょ?」

「…」

「普通のセックスしかできないと思って拒否?いや、現に出来てたから大丈夫だよ」

もぐもぐと口の中にあるパンたちを噛み砕きながら、普通のトーンで、いつもの表情で言うので不思議な感じがした。これはアフレコでしょうか。この人は、誰でしょう。

「私やっぱり…」

「本命が居るから?」

「…」

「そんなの関係ないでしょ。元からそうじゃない」

アキさんはパンのゴミをくるくると綺麗に巻いて袋に入れ、口をしばってゴミ箱に投げた。それはふたが開いてるゴミ箱に、外すことなく入った。全身鏡で、エプロンを直してからアキさんは私の目を見つめた。怖くて、私は少しで逸らした。すると、アキさんは私の耳元で「よかったくせに」と少し低い声でささやいてまた微笑み、休憩室を出た。しばらく体が動かなかった。叫んでしまいそうだった。もしここで叫んでしまうとしたら、私はなんて叫ぶのだろうか。そこから、私は普通に働けていただろうか。記憶が全然無いまま、夜になって気がつくとタルトに居た。タルトさんが、私を心配そうに見つめていた。いつだって何も話さなくても、タルトさんにはわかってしまうのだ。何も聞かずにいてくれたが、私は鏡を見て上の空で、鏡の中の自分に話しかけてしまいそうな気持ちでいた。タルトさんが、美しく鏡の端っこに写っていた。

「タルトさん」

鏡の自分から目を離さず、話しかけた。

「なあに」

誰よりも優しい声で、タルトさんは返事をする。

「キチガイの周りには、キチガイが集まるのよ」

「そりゃぁそうねえ、一緒にいれるってことは、どこかが同類なのよ」

お父さんみたいなことを言う、タルトさん。

「でも私、性欲異常者と、ストーカーは嫌いだわ」

「そりゃわたしだってそうよ!何言ってるの」

タルトさんが高らかに笑う。

「でも、わたしもそうかもしれないわ」

彼の顔が浮かんだ。鏡の中の自分の片目から、水が一筋流れた気がした。鼻の奥で、クラゲの大群が暴れだしそうなのを必死になだめた。私は、何がしたくて何を知りたくて何にビビッているんだろう。私という生物は、キチガイ科に属しているのかしら。ささいなことが、寂しくて仕方ない。頭の中で、色んな人々が歌って踊って暴れている。頭が痛い。ずっしりと、首から上が重く感じた。

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